気持ちの行方
床に大の字で転がっているネキを、楓は揺り起こそうとする。
なかなか起きてくれない彼女に、焦りを覚えたその時、小さく肩を震わせてネキが目を開けた。
「……楓様?」
「ネキさん! よかった、起きてくれて」
明かりもつけておらず、ひんやりとした朝も早い時間の空気に、ネキは身体中をバネにして跳ねあがった。
楓を庇うように左腕で抱え込み、青い瞳を光らせて闇が明ける青い影に染まった室内を警戒する。
ただ静まり返っているだけの室内に、ネキは腕を緩めた。
「なんだい、こんな時間に。お子様は寝る時間だろう? 怒られるのはあたしなんだからさ。ほら、寝た寝た!」
眉をひそめて、階段へと追い立ててくるネキに、楓は慌てて首を振った。
「ち、違うの。お願いがあるんだ! コマさんが帰ってきたみたいなんだけど……入れてあげてくれない?」
「あたしがかい? やなこった。飼い主は楓様なんだろう? だったら、自分でやりな。最後まで責任を持つんだね」
優雅に腰をくねらせて、白いソファにダイブする。
背もたれが邪魔になって、ネキの姿は膝から下しか見えない。
「ネキさん……」
「もう寝たよ!」
小さく呟く楓の声にも、ぴしゃりと言葉を叩きつけてネキは拒絶した。
ソファに横になって、目を開けたまま様子を窺えば、かなり近付いた場所からまた声をかけられる。
「あの、あのさ……」
しかし、そこから先が続かない。仕方なく上半身を起こし、背もたれから楓を見れば、途方に暮れた表情を浮かべる楓がネキをまっすぐ見つめている。
痛む頭と喉を順に擦り、ネキは玄関に目をやった。
「で?」
「え?」
「だから、なんで野良犬を入れたくないのさ。楓様が家に入れたくないようなのを、あたしだって入れるわけにはいかないだろう?」
「誰も家に入れたくないなんて、言ってないじゃない! 私は、ただ……」
途端に口ごもり、暗さの残る部屋でうつむく。
だが、ネキの目には顔を赤らめる楓の姿がはっきりと見えていた。
背もたれで口元を隠しながら、にやりと笑う。
「ただ。なんだい?」
「ただ……今はコマさんを見たくないって言うか」
「そう。じゃあこのままでも構わないじゃないか。さ、寝てください? 楓様」
ネキの含み笑いに気がついたのだろう。楓は少し顔をしかめてネキをにらんだ。
「ネキさん!」
怒りを含んだ言葉に、小さく肩を持ち上げてネキは笑った。
「悪かったよ。だけど、何を恥ずかしがる必要があるんだい? 野良犬の事が好きなんだろう? だったらあたしみたいにアプローチしたらいいんだよ」
「ネキさん、みたいに?」
ソファの端から見えるスラリとした足を、優雅に組み替えて、軽くウェーブがかかっている金髪を後ろに流して、挑戦的な視線を楓に送る。
「そうさ。大体、人間なんて限られた短い命だろう? 迷ってる時間なんかないと思うけどね」
「そうは言っても、人間にとっては長い時間だよ」
「野良犬にとっては、息を吐くほど短いさ」
押し黙り思案する楓に、ネキは冷たく澄んだ空気に白い息を吐き出した。
その白く染まった空間は、一瞬の内に儚く消える。
息を呑んで見守っていた楓が我に返り、そっと扉を見やった。しかし、すぐに目を泳がせてうつむいて。可哀想なほど首まで赤く染まってしまう楓。
舌なめずりをせんばかりに含み笑いを押し殺して、ネキは助け舟を出す。もちろん、面白半分で。
「簡単だろう? 楓、コマさんがいなくて寂しかった! 大好き! って抱きつけばいいだけさ」
「だけって!」
近所迷惑にならないくらいの小さな悲鳴をあげ、出来ないとばかりに首を振る。
背もたれに肘をついて身を乗り出し、淡い青色に周囲を染め出した光にも勝る青い瞳を光らせた。
「あたし達はね、あんたを護る為に命かけてるんだよ。いつだって死と隣り合わせさ。もたもたしてる内に、どっちかが消えてるかもしれないねぇ」
「そんな言い方……」
「酷いとでも言いたいのかい?」
身軽に背もたれを支点として跳びあがる。楓の目の前に金髪をふわりとなびかせて顔を寄せた。
小さな両肩をつかんで逃さず、ネキは威嚇するようにのどを鳴らす。
「バカだね。人間だって、そうじゃないヤツだって。明日が来るかどうかなんて分からないだろう? 今を大事にしなくて、どうするのさ」
「……今が、大事?」
「そうさ! あの野良犬はそーゆー面に関しては、すごく鈍いだろ? だから、楓様から押していくんだよ」
分かるかい? と、耳元に低い声で吹き込んでくる。
口を一文字に結び、茶色の瞳には決意の色が浮かんだ。
刺すほどの冷気は、心地良い涼を楓に与えている。恥ずかしさが形を潜め、楓は力強くうなずいた。
「ネキさん。ありがとう、そうだね! 私、頑張る」
「その意気だよ! あたしは楓様に協力するからさ、楓様も協力しとくれよ?」
「……協力?」
輝く猫目に、楓はあからさまに眉をひそめる。
「当たり前だろう? あの野良犬の仲を取り持つ代わりに、槙原様とあたしの仲を取り持つ。人間の言葉でなんて言ったっけ、取り持つ取り持つだっけ?」
「持ちつ持たれつって言いたいの? でもいらない。だってそれじゃあネキさんが私のママになるって事でしょ?」
「豊満な胸で抱きしめてあ、げ、る」
両腕を広げて待ち構えるネキ。猛獣が口を開けて待ち受けているように感じた楓は、口をへの字に曲げた。
「いらない!」
怒りに足音を響かせて、黒い扉を勢いに任せて大きく開く。
横の芝生に身体を丸めようとしていたコマが、怒りに燃える小さな少女を見て目を丸くした。
「おかえり、コマさん。早く中に入って」
「眠れなかったのか? 何があった?」
背後で聞こえよがしに騒いでいる金髪女に目もくれず、コマは下から楓の顔を覗きこむ。
心配してくれる彼――狼の形態ではあるが――と目が合った瞬間、楓は顔が赤くなるのが分かり、思わず背を向けた。
「タオル! 持ってくるから、中に入ってて」
声が裏返った事に、更にパニックを起こし、楓は逃げるように足を引きずって奥へと歩いていった。
ネキが小さく舌打ちをして、洗面所へと消えた楓の後を追う。
何がなんだか分からないコマは、頭を少しさげ彼女を見送った。
言い争う小さな声が、静まり返った家の中に響く。
どうしてさ。
放っておいて。
時間を置けば、もっと言えなくなる。
たたみかけるようなネキの言葉に、耐え切れなくなったのであろう。しばらく黙っていた楓は近所迷惑をかえりみず、金切り声に近い叫び声をあげた。
「うるさい! うるさいっ! うるさーいっ!!」
手にしていた水で濡らしたタオルと犬用のブラシをネキに投げつけ、肩を震わせる。
何事かと駆けつけてきたコマを振り向きもせず、楓は首まで赤くしたまま、ネキをにらみつけた。
「ほっといてよ! 絶対にパパとの仲を取り持ってなんてあげないから! だから私で遊ばないで。これ以上この事に口出してくるなら」
一旦、口を閉じた。
楓が怒りをぶつけたところで、ネキには何の痛みも感じないだろう。
今でもからかい半分な彼女の表情に、楓は震える唇をゆっくりと動かした。
「ネキさんがママになるなんて、絶対に嫌だってパパに言うからね」
その言葉を聞いたネキの表情が、一変して厳しくなった。
楓の怒りなど物ともしないほどの重圧が辺りを包み、ネキの身体が歪に膨れ上がる。
「あたしの恋路を邪魔する奴は、たとえ楓様だって容赦しないよ!」
猛獣の発する轟くような声に負けず、楓も胸を張った。
コマが二人の間に割り込み、今にも爪で切り裂きそうな勢いの虎女に唸り声をあげる。
だがその後ろから楓は叫んだ。
「私だって! 私の気持ちをないがしろにするのは、許せない!」
二人は怒りをぎりぎりで抑制していた。このまま暴力に持ち込んだとしても、楓が負けるのは誰の目にも明らかだった。
楓本人が一番分かっている事だろう。だが少女は、引き下がろうとしない。
一触即発となり、コマが仕方なくその牙をネキに照準を合わせた時、背後から不機嫌な声がかけられた。
「こんな時間に、何をしている」
闇を身に纏っているかのような黒いマントに身を包み、一見紳士に見える彼は、眉間にシワを寄せ、血のように赤い瞳を冷酷に光らせた。
楓が振り向けば、その瞳は深く吸い込まれそうなほどに黒いそれに変わり、笑顔が作られる。
「楓ちゃん、大丈夫かい? 怪我はないかい?」
「うん、大丈夫。こんな朝早くに起きてて、ごめんなさい」
「いいんだよ。のどでも乾いたのかい? ココアでも入れてあげよう」
「ううん、もう寝るから。ありがとう、パパ」
そう言いながらも、意味ありげにネキに視線をやる。
コマを引き連れ、楓父の横をすり抜けていく楓に苦々しげな表情を作り、持っていたブラシを棚に放り込んだ。
「ネキ」
低く疲れた声に、怯えたように身体を震わせる。
半分本気で楓に牙を向けたのだ、ただで済むはずがない。と蒼白になった顔で、重い身体を軋ませながら楓父へと向き直った。
無表情で手を伸ばしてくる楓父に戦慄を覚え、だが目を瞑る事も許されぬ圧力に、ネキは確実に起こるだろう事柄に、歯を食いしばる。
「パパ! ネキさんに酷い事、しないでね!」
「大丈夫だよ、楓ちゃん。安心して寝なさい」
現実に引き戻されたかの違和感に、ネキは冷や汗が吹き出した。
彼の手が眼前からゆっくりと離れていく。
「死に損ねたな、楓ちゃんに感謝するがいい。次は止められる前に消す」
黒いマントを翻して、奥部屋の闇に消えた。
取り残されたネキは、いつの間にか止めていた息を大きく吐き出し、立つ事も困難なほど震える膝を床に押し付ける。
いつものシツケと違い、楓父が本気でネキを消そうとしてきた事実に。そして自分を救う為か、恩を押し付ける為に楓が声をかけてきたのか。ネキは後者と取り、大きな牙をギリと鳴らして大粒の涙が床を打つ。
声をあげるでもなく、彼女は震えが収まるのを待った。
――愛しているのでしょう?
すべて任せてくれれば、悪いようには――
「……うる、さい」
――いつでも来なさい。
私はいつもここにいるのだから――
頭の中にしつこいほど響く声は、雌雄の区別がつかない。だが、確実にネキのひび割れた心に染み込んでいく。
白々と陽がのぼる直前。鳥の鳴く声に誘われるように、泣き腫らした目をそのままに、ネキは緩慢な仕草で立ち上がる。
昼頃、楓が目を覚ました時には、ネキの姿は邸宅の中から消えていた。