招来
楓父はそっと楓を抱き上げる。
燃えるような熱を全身に帯びている彼女は、正反対に酷く震えている。楓父は自分の失態に歯軋りした。
コマを仕事に出してからというもの、楓の眠りが浅くなっている事には気がついていた。
その上ネキの事や、ここ最近気温が急激に下がっている事も起因しているのだろう。
女達の来訪での内容も、考えたくはないがストレスの一部になっている。
その理由から考えれば――
「コマ」
「……はい」
神妙な顔つきで楓父を見つめている事から、反省はしているようだ。
「この状況を作った事は私にも要因はある。だが、敵を招くとは何事だ」
「俺は何も」
「しかもだ。お前が話せる事を知っている。その事についての報告はなかったが」
「……申し訳ありません。アレは医者のようなので、楓様の役に立つかもしれません」
きっちりと座り、やや頭をさげて楓父に伺いを立てる。
しかし彼は振り向く事なくふわりと浮き立ち、二階通路へと降り立った。
「貴様は……何もするな。出来れば息もしないでくれると助かるのだがな」
楓の部屋へと二人は消え、コマは静かに首を竦める。
二度と会う事などないだろうと高をくくっていたのが間違いであった。
闇に紛れ襲う事も一瞬の内に脳内を駆け巡ったが、渋い顔で首を横に振る。
楓父は『何もするな』と言ったのだ。どんな内容であれ、行動するわけにはいかない。
張り詰めた空気の中、黒い扉の定位置へと戻った。
瞬間、急激に気圧が下がったかのように、コマは酷い耳鳴りに襲われる。
小さく唸り顔を上げれば、ネキが以前にシツケされた時と同様に黒い扉が歪に盛り上がった。
一際大きな盛り上がり方に、コマは侵入者を警戒し臨戦態勢を取る。
黒い塊は徐々に形を成し、冷たい床で駄々をこねるように左右に転がって、激しく咳き込む。
「んなっ、なんだ!? 今度はどこだってんだっ!」
聞き覚えのない高めの声に、コマは逡巡した。
扉から生まれたという事は、楓父が出した物体かもしれないからだ。
下手に攻撃も出来ず、とにかく跳びかかれる距離を保ち威嚇する。
「……お前が呼んだわけでも、なさそうだな」
完全に姿を現した黒ずくめの青年は、黒い瞳でコマをつまらなそうに見やり、左側の一房が青く染まっている黒い短髪をわしゃわしゃと掻く。
唸り声をあげるコマを見て、彼は身を低くし、鋭い鳥の声をあげた。
「カラス、無駄な時間があると思うな」
楓の部屋からいつ出てきたのか、手すりの向こうから冷ややかに階下の二人へ声をかけてくる楓父。
カラスと呼ばれた青年は、ひょいと身体を起こし、小首をかしげた。
「やっぱりあんたか。俺にも用事ってもんがあるんだから、呼ぶなら前もって言ってくれよ」
「緊急以外で、お前が必要か?」
「……あー、まあいいさ。で? 患者は誰だ」
コマは、とりあえず定位置に身体を戻した。カラスもすでにコマの存在を無視している。
顎で上がって来いと指し示せば、カラスの背が盛り上がり、黒い羽が形成された。
羽ばたけば強風が部屋中に吹き荒れ、家具が風で煽られて軋む。
浮き上がったかと思えば、突然羽が消え、カラスは驚愕の表情を隠す事なく酷い音を立てて床に転がった。
コマはとばっちりを防ぐべく、そっと身を伏せる。
「足で上がって来い」
怒りに満ちた楓父の言葉に、口の中で悪態を吐きながらカラスは痛む身体を起こして立ち上がった。
渋々といった調子で、部屋に入ったカラスは更に脱力する。
「あーそうだ、思い出した。ここの患者は人間だった」
「即刻治せ」
「前にも言っただろう? 人間とは身体構造が違うってな」
「御託はいらんと、前にも言ったはずだ」
扉の前に立ち塞がる楓父に、カラスはやれやれとばかりに肩を竦め、楓の部屋の窓を大きく開け放つ。
楓の傍らに寄り、額に右手を、臍の下に左手を当てて深く息を吸い込み、止めた。
細められたカラスの瞳が青く光る。
しばらくするうちに、楓の荒かった呼吸が幾分か和らいだ。
額に大粒の汗を浮かべ苦しげな表情のカラスは、楓から手を離した。
酷く重そうに足を窓際まで運び、外に向かって大きく息を吐き出す。
黒いもやのようなものがカラスの口から吐き出され、最後の一片が外に出た所で、カラスは震える手で窓を閉じた。
一房だけだった青い髪の毛が、いまや半分を占めていた。
「これ以上は、何も出せない」
「原因は?」
「ストレスだろう。他に病気はないが、足だけは前にも言ったように治らないからな」
「お前の腕が未熟だからだ」
楓父の言葉に、黒く戻っている瞳が見開かれた。
「おいおい、治してもらっといてそりゃないだろう! 大体、俺が人間を診るってだけでもありがたく思って欲しいね」
「ふん。十年もたつのに、足すら治せない奴が大きな口を叩くな」
「光を治すのが、どんなに困難か! あー、なんなら人間の医者に見せてみろよ。刃物で切ったり針を刺したりされたあげく、原因不明だと言われるのがオチだろうけどな」
「それで治されたら、お前の商売はあがったりだな」
鼻で笑われたカラスだったが、怒りをぶつけるどころか呆れ顔で楓父を見つめる。
「どんな症状でも、一日で治せる人間の医者がいたら連れて来いよ。大人しく教わってやるさ」
「……ラス、先生?」
二人の言い合いに割り込んだ小さな少女の声に、カラスはあからさまな渋い顔で声のした方へと振り返る。
茶色の瞳を黒ずくめの彼に向け、起き上がった。
「私、倒れたんだっけ。あの、ありがとうございます」
「言葉はいらない」
「ビジネスって、言ってたね」
ベッドから降り、机を開ける。
何かないかと探せば、横から覗き込んだカラスが大きめのブローチを摘まみあげた。
青いガラスと透明なガラスを組み合わせて作られ、金で縁取られたステンドグラスのブローチ。
「これでいい」
「あ、でも……」
それは楓父から貰った物で、とても貴重なのだと聞いていた。
ショートボブを揺らして振り返れば、彼は小さくうなずいて見せる。
「楓ちゃんにあげた物だ、好きにしなさい」
「……うん。ごめんね? パパ」
「気にする事はないよ。いくらでもプレゼントしてあげるからね」
「うん。パパは優しいね」
そう微笑んで見せれば、楓父が楓に駆け寄り抱きしめた。
その様子を半眼で見つめながら、カラスは、どこがだと小さく呻く。
とてつもなく嫌な予感がして、半分青く染まった頭を横にずらした。今まで頭があった場所にスリッパが飛んでいき派手な音を立てて壁に当たった。
へこんだ壁は、ゆっくりと元の形に戻っていく。
それを見つめながら、カラスは深く息を吐いた。
「もう用はないよな。これからは無理に呼び出すのはやめてくれ」
「カラス先生、治してくれてありがとう」
「人間に感謝されてもな」
肩を竦め、ノブを回したその背中に、思い出したような声がかけられた。
「カラス。下でお前が動かした家具、当然直してから帰るだろうな」
「……は?」
ぎこちなく振り返った先には、貼り付けた笑顔の中の笑っていない目とぶつかる。
問答無用の雰囲気に、先程とは違う汗をかく。
「力仕事は、下にいた人狼が専門じゃないか」
「ああ、だが今あいつには何もするなという命令を入れてある」
「自分がした事なら、自分で解決しなくちゃいけないんです」
楓も口を挟めば、カラスが冷酷に青い目を光らせた。
「人間が口を挟むな」
「楓ちゃんにそんな口を利く事は許さん」
楓父の瞳も赤く光り、短髪がざわりと揺れ動く。
即座に負けを宣言したのはカラスの方であった。
「わかったって! やって帰ればいいんだろ? 力比べで『特別』なお前と張り合えるとは思わないが、人間に親しくされたくない事だけは覚えといてくれ」
「……ごめんなさい」
「この青黒い男が謝りこそすれ、どうして楓ちゃんが謝る事があるものか!」
「あー、腹黒いみたいな言い方しないでくれ」
親子愛だかなんだかわからないスキンシップを見せつけられながら、声をかけたが返事はない。
カラスは深くため息を吐いて、面倒臭そうに部屋から出て行った。