当惑1
十二月に入り、より一層寒さが厳しくなる。
楓は居室にいる時、窓の外を見る事が日課になっていた。
ネキが姿を消してからすでに一月も時が流れてしまっている。今までもフラリと出かけては半月以上も帰ってこなかったりもした。
しかし、今回だけはケンカ別れしてしまった事もあり、楓の心には尋常ではない不安が渦巻いていた。
玄関横に座っているコマのそばにクッションを置いて、楓は不安を紛らわすかのように、彼の灰色の背中をなで続ける。
「どうしよう、コマさん」
この言葉も何度目になるのか。だがコマは呆れるわけでもなく、口を開いた。
「猫とは、そういうものだ」
「……私、仲良くなったと思って、調子に乗ってた。何を言っても許されると思ってたんだ。ネキさんを、傷つけちゃったんだね」
楓は、自分でも声が単調になるのを感じた。嫌な感情が胸からせり上がってきて、呼吸が難しくなる。だが彼女には、この感情が何であるのか分からない。
見つめる背中は、ゆったりとしていて揺るがない意思を感じられる。
コマを家に連れて来た当初であれば、その背中にしがみついたり、意味不明な気持ちを押し付けるように頬を寄せたり出来たのだろう。
自分の気持ちに気がついて一月。
最初はコマに不審がられるほどギクシャクしてしまったが、無理をする事などないと気付いた今では、多少遠慮する場面も増えたが普通に接する事が出来ていた。
光の加減で、銀色にも見える背中の毛をつまんでは軽く引っ張る。
コマも違う言い方をしてきた楓を訝しがりながら、慎重に言葉をかけた。
「二度としないと心に留めればいい。間違いは誰にでもあると開き直るよりかは、悩んで気をつけるようになればいい」
「うん。ネキさんが帰ってきたら、ちゃんと謝るね。それで自分で頑張るって、ちゃんと言う」
ゆっくりとうなずいた楓に、コマがやっと振り向いた。
金色の瞳が楓の心を探るように見つめてくる。
「ってゆーか。楓は何に頑張るんだ?」
「なんでもないよっ! コマさんには、関係ない事なんだから!」
澱んでいた茶色の瞳が大きく見開かれ、楓は慌てて手を振り口をイーッと横に開いて見せた。
コマは小さく肩をすくめ、鼻を鳴らす。
また前を向いてしまったコマに、しまったとばかりに顔をしかめる楓。
手を背中に戻して、ごめんね。と囁いた。
返事の代わりなのか、気にするなと言うようにクルリと片方の耳を動かしたコマを見て、楓は嬉しくなり、コマに気付かれないよう微笑した。
「コマさんは、優しいね」
「そうか」
唐突に呼び鈴が鳴らされた。
楓がゆっくりと立ち上がり返事を返せば、聞き慣れない女性の声がする。
「楓、少し待っていてくれ」
籐の箱から服をくわえ、洗面所へと消える。
けたたましく鳴らされる呼び鈴に、戻ってきたコマは閉口しながらも楓を自分の後ろにさがらせた。
「誰だ」
「水沢ですけどぉ。猛さんいますぅ?」
甘ったるい喋り方に、コマは怪訝な表情を浮かべた。猛という名前には聞き覚えがある。
バイトをしていた時に名乗っていた名前ではあるが、楓父によって記憶操作されて、自分の存在は消えていたはずだ。その人間が、この場所に現れるはずがない。
扉を開けるべきか思案していたが、楓はコマの横をすり抜け、止める間もなく扉を開けた。
そこに立っていたのは、香水の匂いが強く原型が分からないほどの厚化粧を施した女。
色を抜いた長髪には、ゆるくウェーブがかかっており、ファーのついたブロンズ色のコートをはおり、ミニスカートにロングブーツ。そんな女が笑顔で立っていた。
香水臭さに眉をひそめて、楓はにらみつけるように彼女をみつめる。
「どなたですか?」
「あ、猛! 久しぶりぃ! 何この子、妹?」
「……呼び捨て、ですか?」
自分の声に棘が混ざるのに気付かず、ただコマさんと言わないように気をつけるのが精一杯だった。
コマは無表情のまま、抑揚なく言葉を返す。
「化粧臭い女か。何故ここに来た」
「はぁ? 綾って前から言ってんじゃん」
「何をしに来た?」
「えー? 久しぶりにバイト言ったらぁ、皆して猛の事知らないって言うからぁ。前にこっそり見た履歴書の住所覚えててぇ。それで来たのぉ」
「迷惑だ」
何がどうして綾という女から記憶が消されなかったのかが分からないコマ。
久しぶりと言うくらいだ。楓父はバイト先しか記憶操作を行わなかったのだろう。長期間バイトに来ていなかった彼女は、頭数に入れられてなかったに違いない。
そう思い至り、コマは聞こえよがしに嘆息した。
「呼び捨てにしてたけど。その、猛さんとはどういう関係なんですか?」
頭越しに会話が進む為、良い気持ちのしない楓は話を戻した。
こってりと盛ったマスカラのせいで作り物のように見える目が楓に向き、表情筋を動かせば化粧がポロポロと落ちるんじゃないかというほどファンデーションやら塗った顔は、笑顔の形に変わる。
「猛との関係? そんなの決まってんじゃん? 彼氏ぃ。妹さんもぉ、お姉ちゃんって呼んでくれていいし」
「そんな変なお面かぶったお姉さん、いらないから」
「お面? 何言ってんの、あんた。超ウケルー」
何がそこまで笑う言葉に繋がったのか、けたたましい笑い声をあげながら、手を叩いている綾に、楓は困惑した。
人間関係に慣れているわけじゃない。どちらかと言えば、近所に住む数人くらいしか交流がない楓には、初めて見る人種についていけなかった。
目を白黒させながら言葉に詰まってしまった楓は、コマを見上げる。
「彼氏って、何?」
コマが答えに逡巡すれば、笑いを引っ込めて呆れた声を出す綾。
「何? うっそぉ、彼氏も知らないの? どれだけ純情ぶってんだって話ぃ。猛と綾が好き同士って事でしょぉ? 猛が彼氏でぇ、綾が彼女って事」
「そんなの嘘!」
「えー? 綾、初対面で嘘つき呼ばわりされちゃうわけぇ? 何、妹サイテー」
たたみかけられ、楓は顔から血の気が引いていく。
混乱する頭でもう一度コマへと振り返れば、青筋を立てた楓父がコマの後ろ頭を片手でつかみ、邪魔だとばかりに横に放り投げていた。
ソファやローテーブルを巻き込み、酷い音をたてて転がったコマに、楓が悲鳴をあげる。
「パパ!?」
「えー! こっちも超イケメンじゃん? 今日の綾って、超ラッキー!」
「どちら様かな」
コマに駆け寄る楓を見送って、笑顔を崩さず静かな声で尋ねながら、楓父は家の中へと一歩踏み込んでいる綾の肩をやんわりと外に押し出し、自分も外へと出て、後ろ手に扉を閉めた。
嵐が過ぎ去った後のように、部屋に静寂が戻る。
呻きながら起き上がったコマに、心配そうに見つめる楓。
無事である事を見届け、安堵した楓は眉をひそめて低い声を出した。
「コマさん、あの人と付き合ってるの?」
酷く痛む後ろ頭をさすりながら、コマは金色の瞳を嫌そうに細める。
「あんな鼻が曲がりそうな女、世界に女がアレだけだったとしても断る」
「そんな事言ったって、彼氏……なんでしょ?」
「ってゆーか、名前も覚えてなかったんだぞ? 記憶にすらない人間なんかのせいで、こっちはとばっちりを受けたんだ。恨みこそすれ、あんな人間を好きだなんて誰が言うか」
「……人間とは、付き合わないの?」
楓が発する声のトーンが変わった事に、コマは眉根を寄せ、それでもうなずいて見せた。
「あたりまえだ」
「あたりまえ、なんだ」
あからさまに沈み込んでしまった楓の理由が分からずに、コマは再度うなずく。
「そうだろう? いくら人間の形をしていても、俺は化け物だぞ?」
「違うよ。コマさんはコマさんだよ。私にとって、コマさんは化け物じゃないよ」
「人間でもない」
きっぱりと告げるコマに、楓は黙り込んでしまう。
耳がおかしくなりそうなほどの静けさが、二人を包んだ。
そんな重苦しい空気を動かそうとしてか、コマが立ち上がる。
「狼に戻る。槙原様が出て行ったんだ。もう人型の猛には用がなくなるだろう」
「コマさん、私……ね?」
床にしゃがんだまま、コマを上目使いで見上げてくる楓の頭に、大きな手を慎重に優しく乗せた。
先を続けようとする楓に小さく首を振った。
「大丈夫、楓が気にする事じゃない。これが現実だからな」
分かっているとばかりに笑い、人外である自分を慮ったが為のフォローが続くと勘違いしたコマ。
楓は、コマの中にとても深い人間との溝がある事を感じ、奮い立たせた告白への勇気が急速にしぼんでいった。
今、この時に告白しても、コマを困らせるだけなのではないか。
困らせるどころか、今の近付けた距離すら壊れてしまうのではないか。
嫌われたくない。同じ屋根の下、コマが離れていく事は、想像の中でさえ耐えられそうにない。
楓は無理に笑顔を作った。
いつか、自分の気持ちをコマに伝えられる日が、きっと来ると信じて。