見限ったモノ
人工的な白い光が、一室を染める。
極度の緊張と、奥底から湧き上がってくる高揚に身震いをした女。
その衣擦れの音すら大きく聞こえるほど、あたりは静寂に包まれていた。
コマは手術台に座ったまま、彼女から視線を外す事はない。
「何を迷う事がある?」
「……何も、迷ってなどいないわ。口の利ける獣なんて――どんな構造になってるのかしら」
かすれた声で、内田は小さく独言した。
足を踏み出し、手を伸ばした先に彼はいる。その現実に彼女の研究心が揺さぶられる。
「どこまで言葉を理解しているの? あいつら、知ってて解剖しようとしたのかしら。こんな研究材料を実験もせずに切り刻もうとするなんて、本当に潮時のようね」
「…………」
爪を噛む内田を、ただ静かにコマは見つめる。
心を見透かされるような金色の瞳に気付き、内田は眉をひそめた。
「何よ? 何か言ってみなさいよ。あいつらも、知ってるのよね?」
「いや、知らないだろう」
「……本当に、受け答えが出来るのね!」
感嘆の声を上げ、コマのほうへと細い指先を伸ばした。
「私について来る気はないかしら? ここから出してあげるから」
「ない」
「どうして? ここにいたら、解剖されるのよ。私についてきたら、実験はするけど生きていられるわ」
笑顔を作り、白衣を揺らしながらコマに近づく。
微動だにしなかったコマが、歯を剥き出して小さく唸る。
触れる寸前に敵意をぶつけられ、内田は素早く手を引っ込めた。
「解剖の意味が分からないのね?」
「関係ない。俺なら、いつでも逃げられる」
コマの言葉に、目を丸くしてから相貌を崩した。
口を押さえ、細身をくの字に曲げながら、必死に大声で笑うのを堪えている。
「馬鹿ね。この施設から獣が出られるはずないじゃない。いかに頭の良い獣でもね」
彼女が落ち着くのを静かに待ちながら、コマはただ冷たく見つめていた。
大きく息を吐き、内田は白衣を脱ぎコマの横に置く。
「私はね、あいつらの馬鹿さ加減に愛想が尽きたのよ。実験だと言うわりに、データの取り方も甘いし。何かと言えば解剖、解剖!」
目を細め、吐き捨てるように言う彼女は怒りを纏っている。
「ここを見つけた時は、普段出来ない研究が出来ると、それは喜んだわ。嬉しかった。人道に反する、なんてくだらない事を言われないもの。何も出来ない人間が、私を蔑むのが許せなかった。それがここでは許されるのよ? なのに……」
ぎりっと奥歯を噛みしめ、コマを睨みつけた。
「ただの解剖好きな、くだらない集団だったわ。データを取るという名目だけ。意味のない事ばかり書き留めて、ただの無駄よ。冗談じゃないわ! 私の知性と能力が発揮されない場所なんて、意味ないのよ!」
「へー。やっぱり僕らを裏切ろうとしてたのか」
驚きに飛び上がった内田は、驚愕の表情で振り返り、扉の前に立っている彼を見た。
眼鏡をかけた細身の男は、彼女を蔑む目で見つめている。
「ど、どこから聞いて……」
「あんたが狼相手に愚痴ってるとこからだよ。寂しい女だな。喋れない動物相手にしか話す相手がいねーんだからよ」
下品に笑う小口を尻目に、内田はちらりとコマを見やる。
うんざりとした表情で見返したコマに、彼女は思わずくすりと笑った。
「どこ見てんだよ! あんたも逃げられないように、檻に閉じ込めてやる。生きた人間の解剖が出来ると先生が知ったら、大喜びだろうな」
「やっぱり、くだらないわね。ちゃんとしたデータも取れないくせに」
「データより、実績だよ。先生がいつも言ってるだろ? 解剖の数さえこなせば、解析なんか頭に残る」
「それで、適当で目分量なデータになるのね。科学者の風上にもおけないわ!」
目を吊り上げて怒りを表す彼女に、小口は小さく笑った。
「まだ科学者きどりだったのかよ。どうせ解析した物を提出したって、使えないもんばっかだろ? それを要求してくる上の連中だって、賄賂だなんだって大騒ぎしてるだけだし。ちゃんとした物出しても、見てないんだから意味ねーんだよ」
それくらい、知ってるだろ。と鼻で笑い、彼女の胸倉をつかんで勢い良く棚に突き飛ばす。
激しく叩きつけられた彼女は、そのまま昏倒した。
非力に見える細腕でも、男の腕力は備わっているようだ。
「檻に入れ。ハウス!」
小口が檻の扉を大きく開け、その側面を叩く。
しばしその光景を眺めていたが、コマは大人しく従った。
暗い部屋に逆戻りして元の位置よりかは扉側に落ち着けば、小さなセイが安堵の声を漏らす。まだ意識を失ったままの内田も床に転がされて部屋の鍵は閉じられた。
「ど、どうしたの? なにがあったの?」
コマと内田を交互に眺め、うろたえた声を出す。
「この女は知ってるな?」
「うん、もちろんだよ。ゴハンくれる人なんだ、良い人だよ! なにがあったの?」
「仲間割れだ。この女は、殺される」
コマの言葉に、猫目を大きく見開いたセイは息を呑んだ。
犬のように鼻を鳴らしながら、セイは怯えた表情で訴える。
「どうしたらいいの? どうしたら、いいの?」
「なるようにしかならない。負った罪は、いつか清算されるのだ。してきた事と同じ目に遭うのが道理だろう」
「でも、ボクは助けられたんだ! おなじ目にあうんだったら、ボクはおねーサンを助けられるんでしょう?」
強い意志を帯びた緑色の目が、キラリと光る。
小さく嘆息し、コマは狭い檻の中で立ち上がった。
「この女がいつか、お前を殺すかもしれないとしてもか?」
「そんな事知らないよ! ボクを残してくれたのは、おねーサンだもん。助けられるんなら、助けるんだから!」
「そうか」
コマが彼女を助ける義理などない事は確かだが、鉄製の檻を子猫の細い歯でかじりついているセイには、重大な出来事なのだろう。
変わるものだ。と苦笑して、コマは体当たりして扉を打ち壊した。
派手な音に、セイは檻の奥まで逃げていってしまったが、コマは気にする風もなく内田の傍に寄り、前足で彼女の肩を押す。
動かない事を確認し、コマは人型に戻った。小さな悲鳴が檻の中から聞こえてきたが、無視をする。
誰かが音に反応して近づく気配はない。
コマは鍵のかけられた扉に両手を当て、力を込める。
軋む音と金属が擦れる音がしたかと思えば、金属製の扉は大きくひしゃげて折れ曲がった。
傾いた扉は使い物にならなくなったが、そんな事はコマの知る所ではない。
「さて……」
手術台のある部屋へと戻り、奥の部屋をのぞけば手術着が整然と並んでいる。
大きめの一着を手に取り、それでも窮屈そうに身に付けた。
彼らのニオイは二階から動かない。寝直してしまったのだろう、と判断をつけてセイのいる部屋に戻る。
「起きろ、ウチダ」
軽く顔を撫でるが、反応はない。
興味津々、檻に顔を押し付けて、セイが大きな目を更に大きくしてコマを見つめてくる。
「ねえ! おにーサンなんだよね?」
「そうだ。静かにしていろ」
「助けてくれるの? おにーサンも、助けてもらったんだね」
「……静かにしろ」
セイの扉を壊して開けてやり、ギャーサンのいる大きな鳥かごにセイを押し込む。
彼女を肩に担ぎ上げ、鳥かごを片手にそっと部屋を抜け出した。
正面玄関へと足を向ければ、来た時と同様に、他の部屋からもザワリと生き物の気配が広がった。
「セイ。お前のようなのが他にもいるのか?」
「知らない。ボクはだれにも会わなかったもの」
とにかく、ここから出て人間の警察とやらに通報してやれば、後は何とかしてくれるだろう。とおおよその見当をつけて足を踏み出した。
しかし、すぐに何者かの気配を感じてコマは立ち止まる。
「止まれっ!」
背後から聞き慣れた男の声が響き、火薬のニオイをコマの鼻は嗅ぎ取った。