7
放課後。
いつも通り、私は千霞ちゃんを待つために学校に残る。今日は図書室ではなく、教室に残った。放課後の教室は特に騒がしいわけでもないため、図書室と同じような空間になる。本を読んだり、宿題をするだけなら別にどちらでもいいのだ。
私は持ってきていた本を机の上に置いて、今日出された宿題にとりかかった。数学とか、ちょっと面倒な問題が多いが、これが終わったら本を読めるというご褒美を自分に与えて黙々と進めていく。
なんとか突っ掛かりながら取り掛かって、本当にわからないところは、答えを見て、赤ペンで数式を書き込みながらチェックしていく。
だいたい、1時間ほど経っただろうか。まだ千霞ちゃんたちは部活を頑張っている時間なので、余った時間で本を読み進めようと本に手を伸ばしたところで、この教室に私以外の人の気配があることに気づいた。
ぱっと顔を上げて辺りを見回してみると、そこにはお昼、私のところにきた高飛車少女の後ろにいた女の子たちがなぜかそこにいた。
「……えーっと。何かありましたか?」
「あなたにお話があって」
「それは、お昼に解決したと思っていましたが……?」
「それは、霧崎さんの用事であって、わたしたちの用事ではないわ」
「………………」
おっとー。こっちが本命のリンチだったかー……。
図書室に行けばよかった。あそこなら人が必ずいるから、こんな風に絡まれることもなかったのに。なぜ私は今日に限って教室を選んでしまったのだろう。というか、私は教室に呪われているのだろうか。確かプリンスと出会ったのもこんな放課後の教室だったと思うのだが。
3、4人の人が私を睨んでいるこの光景はちょっと怖いなぁ……。
なぜ私が一人の時に来た。……いや、私が一人だから来たのか。誰かが一緒だと面倒だもんね。お昼のあれを見てたからそう思うよね。うん。
「あなた、何様のつもり?なんでルクス様に近づいてるの?誰の許可があって近づいてるわけ?」
「……ですから、私は普通を愛する普通の女子高生ですって。それに、あの人に近づくのに誰かの許可がいるんですか?」
「当たり前でしょう。彼はこの学校のプリンス様よ?」
「……その前に、彼も人間ですよ。そんな特別扱いしなくてもいいと思いますけど」
「何を言ってるの。特別な方なんだから特別に扱わなくてはならないわ」
だめだ。この人たちはきっとお昼の彼女よりもなお面倒臭い。
「二度とルクス様に近づかないでいただけるかしら?」
「私が近づいたことなんてないですけど」
「嘘おっしゃい。あなたがしつこくルクス様に言い寄ったんでしょう」
いや、それは本気でない。
この人たちの耳は飾りなのかな?お昼の会話を聞いてなかったのかな?あー、ただ彼に見とれてただけなのかな?
いや、かっこいいもんね。うん。それはわかるよ。わかるけど、そこまで騒ぐほどじゃないと思うんだよね。
「……いや、プリンスよりもゼファーさんの方がイケメンさんだったよ……確実に……うん」
思わず、そんなことをつぶやいてしまったからいけなかったのだろう。
なぜか、目の前の女の子たちにすごい勢いで睨まれてしまった。え、まじか。
「あなた、ルクス様にいいよりながら他の男ともできてるの?ふざけてるの?」
「いや、今のは……」
「最低っ!ただでさえあなたのためにルクスは落ち込んでおられるのに!!あなたはそんなことも気にせず他の男とよろしくやってるってわけっ!?」
「あの、だから……」
「不潔だわっ!こんな女、ルクス様に近づくことすら許せないのにっ!!」
「話を……」
「なんでこんな平凡なあんたがルクス様と一緒にいるのよ!?ほんと、どんな手を使ったわけ!?」
「いや、どんな手も何も……」
「喋らないでくれない!?あんたの不潔がうつるわっ!」
あー……どうしよう。何も弁解させてくれない。でもこれって黙ったら「何か言いなさいよ」パターンなのではなかろうか。だれか、助けてください……。
「ちょっと!いきなり黙らないでくれる!?」
うわ。ほんとにそうきた。
でも、私が何か言ってもきっとまた何も言うなと言われるに違いない。ここは黙っていた方がいいに決まっている。
よし、黙ろう。
「ちょっと!無視するんじゃないわよ!!」
あーっ!ほんとに誰でもいいからここを通ってくれないかな!?誰でもいいから!一般生徒もどんとこい!
「なんとか、言いなさいよっ!!」
「……っ!?」
気付いたら、一人の女の子が私のそばまで来ていた。全然気づかなかった。というか、手を振り上げている。これは、確実に叩かれるっ!
そう思った瞬間に、ぱぁん!と音が鳴り響く。私の頬は痛みを訴えてきた。痛い。
というか、私が何をしたというのだろうか。本当に。
私は何もしていない。ただあの日、プリンスに何気ない言葉をかけただけだ。私にとっては普通のことをただ話しかけただけなのに。そこから、彼からの好きだというアピールが始まって、初日には私の中では事件があった。過去に起こったなんらかのトラウマに、プリンスが触れて正気をなくし、周りに迷惑をかけてしまった。
それから二週間の間は平和な毎日を送っていたはずなのに、今日に限ってなぜこんなにもトラブルに巻きこまれなければならないのか。
涙がじわりと滲んできた。
私は何も悪くないはずなのに。
私が一番の被害者のはずなのに。
なんで私が一番の加害者になっているの?
「……ふっ……」
「ちょ、やりすぎじゃない?」
「まじ泣きしてるよ?」
「だ、だって、さすがによけると思って……!」
そんな反射神経があったら、私は運動部にきっと入ってる、と内心で抗議する。
「……遅かったですか……」
突然響いた聞き覚えのある声に、私はぱっと顔を上げた。
女の子たちも驚いたのか、声のした方を見る。
「……ああ、叩かれました?頬が赤いですよ?」
何事もないような感じで私に話しかけてくれているのは、プリンスの付き人だと思われる人――ゼファーさんだった。
やっぱりいつ見ても綺麗な銀髪で、瞳も綺麗だ。
しかし、なぜここにゼファーさんがいるのだろうか。
「ど、して……ここにいるんですか?」
「我が皇子から、あなたのことを気にかけてくれと言われまして。いつもは図書室にいらっしゃると聞いておりましたのでそちらにいたのですが、なかなかあなたが来ず、もしかしたらと思いこちらに足を運んでいたら、何やらもめているような声が聞こえて、慌ててきたのですが、遅かったみたいですね」
「……なんで、プリンスが私のことを気にするんですか……」
「どうやら、あなた様に本当に惚れ込んでいらっしゃるようでして」
「……迷惑です」
「そう仰らないでください。あなたといることで、あの方も学べることがおありでしょうし」
「私には、関係ないじゃないですか……」
感情が爆発しそうなのを、必死に抑える。
「私は、ただ普通の毎日を送りたいだけなんです。そっとしておいてください……」
「それは、理解しているつもりですよ。あなたは、普通が好きだと。ですが、あなたは普通が好きすぎるきらいがある」
「……それの、何がいけないのか。私にはわからない」
お母さんも言ってた。姫乃は普通が好きすぎる、と。でも、それの何がいけないのだろう。ただ普通に生活して、ただ普通に過ごすということの何がいけないのだろうか。
大切すぎる何かを作るのは、とても怖い。
それが、ただ同じように流れていく毎日でも。それが大切だと思うのはとても嫌だ。
これが普通なんだと、これが当たり前なんだと、そう割り切って何がいけないのか。
「あなたは、毎日がつまらなさそうですね」
ゼファーさんは、私にそういった。その言葉に私はどきりとした。
きっと、図星だったのだろう。
でも、怖いものは怖い。
誰もが持っている“大切”という気持ちに蓋をして、何がいけないのか。それを持ちすぎると、私は立ち止まってしまう。重すぎて、動けなくなってしまう。
「私は、今のままがいいの。このままでいいの」
「……我が皇子も、お気付きですよ」
そんなはずはない。
私は彼のことを知らないのだから。彼も私のことを知らないに決まっている。
「まあ、今はそのままでもいいのでは?いきなり環境を変えられても、あなたは拒絶するだけです。それなら、少しずつでもいい。あなたが自らの意思で変わっていってください」
ゼファーさんは私に無茶なことを言った。
「さて、ところであなた方はこの方に何をしていたのですか?みたところ、集団で何やらやっていたようですが」
「あ、あなたには関係のないことでしょう!」
「それがそうとも言えないのです。我が皇子が気にしているお方ですから、何かあっらわたくしの仕事がなくなってしまう可能性があるのです」
うわ、現実ってシビアだな……。
思わず冷静にそう思ってしまった。
仕事がなくなるって、クビになるってことだよね?……その程度のことでクビにされるの?
「……ゼファーさんの仕事がなくならないように、私がなんとかしますから、脅さないであげてください……」
「そう言われましても、わたくしも生活かかってますから」
そうですよね。わかってはいるつもりです……。
「とりあえず、今日のことは誰かに言いふらしたりなんてしませんから、帰ってもらってもいいですか?」
私は、怯えて一つに固まっている女の子たちを見てそういった。よほどゼファーさんの何かが恐ろしかったのだろうと思われる。こんなに怯えるなんて普通に考えればありえない。
さすが、一国の皇子様の付き人さん。
女の子たちはばたばたと走って教室を出て行く。残されたのは当たり前だけど、私とゼファーさんだった。
「……今日はプリンスのところに行かなくていいんですか」
「もう行きましたよ。そしたらあなたのことを頼まれましたので」
「お昼のことがあったからかな……気にしなくていいのに」
「それほどそのお昼の出来事やらが、あの方の中では危ないと思ったのでは?」
「あなたに助けられたとバレる方が、私は身の危険を感じますけど」
「ではその時も、わたくしがあなたをお守りしましょう」
何なんだろう、この人は。
私とは何の接点もなかったはずの人なのに。私がプリンスに気に入られることがなければこんな風に会話をすることすらなかった人なのに。何でこんなにも私のことを気にしているのか、理解できない。
「二年生になってから、いいことが何もない……」
「そうですか?少なくとも、少しの刺激は与えられているのでは?」
「毎日に刺激なんていらない。ただ普通に過ごして、ただ普通に生きていたい。それだけなの」
そう。私は何の刺激もいらない。誰かと深い関係にもなりたくない。それがたとえ、同性でも異性でも。深く知りすぎるのは危険だから。それ走っただけ、その人のことを大切だと思ってしまう。
その後、どんな形でも裏切られたら、それは消えない傷として一生背負っていかなければならない。
癒えるとは思う。
けれど、それがどれほどの時間がかかるのかはわからない。数日様治るかも知れないし、もしかしたら何十年もかかってしまうかもしれない。生涯、忘れられない傷になるかもしれない。
「あなたは、きっと周りが見えてないんじゃないですか?」
突然そんなことを言われて、私は戸惑った。
もちろん、私は周りを機にする余裕なんてない。見えてないと言われても否定なんてできない。けれど、ゼファーさんが言っているのは、私が思っていることとは少し違う気がするのだ。何かはわからないけれど、漠然と、違うと思った。
「……まぁ、まだ子供ですし。大人に甘えるのもいいんじゃないですか?あなたは、不自然な大人っぽさがありますし」
「不自然な……大人っぽさ…?」
「さあ、帰りましょう。送って行きますよ」
「…いえ、私友達待ってるので」
「大丈夫です。わたくしの方からあなたを送る旨を伝えておきましたので」
いつそんなことをしたのかと問いたかったが、きっと聞いても無駄だろうと思った私は、ちゃつと肩を落としておとなしく彼についていく。
結局、自宅マンションの前まで彼は車で送ってくれたのだった。