尋問
直立不動で身体が固まったように動かないネキ。その眉間に一片の赤い花弁をつけられて、苦しそうに身を震わせている。
冷酷な笑みを浮かべたまま、楓父はもう一片花弁を取り、振り返った。
視線の先には、こちらを見ようともせず、我関せずを貫いている灰色の獣。
それでもせわしなく耳を傾けて警戒している彼に、楓父が音もなく傍らに寄った。
「……!」
コマが耳に感じた小さな痛みに頭を上げた時には、一滴の血を採られ、それを擦り付けられた花弁からは黒い煙が上がっていた。
煙の中で、歪み変化する。煙が消えた時には赤黒く怪しい光を放つ小玉となって、楓父の手に納まっていた。
「さて。自分で語れないのなら強制になるが。どうする?」
「わ、分からないものは、言いようが……ないだろ」
「そうか」
楓父が玉を手に乗せ、ネキの方へと差し出す。
コマの頭上、黒い扉の表面が盛り上がり、異質な空気を振りまきながら蝙蝠が生まれた。
闇の色に染まったソレは、玉をくわえるやネキの額にある花弁へと一直線に飛ぶ。
すでに治りかけている耳を気にする事もなく、コマはその様子を見守っていた。
彼女の絶叫とともに、蝙蝠は黒い霧となって消え、花弁が玉を包み込み、彼女の額へと埋め込まれていく。
「楓様に、怒られますよ」
「お前達が言わなければ、分からない事だ」
コマのつぶやきも、失笑とともに流された。
結構な騒ぎの中、楓が出てこないのは楓父の仕業だという事も、以前のコマへの『シツケ』で確証を得ていた。彼女には、この騒ぎが届いていないのだ。
「ネキ。書類を書いたのは、誰だ」
「あたしだよ」
目の色には覇気がなく、虚ろである。
楓父の言葉に、震える声でゆっくりと返事をするネキ。
「書かせたのは、誰だ」
「名前は、知らない。女、で、黒い長髪の……病気、みたいな白い肌。気持ち悪い、赤い唇」
「どこで書いた」
「北の港……黒い、車の中。槙原様を、あたしのモノにし、て、くれ……るて……」
脳の限界が近いのだろう、彼女の身体の震えが大きくなる。
楓父が舌打ちをすると、ネキはその場に崩れ落ちた。
赤い花弁だけが一枚、ひらりと床に落ち霧散した。
「コマ。水でもかけて、起こしてやれ」
「……はい」
薔薇を手にしたまま、楓父は奥の部屋へと姿を消した。
それを見届けてから、コマは形態を人へと変化させる。バスローブをはおり、ネキへと視線を向け、小さく息を吐いた。
「起きる事が出来るか? 無理なら、水をかける事になる」
「……お、鬼だね。ホントに。放っといておくれよ。あんな事されて、すぐに回復するほど、あたしは強く、ないんだよ」
「話せるのなら平気だな。人の姿で床に張り付くのは、見ていて気持ちの良い物じゃない。姿を変える事が出来るのなら、獣になっておけ」
水を汲む必要がなくなり、コマはまた狼へと戻った。
指先一つ動かせないほど疲弊している彼女は、小さく唸りながらも、大型獣へと変貌を遂げた。
金色の毛並みに、黒の縞模様。コマよりも大きく美しい毛並みをした、虎。
匂いで分かってはいたが、初めて見るその形態に、コマは息を呑んだ。
大きな頭を床から離す事なく、宝石のように透き通った青い目を細めて、ネキは薄く笑う。
「なんだい。見惚れたのかい?」
「それはない」
きっぱりと言うコマに、さすがにネキが抗議の声をあげかけた時、楓部屋の扉が勢い良く開いた。
「ネキさん! 平気?」
階上の柵に寄りかかって叫んでくる楓に、ネキは返事の代わりに太い尾を一度動かした。
ゆっくりと足を引きずりながら階段をおりてくる楓を、いつものようにコマが見守る。
彼女は、寝そべっているネキに歩み寄り、大きな金色の頭を優しく撫でた。
「ネキさん、大丈夫だった? 酷い事、されなかった?」
「……大丈夫さ。少し疲れたから、ここで寝てもいいかい?」
青い目だけで楓を見返して、ネキは息を整える。
楓は大きくうなずき、コマの下に敷かれているバスローブに目をつけた。
「コマさん、ごめんね? バスローブ借りてもいいかな?」
「ああ。ってゆーか、元々オレの物じゃないしな」
青いバスローブを、ネキの上にかけようとすると、彼女はさすがに唸り声をあげた。
「やめとくれ! そんな犬っころの匂いがついた布なんて、まっぴらごめんだよ!」
「大丈夫よ。毎日洗ってるし、さっき取り替えたばかりだから」
「いーやーでーすー」
息を荒くして、巨大な虎は大きな牙を剥き出しにした。
本当に咬みつくという事は考えられないが、疲れている彼女に無理強いも気が引け、茶色の瞳を困ったように細める。
コマは、小さく息を吐いた。
「元は、槙原様の所有物だぞ?」
「それ本当かい? ……だまされないわよ。槙原様の匂いなんて、しないじゃないさ」
「……普段でも、匂いのあるヒトではないだろう」
その言葉に、ぐっと詰まる。
コマは、もう一声かけてやった。
「ってゆーか、楓様を困らせたら『シツケ』されるぞ」
「………………分かったよ」
もう言葉を話す事すら億劫になったように、巨大な虎は目を閉じて諦める。
そっとバスローブをかけた時だけ、毛を逆立てたが、何かを言い返す事はなかった。
もう一度、小さく息を吐き、灰色の獣は話を変えた。
「楓様、少し興味があるんだが」
「何?」
普段から高いわけではない声のトーンを、更に低くし、ショートボブの黒髪を揺らして首をかしげた。
「オレの名を『コマイヌ』から取ったように、ネキも何かあるのか?」
聞かれる事はないと思っていたのだろうか、楓は目を丸くしてから、少し訝しがるように顎を引き、うなずく。
「ネキさんを見つけた時に、小さな招き猫が落ちてたの。コマさん、知ってる? 招き猫の置物」
「……いや、見た事はない」
「そう。もう落ちてないかもしれないから……今度、見かけたら教えてあげるね」
「いや別に……ああ、その時はお願いします」
楓父が消えた部屋から、物凄い重圧を感じ、背筋を凍らせながら、慌ててコマはうなずいた。
その様子に、楓がくすりと笑う。
「どうしたの? 変だよ、コマさん」
「これが、オレだからな」
人型であれば、冷や汗が止まらなかっただろう。
早鐘のように打つ心臓を宥めながら、コマは空気が変わる事を願いながら、尾を三度ほど振り回した。
「コマさんは、ネキさんの事が気になるの?」
唐突の質問に、金色の瞳で楓を凝視して、今度は彼が小さく首をかしげる。
彼女の意図がつかめずに黙れば、楓の表情がゆっくりと不快を表した。
「やっぱり。人間のネキさん、綺麗だもんね。虎になっても、すごく綺麗だし」
「……そうか」
楓の心中を推し量りながら、無難な返事をしたはずが、不快という文字が色濃くなっただけだった。
コマは、幾分焦りを浮かべ、きっちりと座り頭を低くする。
「ってゆーか。楓様の聞きたい事が、いまいち分からない」
「もーいいよ! 今日はコマさん、冷たい床で寝てればいいんだよ!」
階段をのぼる手伝いを申し出たコマ。
しかし、それを楓はぴしゃりと断り、部屋に入る時にも振り返る事はなかった。
冷たいと言われた床とて、外の生活に慣れているコマにしてみれば、まだ温かい。
もう奥の部屋からの重圧は、なくなっていた。
灰色の頭を小さく振って、コマは溜息を吐いた。
ただ目を閉じていただけだったのだろう。ネキが、ノドをくつくつと鳴らして笑った。
「……ったく、バカだねぇ。少しは女心を勉強するがいいさ」
「お前と話をすると、楓様の機嫌が悪くなる事は分かった。特に用事がない限り、オレに話しかけるな」
「はいはい」
ネキは楽しそうに青い目を細め、ノドを鳴らして笑った。