1話 海底に沈む夢
これは夢だ、と明らかにわかる夢だった。海に沈んでいくのに、息が出来る。周囲は青、青、青しかない。深い深い闇に飲まれていく一瞬、こちらに伸びてくる手があった。伸びてくる手に、自分の手は届かず、ただ虚しく、空を切って体が海へ沈んでいった。
―――――――――――――――――長い様な、短い様な、奇妙な夢から覚めると、現実が待っている。何度目かのスヌーズが、美しい音色を奏で終えたところらしい。現在時刻は午前七時十分。遅刻は必至だった。跳ね起きる気もせず、今日はのんびり学校へ向かおう、と体をゆっくり起こしたところで、気が付く。外では雨が降っていた。
「やっぱり休もうかな」
ふと、見た夢を思い出す。海に沈んでいく自分と、伸ばされた手。手は取り合えないまま、自分だけが、奥底の闇へと飲み込まれていく、あの夢は、今自分の身に起きている状況そのものなのではなかろうか、と無駄な憶測をしてしまう。溜息を吐くと、余計に学校へ行く気は無くなり、私はスマートフォンを手に取って、学校へ電話を掛けた。
学校を仮病で休むのは、実は初めてではない。ここ最近はずっと、あの教室に入るのが嫌で、逃げている。高校生になってまで、陰湿な嫌がらせが横行するなんて、思ってもいなかった。私が被害者になったわけでもないし、加害者になったわけでもない。ただ、私はあの幼稚な空間に居ると、自分まで馬鹿になってしまう様な気がするのだ。脳の隅々まで学校の教育方針に洗脳された、純粋無垢な、悪意無き悪意を向けられた時、私はどうするべきなのか、きっと分からなくなってしまう。私は弱いから、汚されないうちに逃げたのだ。“勉強のできる人間だけが優れている”と錯覚してしまいそうな、あの学校の理念に汚されないうちに。
最近では珍しい豪雨だったので、外に出てみよう、と思い立って、一番古いスニーカーを履いて出かけた。雨は全てを洗い流してくれそうな気がするから、好きだ。晴れているよりずっといい。傘に雨粒が跳ねる音、水溜りに踏み入った時の靴の感触。いつもは殺風景に見えるこのビル街も、なかなか楽しい街に見えてくる。同じ制服の誰かに出会ったら、というリスクも他所に、私は街を駆け巡った。雨の温度が、私の中に渦巻く汚い思いを凍らせてくれると信じて。
路地裏を走り回って、いい加減スニーカーが重くなってきた頃、雨は止んでしまった。晴れてきた空を眺めているのが辛くなったので、家路につこうとした、その一瞬だった。見慣れた制服の、見たことのある顔と鉢合わせしてしまったのだ。色素の薄い真っ直ぐな髪、大きな茶色の瞳、そばかすのある頬、薄い唇。彼女こそが、あの悪意無き悪意の標的になってしまった、穂村凪咲である。
「…………ご、ごめんなさい、失礼しますッ」
駅の方向へと走って行く穂村さんを、呼び止めてしまったのは、その目があまりに、傷ついた瞳だったからか、それとも正義の味方になってみたいと思ってしまったからか。今となっては知ることの出来ない衝動的な行動だった。
「ま、待って、穂村さん」
私の言葉に、穂村さんは立ち止まり、振り返った。
「行きたくないなら、行かなくていいよ。……私も、行きたくないからサボっちゃった」
穂村さんの呆然とした表情と、私の緊張が釣り合わなくなった時、穂村さんはちょっとだけ、笑顔になった。後戻りのできない選択をしてしまったのだ、と今になって気づく。だが、不思議と後悔の念は感じない。それはきっと、穂村さんが笑顔だったからだし、自分が間違っているとは到底思えなかったからだろう。