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満月の夜に(2)

 闇夜の中、音もなく疾走する一対の影。

 背に乗せている楓を振り落とさないように気を付けながら、灰色の毛並みをした大きな体躯の獣は走り続ける。

 町の外れに近付いた時、コマがふと鼻を上げた。


「どうしたの? コマさん」

「……いや、パパ様が外で待っておられるようだ」


 走る速度を緩め、コマは小さく唸り、声を吐き出した。

 首輪を握り締めている楓は、その様子にくすりと笑う。


「コマさんって、パパが苦手だよね」

「苦手というか……何と言えばいいのか」


 黒光りする鼻をヒクヒクさせ、コマの足取りが重くなった。

 民家がまばらになり、月もなく周囲が漆黒に包まれた中、白い豪邸が見えてくる。

 鉄製の高い柵に囲まれて、静かに佇む邸宅には、窓から暖かな灯が周囲を照らす。

 立派な門構えの前で、行ったり来たりを繰り返している長身の男。

 そろそろと歩くコマと背に乗っている楓を見つけるや、目にも留まらぬ速度で走り、コマを無視して楓を抱きしめた。


「楓ちゃん! こんなに暗くなるまで、何をやっていたんだい! 心配した。そうだ、パパは心配したんだぞ!」

「ただいま、パパ」


 泣き出さんばかりに頭を振る楓父の背を、楓はなだめるように優しく叩く。

 そんな優しさを見せたばかりに、楓は更にきつく締められる事となった。

 さすがに見かねたのか、コマが声をかけてくる。


「パパ様、そろそろ楓が限界そうです」

「お前、可愛い楓ちゃんを呼び捨てにするとは! 恥を知れ!」


 楓をコマから降ろし、楓父はコマの鼻に指を突きつけた。

 コマはゆっくりと座り、頭をさげる。


「大変申し訳ありません、パパ様。以後気をつけます」

「そしてお前に、パパ呼ばわりされたくないと、何度言えばわかるのだ!」

「……では、旦那様と呼べば?」


 弱りきったコマの言葉に、楓が盛大に吹き出す。


「お前は、私の妻でも気取りたいのか!」

「ですから、名前を教えてくだされば……」


 ますます困った声を出すコマ。ますます顔を赤くして激昂する楓父。


「獣に、教える名などない!」


 楓以外にはすべからく理不尽な楓父。

 コマは楓に拾われた初日から、この男の性格を理解はしたが、納得するには難しいようだった。

 彼の怒声に、少し離れた家々の窓から明かりが灯り出し、暗い世界に少しばかり暖かみが増した。楓は二人に、静かな声で言葉をかける。


「パパ、近所迷惑だよ」

「おお、楓ちゃんの言う通りだ。さ、冷えるから早く中にお入り」


 楓の肩を温めるように抱いて、黒く大きな扉を開け、楓を先に入らせた。

 後からついて来た、暗闇に紛れる灰色の獣を彼は冷たく見下ろし、


「こんな遅くまで連れ歩いた罰だ。今日は外にいろ」

「パパ。コマさんを拾って来たのは私なんだから、命令しないで」


 楓父を押しのけて、楓はコマを中に引き入れる。


「足を拭くから、待ってて」


 玄関のマットの上にコマを座らせ、楓は靴の裏をマットで拭ってから、タオルを取りに行く。背後から、鍵をかけ終えた楓父の、囁く声がはっきりと聞こえてきた。


「楓ちゃんが気に入っているから、置いてやるのだ。お前は楓ちゃんの護衛を私と約束した。それをなんだ、気軽に外に連れ出しおって!」


 楓に聞こえていないつもりで話しているのだろうが、怒りの声が少しずつ大きくなる。

 急ぎタオルを水に浸けて、絞りきれていないそれを持ち、楓は柱の陰からそっと彼らの様子を伺っていた。

 その時、楓父が首輪をつかみ、自分の目元まで軽々とコマを持ち上げる。

 後ろ足で支えてはいるが、胸ぐらをつかまれ、因縁をつけられている獣の図が出来上がっており、その状態のままコマは低い声で、


「……ってゆーか。拾われて一週間立つけど、さして危険は感じません」

「バカ犬めっ! こんな月のない夜に、若い少女が一人歩いてみろ! それだけでも危険極まりないというのに、それが楓ちゃんだと思うと……足がすくむわ!」


 竦んだ足で、あそこまで駆け寄れるくらいなら問題はないだろう。と楓は思うが、コマは渋々といった調子で謝罪した。

 素直に謝られ、楓父は舌打ちをして首輪から手を離し、コマが同じ場所に座り込んだその直後、楓父の背に向かって声をかけた。


「パパ、コマさんに何してるの?」

「うん? お話してただけだよ。仲良くね」

「そう」


 振り向いた楓父の笑顔に、ただうなずいた楓は、フラットな玄関の床に立て膝をつく。

 大人しく前足を拭かれているコマに、楓父は笑顔のまま楓に進言した。


「楓ちゃん? コマは自分で出来るから。まず夕ご飯を食べてきなさい」

「でも、犬は帰ったらブラッシングもするんだって聞いたの。私が飼いたいって言ったんだから、ちゃんとしないと」


 そんな楓の言葉に、楓父は感動の涙を流した。


「楓ちゃん、立派に育ってくれて! パパは……パパは嬉しい!」


 後ろから抱きしめられ、楓はまた身動きが出来なくなった。



 そんな夜も更け――

 冬の到来を思わせる冷気が辺りを包み、静穏せいおんな雰囲気を作り出す。

 寝静まった邸宅の中、灰色の獣は闇と見紛う黒い扉の前で、巨大な体躯を丸くしていた。

 眠りと覚醒の狭間で、コマはここ一週間、同じ夢を繰り返し見る。

 そう、楓と出会った時の夢を――



 夕暮れも近い空。獣の形をしたコマはしつこく追ってくる人間から逃げていた。

 少なくなったとはいえ、神社の闇の増す雑木林に身を隠し、追っ手をやり過ごす。

 匂いが完全にしなくなる頃には、太陽は半分も沈んでいた。


 今日はここで野宿かと、枯葉をかき寄せ寝床を作っていると、人の匂いとも違う不思議な匂いが、コマの近くへと近付いて来る。

 出来るだけ低い姿勢をとり、即座に気配を殺す。


 神社の境内に現れたのは、白い光。

 網膜を焼くほど強い光ではないが、儚いわけでもない。


 しかし、凛として存在する揺るぎない光。


 コマは、その光につられて立ち上がる。頭の中で強く警戒する声もヴェールに包まれたように今は遠い。

 コマの姿を見つけるや、光は消え失せ、一人の少女が姿を現す。

 彼女は肩で息をして、足を引きずりながら、無表情でコマを見た。


「もう怖いおじさん達はいないから」


 怖がりもせず見据えてくる少女に、コマは動けなかった。

 自制の出来なかった自分が信じられない。何も考えられず、彼女に吸い寄せられた。

 しかし、すぐに我に返り警戒態勢をとる。

 疲れて座り込む少女の頭上で大きく羽ばたく音が聞こえ、見た事もない大きな黒い鳥が急降下してくる。

 少女を守る筋合いは、コマにはない。彼女に助けられたとも思っていない。

 しかしコマの中で、この光を渡すものかと怒りが込み上げ、力が溢れる。躊躇ちゅうちょすることなく全身の筋肉をバネにして、コマは巨鳥に飛び掛っていた。


 ――気が付けば、巨鳥は灰となって崩れ落ちていた。


 少女は、目を見開いてコマを見ている。


「助けてくれたの?」

「……違う」


 自分のものとは思えないほど、ひどくしゃがれた声が出た。

 鋭い牙を見せながら、低く唸る。そうすれば怯えて逃げるだろうと思ったのに。

 獣が話した事にも、その少女は驚く事もなく、右手を伸ばしコマに触れる。


「ありがとう」


 そのたった一言に、コマの心は激しく揺さぶられた。

 遠い昔に、人間と心を通わせた時期もあった。

 しかし人間は瞬く間に成長し、緩やかな生を辿る自分は取り残される。やがて人間は自分を気味悪がり、殺そうとさえした。

 逃げ延びて誓ったのだ。人間を信用してはならない、と。それなのに――



 ――コマは、目をあけ、変わらぬ暗い部屋を見回し、静かに嘆息した。

 四足で立ち上がり、階段を静かにのぼって、二階奥の扉の前にソッと座る。


「……楓、どうした」


 ノックのかわりに、右前足で軽く扉を引っかいた。


「パパは、お仕事?」


 扉越しに静かに問われて、コマはそうだと返す。

 扉を開けた楓は、抱えていた毛布でコマの全身を覆った。


「何の真似だ?」

「コマさん、いつもいらないって言うけど、今日は寒いから」


 目隠しをされた状態が落ち着かず、口を使って毛布を落とす。

 暗い中、コマの所に来るつもりだったのか、楓の部屋の電気はついていない。


「何でコマさんには、私が起きたってわかるの?」


 落とされた毛布を拾い上げながら、楓は口をとがらせる。

 コマは口の端を持ち上げ、楓を見上げながら片耳を動かした。

 それを見て、楓が小さく息を吐き、毛布を抱きしめる。


「眠れないのか」

「……そうでもないけど。ココアでも入れようかな。コマさんも飲む?」

「いや、水でいい」


 その言葉に楓は表情を崩し、コマの背中に手を置いた。

 少女の手のぬくもりを感じても、コマの心が揺さぶられる事はない。

 楓に合わせて、ゆっくりと階段をおりる。

 キッチンの電気をつけ、ミルクをそそいだカップをレンジに入れて、一人と一匹は並んで待った。

 人工的な白い明かりの中、コマは少しためらいながら楓を見る。


「楓は、何故オレをここへ?」


 レンジの柔らかな光から目をそらし、楓はコマと目を合わせた。


「台所にって事じゃないよね。ええとね、神社で私を助けてくれたでしょう? それに……パパに似てると思ったから」

「……オレが?」


 聞き間違いかと耳をしっかりと楓に向け、目を丸くする。

 しかし、楓は困った様に首をかしげ、


「そう。パパは何も言わないし、何て言えばいいのかわからないけど。まったく同じじゃないんだけどね、雰囲気が似てるの」

「どこが!」


 信じられない。とても理解出来ない。したくもない。

 あからさまに眉間にシワを寄せ、コマは毛を逆立てて唸った。

 そんなコマを見て、楓がクスリと笑う。


「コマさん、そんなにパパが苦手?」

「追われる身から解放されたのは、感謝している」


 神妙な顔をしてうなだれるコマに、楓は思い出した事を口にした。


「コマさん、パパの事を『旦那様』って言ってたよね。アレってどこで聞いてきたの?」

「バイト先だ。客で来る人間達の事を、男は旦那様。女はお嬢様と呼ぶなどと言っていた」


 疑わしげに目を細めて、真相を確かめようと金色の瞳を覗き込む。


「……コマさん、一体どんなバイトしてるの?」

「皿洗いだ。誰とも話さずにすむからな」


 楓の言葉の意図がつかめず、コマは目をそらさずに答える。


「そう。ヒラヒラした服着た、可愛い感じのおねーさんとか、いっぱいいるんじゃない?」

「人間の女は入れ替わりでいる。接客は女、裏は男という割り振りだな。オレは裏出口側を任されているから、背後からの不法侵入は不可能だと思っていい」


 狼の姿のまま胸を張り、口の端を持ち上げた。

 楓は深く嘆息し、電子音を鳴らすレンジからカップを取り出した。

 コマから視線を外し、無言でココアの粉をカップに入れている楓。

 いたたまれない空気の中、コマは静かにその様子を伺い続ける。

 甘い香りと、カップにあたるスプーンの音だけが辺りを包む。

 楓はコマの横を通り、電気を消した。


「お話終わり。なんか疲れちゃった」

「そうか」


 コマの首輪をつかみ、またゆっくりと階段をのぼる。

 楓が自室の扉を閉める前に、コマに振り返った。


「コマさん。まさかと思うけどバイト先で、ボクはコマです。皆さん仲良くしてくださいね。なんて、言ってないよね?」


 おかしな事を言う。と言わんばかりに目を丸くして、コマは呆れた声を出す。


「何故、他の人間にその名を言う必要がある? 本来、奴らとは関わりたくないのに」

「そうよね。じゃあ、何て名乗っているんだっけ?」

「パパ様から頂いた『マキハラ タケル』だ」

「私は槙原楓だよ」


 楓は素直に答えたコマの鼻に指を突きつけながら、くすりと笑う。


「パパ様じゃなくて、ソレを使ってみたら? おやすみ、コマさん」

「……? おやすみ、楓」


 扉がきっちりと閉められ、楓がベッドに入る音を聞いてから、コマはその場を離れる。

 階段を静かにおりながら、楓の言葉を頭の中で反芻はんすうさせた。


「……そうか。今度はソレを試してみるか」


 玄関の横、冷たくなった床に丸くなりコマは小さく息を吐いた。


 雲が途切れ、玄関にある明かり取りの窓からは白い光が溢れている。

 白く輝く満月は、ただ静かに世界を見下ろす。

 揺るぎない光を放ちながら。



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