いつまで?
静かな寝息を聞きながら、コマも定位置で丸くなる。
目を閉じれば、北風の高く低く泣く声が耳についた。静寂を保つ空間は、コマの感覚を鈍らせる。
「いつまでここにいるべきか」
そう自問する声に、答えは見出せない。
楓から離れられるものか、と言った楓父の言葉を思い出し、奥の扉に目をやれば、待っていたように音もたてずにゆっくりと開く。
「コマ。お前に仕事だ」
「オレが、ですか」
「この家の様子を窺う人間がいるようなのだ。その真意を探れ」
唐突に言ってくる楓父に、コマは小さく首をかしげた。
楓を守る事が仕事だと言い、今回は楓から離れても構わないと言う。
だが結局は、どちらも彼の命令に違いはない。
コマは逆らえるわけがなく、うなずくしかなかった。
「いつから、どの形態で?」
「その時がきたら分かる。それまでは高貴な狼を気取っているんだな」
口の端を持ち上げて笑い、楓父は部屋へと消えた。
ネキが持ち込んだ情報からなのだろうか、コマはとにかく運動不足気味な身体を伸ばし、大きく振るわせた。
楓部屋の扉を眺め、目をそらせば大きな図体で横になっている巨虎。
奥の部屋には、得体のしれない生物。
「オレは、この家に入り込み過ぎてはいないか?」
誰も答えてはくれない。
無言で考えを巡らせても、答えはでない。
弱々しく頭を振った。
「ああ、バイト先にやめると伝えなくてはいけなかったな」
籐のカゴに入れてある服がある事を確認して、人型に戻る。
服を身に着けてから、楓の部屋をノックした。
「楓、コートを貰えないか?」
扉の隙間から楓が覗き、人型になっているコマを見て、眉間にシワを寄せた。
大きく手前に扉を開けると、黒いロングコートを手渡しながら、訝しげに聞いてくる。
「どっか行くの?」
「店にバイトをやめると伝えてくる」
「電話じゃダメなの?」
「失礼な態度を取れば、後々までこんな奴がいた、となりかねない。人の中に存在を残したくないからな」
突然の辞職ともなれば、電話であれ直接であれ、失礼である事は変わらないのだが。
コマは真剣だった。
楓も小さく息を吐いて、
「分かった。やめるの、私のせいでしょう? 私もついて行く」
「いや、大丈夫だ。すぐに戻る」
「コマさんがどんな所で働いていたのか、ずっと興味があったんだ。ダメ?」
断ればまた機嫌が悪くなるのだろうか。コマは困った顔で言う。
「槙原様の許可があるのなら、連れて行こう」
「ホントに!」
楓の顔が輝いて、コマは戸惑う。
やめるようなバイト先に連れて行くだけの事が、どうしてそんなに嬉しいのか、コマには分からない。
腕を借りて階段をおりる楓は、すでにオレンジ色のコートを身につけている。
「パパ! パパ、ちょっと出かけてくるから」
軽くノックをすると、扉が開き変わらない暗闇の中から、楓父が姿を現した。
コートを着た人型のコマ。同じく楓を見て、首を振る。
「ダメだ」
「どうして?」
「三人組に襲われた事を忘れたのかい? 今日は家にいなさい」
「明日ならいいの? 明後日なら? ずっと怯えて暮らすのは、イヤだよ」
言葉に詰まる楓父は、またしてもコマを手招きした。
楓から少しだけ離れた場所で彼女に背を向け、男二人は肩を寄せ合う。
「……何の用があるのだ? 楓ちゃんよりも大事な用事だろうな」
「バイトを断りに行こうかと」
「電話で十分だろう」
「いえ、店長が前に言ってたんです。急にやめるのはもってのほかだが、更に電話辞職など、許せない。と。ずっと人の頭に残るのは困りますし」
怒りに顔を歪めた楓父に、コマは大きな身体を出来るだけ小さくした。
楓父が眉間に手をあてながら、珍しく提案してくる。
「私が特別に、区域一帯の記憶操作をしてやる。楓ちゃんを外へ出そうとするな」
「いや、しかし」
「他にも何かあるのか? 私の提案を蹴ってでも、大切な事か。いい度胸をしているな」
闇色の瞳が、赤く光る。血のように深く、危険をはらむ色。
コマの脳神経が危険信号を発すると同時に、慌てて首を横に振った。
ゆっくりと振り返ったコマは、複雑な表情で楓に声をかける。
「用事はなくなった。手伝うから、部屋に戻るといい」
「どうして? そんなに私をお店に連れて行きたくないの?」
「いや、行かなくてもよくなったのだ。槙原様が協力してくれてな」
声にならない悲鳴をあげ、驚きに目を丸くして楓はコマの隣に視線を移した。
いつもの黒い瞳を細めて、楓父は笑っている。
二人の男を交互に見やり、楓は声をしぼり出した。
「パパ、熱はない?」
「心配してくれるのかい? 大丈夫だよ、楓ちゃん。コマに協力したら、楓ちゃんが喜んでくれると思ってね」
「うん、嬉しいよ。でもコマさんのお店も見てみたいの」
真剣な表情を崩さない楓に、楓父は決して首を縦には振らなかった。
「いいかい? 楓ちゃんは今日、得体の知れないモノに襲われたんだよ? 危険が去ったわけじゃない。今日はおとなしくしていなさい」
「もう危険な目にあったもの。今日はもう大丈夫だよ」
「駄目だ、部屋に戻っていなさい」
珍しく楓に厳しい口調で言う彼に、コマは悪くなる一方の空気に手の打ちようもなく、そっと息を吐く。
歯を食いしばって怒りを堪えている楓は、それでも身を翻して階段に向かった。
楓父も、無言で奥の部屋へと姿を消した。
「……手を貸そうか」
居たたまれずコマが声をかければ、楓は振り向きもせず、うつむいて低い声を出す。
「私が、コマさんの飼い主なのに」
「そうだな」
「……じゃあなんで、コマさんはパパの言う事ばかり聞くの? おかしいよ!」
「犬は、人間サマの言う通りにしておけば良いとでも?」
感情を排した声が酷く心に刺さり、楓は慌てて階下を見下ろした。
声と同じくらい無表情で佇む彼が、獰猛な獣が威嚇するように、金色の瞳を冷たく光らせている。
気持ちの悪いくらい、静まり返った白い空間。
先に凍りついた空気を破ったのは、コマだった。
「悪かった。オレは楓に助けられたんだったな。リーダーに従おう。どこに行きたい? 望みのままに連れて行こう」
「違う、違うよ」
「何が違う」
コマは階段の途中で動けなくなってしまった楓に、手を差し出した。
複雑な感情が、楓の顔に浮かんでは消える。
ショートボブをさらりと揺らして、首を横に振った。
「ごめんなさい。私、飼い主じゃなくてもいい。コマさんは友達だよ、大事な友達」
「ってゆーか、犬にはリーダーが必要なんだ。楓なら安心だ」
「でも、イヤだ。私がコマさんの自由を奪ってるんでしょ? 本当は出て行きたいんでしょ? 時々、そう思うの。コマさんは、自由にしていいんだよ」
真っすぐな茶色の瞳に、コマは目を丸くした。
そんなにも分かるくらい表情に、態度に出していたのだろうか。彼は、思わずといった調子で苦笑する。
「野生としては、致命的だな」
「この家にいる事が?」
「いや、違うよ。オレ自身の事だ」
分からないと首をかしげた彼女に、コマは笑った。
その笑顔に、楓も安堵の表情を浮かべる。
「コマさんには、ずっとここにいて欲しいけど。本当にコマさんの好きなようにしてね?」
「大丈夫だ。まだここから出ようとは思っていないからな」
差し出したままのコマの手を取った楓は、そのまま抱き上げられる。
「それで。店に行きたかったんだよな」
「ううん、それはもういいよ。今日は部屋に戻ってなきゃ。明日、また散歩に行こうね?」
「ああ、分かった」
至近距離でふわりと笑われ、コマも口角を少し持ち上げた。
本来なら、楓のリハビリに補助として手を貸すだけなのだが、抱き上げたまま階段をのぼる。
楓部屋の前でおろし、コマは黒のロングコートを手渡した。
「何かあれば、声をかけてくれ」
「うん。ありがとう、コマさん」
コートを握りしめ、楓の嬉しそうに笑う姿が、細められた金色の瞳に映っていた。