決意
楓は、今更ながらに後悔していた。
何の愛情も感じられない内田が持つリードの引き方に。そして、車にコマを押し込む時の違和感に。
あの男は笑顔で礼を言ったけれど、楓の中で得体の知れない不安が込み上げていた。
彼の娘の為に、楓はコマを送り出した。
その娘の幸せと、心から元気になればと思ったからこそ。
それなのに拭い去れない、この不安――
「私、間違えたのかな」
暗くなってきた二階の自室。ベッドにうつ伏せになりながら、日記に書き留めた物を読み直していると、不安と焦りが更につのる。
楓父は、車を追って飛び出そうと体勢を崩した楓を支えてくれた。
あいつの娘に挨拶をしたら帰ってくるから、大丈夫だ。そう言って笑ってくれた。
でもコマは、一度も振り返らなかった――
「コマさん……」
いつだって耐えるような、困ったような顔をしていた彼を思い出す。
楓は、自分は正しい事をしたのだと思う反面、押し潰されそうな自分の心に戸惑っていた。
ベッドから身を起こし、座ったまま部屋をオレンジ色に染める窓の光を目で追った。
徐々に濃くなっていく窓型の空は、楓の気持ちまで変えてはくれない。
「コマさんを見て喜んでくれたらいいな。違うって分かったら、ここまでまた送ってくれるのかな? もし、コマさんが人狼だって知られたら……」
冬の寒さではない寒気を感じ、楓は身震いした。
コマを想えば酷く胸が痛み、また一緒に暮らせればと思う。でも、男の娘が元気になれば嬉しい、という気持ちは嘘じゃない。
そんな葛藤が脳を支配する。
その時、配慮のかけらもなく扉が大きく叩かれ、楓は驚いて肩を竦めた。
「楓様、ご飯だよ。降りといで」
明るいネキの声に、楓はどれだけ自分が沈んでいたのか思い知る。
こんなに悩んだ事なんて、今までにはなかった事だ。一つ溜息を吐いて立ち上がり、扉を開けた。
「ネキさん。パパはまだいる?」
「ああ、いるよ。何だい? おねだりかい?」
「そうとも言えるし、ちょっと違うかも」
「じゃあさ、あたしのおねだりも付け足しといてくれないかい? 楓様からの『お願い』って事でさ」
いつもとまったく変わらないネキに、楓は少し苛立った。
「……ネキさんはコマさんの事、心配じゃないの?」
唐突な質問に、猫撫で声を引っ込めて楓の顔をまじまじと見つめる。
少し怒りの雰囲気を漂わせた小さな彼女に、ネキは思い切り吹き出した。
「あたしが心配? アイツを? 冗談も言えるようになるなんて、ホント驚きだねぇ」
「冗談なんて言ってないじゃん!」
「……冗談じゃなきゃ、何だい? 楓様が行って来いって言ったんじゃないか。野良犬がどうなったって、あたしが心配する義理なんて、これっぽっちもないんだよ」
人差し指と親指をぴったりくっつけて言うネキの、鋭く細めた青い瞳に気圧され、楓は言葉に詰まる。
顔をのぞき込みながら、ネキはボリュームのある金髪を揺らし大きく口角を持ち上げた。
「そうだろう? それに大体、あたし達みたいなのがどうなろうと、人間からしてみたらどうだっていいんだからさ」
「違う、違うよ! それは違う!」
「どう違うんだい。人間のくせに」
冷たく切り捨てるようなネキの言葉に、大きな茶色の目を見開いた。
「……どうだっていい生き物なんて、いないんだよ。人間だからじゃなくて、どんな生き物だって幸せな方がいいじゃない」
「ただ生きていたいってだけの幸せを奪うのが人間だって言ってるのさ。世間知らずの……」
ネキの言葉は、最後まで続かなかった。
銀色のお玉が一閃し、ネキは柵向こうへと投げ出された。
「ネキさん!」
楓が慌てて頑丈な柵に縋りつけば、見事に着地したネキが乱れた金髪を丁寧に直している。
今までネキが立っていた場所には、黄色のエプロンをした楓父が立っている。曲がったお玉を軽く直しながら。
「パパ! あんな事、危ないよ!」
「大丈夫だ。あいつは猫だから、これくらいの運動が必要なのだよ」
「……ネキさん、平気?」
柵から身を乗り出せば、ネキは赤く丸い痕がついた首をさすりながら、無言で手を上げた。
安心したように、楓父へと真剣な眼差しを向ける。
「パパも、人間はいない方がいい?」
「楓ちゃんさえ無事なら、後は構わない。私の立場からしたら、そうも言っていられないがね」
「……そう」
楓はうつむき、唇を噛みしめた。
しかし、強い光を帯びた瞳で、楓父へともう一度目を向ける。
「パパ、お願いがあるの。私がママと同じ『光』だと言うなら、その力の使い方を教えて欲しいんだ」
「何の為に?」
途端に笑顔が消えた楓父に怯みながらも、目を逸らす事はない。
これまでになく強く望んだ、楓の意思。
「私だって、皆を護りたい!」
楓父が眩しそうに目を細め、厳しくした表情を緩めた。
「いいだろう。だが、いいかい? 自分を犠牲にする使い方だけは絶対にしないと、約束しなさい」
「でも、そういう事が必要な時だってあるでしょ?」
「ない。万が一そんな事態が起こったとしても、まず自分を護る事を第一に考えると誓わなければ、教えない」
「でも、ママは……」
楓の言葉に、楓父は奥歯を噛みしめる。
続く言葉を慌てて飲み込んだ楓だったが、さすがに小さな声で謝った。
それでも困ったような笑顔で楓の頬を優しく包み、彼は柔らかく諭す。
「いいかい? 楓ちゃん。我々よりも、人間というものは脆く弱い。皆を助ける為には、まず自分が生きていなければ始まらないだろう?」
「うん」
「ならば、まず如何なる事があれ、一人だけでも生き残る術を身につけなさい。私もネキも、コマだってそれは身についている事なのだよ。
だから私はコマを心配などしていない。あいつは一人でも生き残れるからだ」
彼の言葉に、楓は小さくうなずいた。
「だから、まず楓ちゃんはどんな事をしてでも生き残れるようにならなくては。どんな悲しい出来事が目の前に起こっていてもね」
「……分かった」
きゅっと口を結び真剣にうなずく楓に、満足気に楓父も笑う。
「さあ、ご飯にしようか。まずは何があっても食べなくてはいけないよ。体力がなければ、何も出来ないからね」
「うん!」
力強くうなずいて、楓は最初の難関、階段へと歩を進めた。
お玉に引っ掛けられ、痛む首を擦りながら、ネキは呆れて目を細める。
野良犬の心配など、彼がしてるはずはない。コマを外にやったのだって、本当に仕事かどうか分からない。
実際、内田と名乗った男と会った上で『いるかどうか、分からない敵』など、楓父ともあろう者が分からないはずがない。
と、ネキは最初から踏んでいる。
ただそれを楓やコマに言う筋合いもなければ、義務もない。
(体よく丸め込んだだけじゃないのさ)
決して声には出せない言葉を浮かべては、楓父への焦がれと葛藤する。
一瞬、垣間見えた楓の光にネキは小さく嘆息した。ネキにとっては眩し過ぎる光。
楓父に認められる為ならば、彼女をいくらでも護ってやれる。
だが、光への耐え切れない欲求など、ネキにはない。
「何でこんな小娘を欲しがるのかねぇ」
思わず呟けば、お玉が飛んでくる。
甘んじて受けなければ、他に何をされるか分からないとネキが頭を突き出せば、そのまま昏倒する事となった。
次の日の朝、楓に揺り起こされるまで――