緊迫の気配
階下の状態は、特に異常は見られなかった。
待機していたコマのみ、その変化は見知った物であった。
誰の手も触れず、全ての物があるべき位置へと戻っていく。
この家の中では至極当然の出来事であるが、その不自然極まりない状況は、コマの気分を複雑にさせている。
だが文句を言う立場ではない為、目を閉じ、音をも聞かぬ振りをしてやり過ごすしかなかった。
「なんだ、やっぱり戻す必要はないじゃないか」
扉から出て来た時よりも、青い髪になったカラスに視線をやり、階上に姿を現した楓を見て、コマは少し安堵した。
そんなコマを見て、つまらなそうに鼻を鳴らし、カラスは白いソファに指を滑らせる。
「そうだプレゼントの日はまだ少し先だが、今回は何がいいのか言え。当日ここに来られるとは限らないからな」
そんなカラスの言葉に、階下へとおりてきた楓は父と共にカレンダーへと目を向けた。
十二月二十五日のクリスマスには、太い赤線で大きく丸がつけられている。
楓の母がいる頃からの取り決めで、この日は楓がプレゼントを貰える日になっていた。
「言えとはなんだ。楓ちゃんに命令する気か」
「……あー、めんどくせーな。もう俺とは関係ないから、やる必要もないのに声かけてやってるんだろうが」
「そういう態度でのプレゼントなど、貰う側も気分が悪い」
「パパ! いいの。だって、カラス先生は光が嫌なんだから!」
険悪な雰囲気の二人を、楓が止めに入れば、眉間にシワを寄せたカラスが睨みつけた。
それを見て、楓父が口の端を持ち上げる。
「そんな態度をとっていれば、当然の結論だな」
「うるさい」
からかう楓父の口調に、カラスは呻くように声を出した。
楓は余計に険悪にさせてしまったと、目を丸くする。
「あの、プレゼントなんですけど。ずっと聞きたかった事を、聞いてもいいですか?」
「へぇ。だいぶ自分の意見を言えるようになったのか。なんだ、言ってみろ」
「仰ってください、お願いします。と言え」
即座に訂正を要求する楓父に、カラスは聞こえない振りを貫く。
楓は言いにくそうに小さく口を開いた。
「どうしてクリスマスが、プレゼントをくれる日になったんですか?」
「……そんな事か?」
呆れた顔で楓を見て、楓父へも視線をやれば無言で視線を返される。
自分に聞かれなかった事を、答える気などさらさらないのだろう。
カラスは大きく息を吐き出した。
「お前の母親が決めた事だ」
「でも、理由があるでしょう?」
「……本当に分からなくて聞いているのか? 少しは自分で考えろ」
「考えたの。この前聞いた事で、そうじゃないかな。と思った事はあるの」
ゆっくりとカラスから目を離さずに、言葉を続ける。
カラスは目を細め、先を促した。
「それは、パパが吸血鬼だから? クリスマスは神様の日なんでしょう? パパやカラス先生が人間じゃないから、ママはそう考えたのかな」
「……そうだろうな」
「そうに決まっている。彼女は私の為に、その日を作ってくれたのだ」
「お前だけの為じゃねーだろ」
深くうなずき肯定する楓父に、カラスが強い調子で詰め寄った。
楓はその様子に、閃く物を感じ取る。
「カラス先生も、ママの事が好きだったの?」
突然の発言に、楓父に掴みかかっていたカラスは酷くぎこちなく動きを止めた。黒い短髪がザワリと逆立つ。
怒りとも取れる複雑な表情で振り返ったカラスに、楓は大きくうなずいて見せる。
「そうよ。他に好きになってくれる人がいてもおかしくないもの」
「ふざけるなよ。彼女は光だ、その力を俺が狙ってただけの話だ!」
「でも、ママにプレゼントしてたんでしょう?」
さらに顔が赤くなるカラス。ネキがいれば、図星ねと言い切っていた事だろう。
「そうだ。だからなんだ? 光の力を手に入れる事が出来るなら、何でもするさ」
「そうだったな。別段用もないのに、怪我をしていないか。病気になっていないか、しつこいくらい家に来ていたな。だが、最終的には彼女は私を選んだが」
「……俺は、もう十分答えた。これ以上は誰が話すものか!」
「カラス先生。ごめんなさい」
ネキにされた事と、同じ事をしていると気がついて。楓は神妙に口を結んだ。
大きく舌打ちをしたカラスが、楓父を睨みつつ、
「断固として、抗うべきだった。来年のプレゼントはない物と思え」
「そうなると、庚が悲しむだろうな。今までと変わる事なく、楓ちゃんにも愛情が注がれる事を望んでいた」
白々しく肩をすくめ、楓父は楓の肩に手を優しく乗せ、カラスには一言、帰れと告げた。
彼は片手で青い髪を乱すように掻き、ふと思い出したように話をかえた。
「そうだ、くだらない事で忘れる所だった。あの神経質なおっさんとの連絡が取れないぜ」
話を変えさせないように、たたみかけようとしていた楓父は眉をひそめる。
「ジャロック卿とか?」
「そうだ、それに吸血族の住処のキナ臭い噂が飛び交ってる。何かが崩れた、とな」
「ジャロック卿が……いや、まさか。そんなはずはあるまい」
「あー、とにかく伝えたぜ」
さっさと黒い扉に手をつき、水に沈みこむように扉の中へと身を滑り込ませ、消えた。
厳しい表情で思案する楓父は、心配そうな表情を浮かべる楓に気がつかない。
「パパ? どうしたの、大丈夫?」
我に返り、楓を見下ろせば真っすぐな瞳とぶつかる。
固い表情は崩れぬまま、それでも楓父は笑って見せた。
「楓ちゃん、いいかい? 大切な用事が出来てしまってね。私が戻るまで、何があっても絶対に、この家から出ないと誓ってくれるかい?」
尋常ではない様子である事は、楓にもはっきりと分かる。
真剣な顔でうなずいた楓に、少し待っておいでと自室に消えた。
嫌な予感に、楓は本人が気付かぬうちにコマの横に立ち、小さな手を灰色の毛皮を頼るように置いていた。
一分もかからず姿を現した楓父は、黒のタキシードに黒のマント。シルクハットを身につけている。
ピンク色のマフラーとミトン型の手袋をその手に持ち、楓に手渡した。
「パパ?」
「これはね、プレゼントの日にあげようと思っていた物なのだよ」
少し青ざめた顔で、楓は慌てて両手を後ろに回し、ショートボブを揺らして首を振る。
「どうして? どうして今なの? その日に貰うから、今はいらない!」
「そうはいかなくなってきたのだ。この布地には、楓ちゃんが危ない目に遭わないようにまじないをかけている。私が帰ってくるまででいい、出来れば寝る時も傍に置いて、いつでも身に着けておきなさい」
「……すぐ、帰ってくるんでしょう?」
「当たり前だろう。私が楓ちゃんから何日も離れた事があるかい?」
横に、首を振る。
「そうだろう? 安心しなさい。夕飯までには、必ず戻るから」
「パパ……」
マフラーを楓の首にかけてやる。
緩慢な動作で、前に出した両手にミトンを握らせた。
大きな手を重ねて、彼女の瞳を優しく見つめる。
「大丈夫だ。約束してくれるね?」
「うん」
大きくうなずいた楓の頭をなで、カラスと同様、閉まっている扉に手をついた。
黒い扉の表面が大きくさざめき、古い石造りだが美しく飾られた部屋が見えたと楓とコマが認識した瞬間に、彼とその映像は消える。
楓は、住み慣れた温かいはずのこの家が酷く寒々しく感じ、ミトンを握りしめながらコマの傍に身を寄せた。