第4章「風邪」2
次の日、双葉はいつもより早く学校に到着した。家にいても落ち着かなかったからだ。
「で、どうすんだ?」
楓が登校してすぐに双葉の所に来てそう尋ねた。そんな問いは楓に言われるまでもなく双葉も寝ずに考えていた。最良なのはその日の内に修復する事だった。人間関係は一度気まずくなると、ぐずぐずしている内にどんどん話かけづらくなっていく。本当は家に寄ってでもで腹を割って話すべきだったのだがそれはかなわなかった。
綾瀬と対峙するのがイヤで仕事に逃げたようにも錯覚したが、冷静に考えそれは否定した。昨日はじっさいにクラス委員の仕事で一緒には帰れなかったのだ。そもそも双葉はそんなに暇な人間ではない。綾瀬といたいが為に仕事を前倒しで処理しているから放課後に時間が空くのであって、これまでも突発的に仕事が入った時はそちらを優先してきた。それがたまたま昨日もあっただけだ。
双葉は家族と喧嘩して三ヶ月ほどだんまりだった事がある。しかし綾瀬に対してそんなのは我慢できそうもなかった。だから楓に言った。
「綾瀬さんが来たら、私から話し掛けるわよ」
「そっか。わかった」
楓も具体的な方法が聞きたい訳ではなかったのだろう。それだけで納得した。そもそもこういうのは手段は問題ではない。彼女は自分の覚悟を確かめたかったのだ。そんな大袈裟なことではないとわかっているが、椅子に待つだけでも心臓がバクバクとうるさい。こういう時に隣にいる楓は優しいのだろう。
しかし、いくら待っても綾瀬は学校に来なかった。その代わり、朝礼二分前になって二人宛に綾瀬からメールが届いた。
「風邪引いちゃった。休む」
文面を見て二人で机に突っ伏す。今か今かと待ち続けて気張っていたのだ。朝から放課後並の脱力感だった。
「もうすぐ七月とはいえ水かぶって、下着着けてないのは身体冷えたかもなー」
楓が机に寝そべったまま言った。
「きっと家に帰ってもそのままの格好でいたりしたのよ。誰もいていって言ってたし」
「間違いないな」
「私、綾瀬さんには肩透かしばっかり食らってる気がしてきたわ」
「それ、気だけじゃないと思うぞ。私は感じてたよ。最初に言ったろ、あいつはこっちサイドの人間だって」
「現実は直視しなきゃいけないわよね、やっぱり」
「らしくなってきたじゃん。じゃあ行くか」
「はい?」
「もともと今日は泊まりで遊びに行くつもりだったしな」
楓がクラスメイトに向かって続ける。
「今日、日直って誰、ささやん? 私、お腹痛くなったから帰るわ。双葉も付き添いで」
双葉は苦笑いした。ばつ悪く頭を掻いた。こうなった時の楓はもう止められないの知っているからだ。それに何も彼女だけが悪いのではない。引き留める気がない自分も同罪だ。この友人はそういう時にしか無茶をしないのだ。
双葉は自転車通学、楓はバス通学だった。二人とも綾瀬が住む番地に覚えはなかったが、携帯の地図アプリで大体の所在は把握できた。住所は調べるまでもなく把握していた。綾瀬が転入してからずっと面倒を見てきた双葉は、そういった書類を目にする機会が何度かある内に自然と覚えてしまった。
学校を抜け出し、自転車を手で引いて綾瀬の家へ向かう。実際に歩いてみると双葉は地名を知らないだけで町並みには覚えがあった。 自分の家とは反対方向だが、以前に生徒会の買い出しで通ったことがあった。
当然だが辺りは何の変哲もない住宅街だった。綾瀬の住む家も至って普通だ。白い外壁にレンガ色の屋根をした二階建ての庭付き一戸建て。敷地も両隣と比べて特別大きいということはない。日本でも、すなわち世界でも有数の大富豪である新開静流の自宅とは思えないが、表札には確かにローマ字でSHINKAIとあった。
楓がためらいなくインターホンを押す。家から人が動く気配がした。少し安心する。たてないほど具合が悪いとかではないようだ。しかし綾瀬が出るまでに双葉にはやらねばならない事があった。
「あなたってホント行動的よね」
「何が?」
「学校サボったり、普通ここまでしてくれる友達はいないって事」
「学校を休むってのがみんなにとって同じ価値な訳じゃないからな。ワタシにとってはこっちの方が大事なのさ……ってひょっとして、お礼を言ってるのか。物凄く分かり辛いけど」
「そうよ。でもあなただとどうも、素直に言いにくくてね」
「まー、今までの積み重ねがあるからな。例えば……こんな!」
楓が突然身を翻し、双葉が停めた自転車にまたがった。双葉が声を上げる間もなく自転車は発進しみるみる遠ざかっていく。先に見える曲がり角で停止し言った。
「明日また様子見に来るわ。それまでこの自転車は借りとくぜ!」
るーるるー、と楓の鼻歌はすぐに小さくなり聞こえなくなった。このやるせなさを何にぶつければいいのだろう、と双葉が拳を震わせていると、玄関ドアが開き薄手のパジャマ姿の綾瀬律が顔を出した。さすがに元気とは言えないが顔色もそこまで悪くない。
「いらっしゃい」
「えっと、お見舞いにきました」
「ほんと? わざわざ悪いね」
「相手を確認しないで出るなんて不用心よ」
「耳は良い方だからさ、話してるの聞こえたから。楓は?」
「そんな奴いないわ」
「え、でも」
「大丈夫。そんな奴いないわ」
「そっか、大丈夫かー。じゃあ、まあ、とりあえず上がってよ」
「ええ、すぐにお暇するけど」
「ちょっと熱があるだけだから大丈夫だよ」
「そうなの?」
「うん、咳とかはないし」
家に上がると居間に案内されそうになった。綾瀬が目をとろんとさせながらお茶を用意すると言い出したので背中を押してむりやり二階へ上らせる。階段に一番近い部屋に入る。綾瀬の部屋の印象はシンプル、いやそれを通り越して殺風景だった。ベッド、机などの家具があるだけで私物の類がほとんどない。ただ一つ、隅に立て掛けられたギターケースには興味をそそられたがそれ所ではないのでなんとか視線を引きはがした。
双葉は綾瀬をベッドに寝かせ布団をかけてやった。薄手の生地越しに彼女の汗ばんだ肌に触れて、不覚にもドキリとする。カーテンを閉めきった部屋は薄暗く、充満する決して不快ではない彼女の体臭に相まってちょっと変になりそうだった。窓とドアを開けて部屋の空気を入れ替える。
「少し換気するわよ。朝は食べた?」
双葉がごまかすようにようにそう尋ねると綾瀬は「まだー」と答えた。思いつきで口にした事だったがその返答に不審なものを感じる。いや実際は彼女の顔を見たときから感じていた。彼女が軽い風邪なのは間違いないが、それほど顔色は悪くない。にも関わらずぼんやりし過ぎだった。そんな複数の点から一つの推測が立った。
「夕べは?」
「食べてないー」
「やっぱり。駄目じゃない、少しは胃に何か入れないと薬も飲めないでしょう」
「ビーフシチューがあるんだけどなんか食欲沸かなくて」
「風邪引きがそんな重いもの食べられますか!」
「畔が出かける前に作り置きしてくれたから、食べられるようになったら食べようと」
「もう……この家に何か食材は残ってる?」
若干、怒鳴りたくなる衝動に駆られながらも、なんとか抑え込む事ができた。
「無いと思う。畔が出かける前に切れるようにしてたから。私、料理しないし」
「そう、じゃあ買い物に行ってきます」
「何を買うの?」
「あなたがこれから食べるものよ」
「じゃあせめてお金はわた」
「い、い、か、ら。寝てること、わかりましたか?」
「わかりました」
恫喝に近い形で言い含めて、双葉は一階のキッチンへ降りた。綾瀬にはお粥を作るつもりだった。炊飯器をセットし冷蔵庫の中を確認する。何を買うか予め携帯にメモし、来る途中に見かけたスーパーへ向かった。店に着くと、併設のドラッグストアでで冷感シートと風邪薬を、スーパーで食材とスポーツドリンクを買い揃える。双葉は仕事で忙しい母親の代わりに時々料理をする事があった。だから売場を把握しているし、簡単な料理のレシピならすぐに思いついた。
商品をいつも持ち歩いているエコバッグに詰め、急いで綾瀬の家に戻った。彼女から預かった鍵を使って家に上がり、キッチンを借りる。寝ていると悪いので綾瀬には了解を取らなかった。たぶん鍵を預かった時点で許されているのだろう。今の彼女に正常な判断ができているかといえば怪しいけれど。
食材を切れていたものの、調味料は揃っていた。むしろ自分の家よりも豊富だ。双葉は買ってきた卵をボウルに入れ溶きほぐし、包丁で三つ葉を切った。鍋で出汁を煮立て調味料で味付けする。炊きあがった米を水洗いしから鍋に弱火で煮る。調理を始めて三十分もかからず、たまご粥が出来上がった。薬味に乗せた葱の緑が鮮やかだ。多少は食欲をそそる見た目になっただろうか。
お粥の入った丼、冷感シート、風邪薬、スポーツドリンクを載せたお盆を持って双葉は二階へ向かう。階段を昇りながら、やはりと双葉は思った。スーパーへの道すがら、買い物している最中、家に戻る間、料理をしながら、そして今。ずっとある一つの確信が頭の中を巡っていた。ひょっとして、綾瀬律はダメな子なんじゃないか。
彼女にまつわる記憶を回想する。「まあ、いいんじゃないか」「たぶん、大丈夫」「一応、ある」彼女はいつでも大雑把だ。ギターを演奏しているあの強烈な瞬間を除いて。天才にはいわゆる生活破綻者が多いと聞く。例えばモーツァルトとか。大体、全裸に直接ジャージを着込んで「大丈夫」は無いだろう。女子高生としてアウトだ。
綾瀬の部屋からは物音がしている。どうやら起きているようだ。ドアをノックして部屋に入ると綾瀬はベッドで上体を起こしていた。目が覚めて自分が戻るのを待っていたのだろう。
「いい匂い」
「お粥作ったの。食べられそう?」
「うん、お腹はへってるから。今晩あたりなら食べられるかなって思ってたし」
「実際ね、食べてないからって別にどうにかなるわけじゃないと思う。でもね、心配、するわ」
「ごめんね。いただきます。うっすら味がついてる?」
「市販の出汁だけどね。何も入れないか迷ったんだけどこっちの方が箸が進むと思ったから」
「うん、美味しい」
日をまたいで三食も抜けば大概のものは美味しく感じるに決まっている。たぶん綾瀬にとってこれくらいはそれほどの難ではないのだろう。ものぐさな彼女の事だ、スペインで暮らしていた時にも同じような経験をしているかもしれない。彼女は私よりも余程、人生経験豊富なのだ。蓮華で啜る綾瀬を眺めながら双葉はそう思った。
「昨日、心配しなくても大丈夫って言ったわね」
「うん」
「そう言われても私は綾瀬さんが心配。あなたは普段とてもふわふわしてるから」
「良く言われる。でも私は私を変えられないみたい。危機感とか沸かないんだ。どこかで大丈夫だろうって思っちゃう。実際、向こうじゃこれで結構上手く暮らしてた。もちろん大人が色々世話してくれたってのはあるけどさ」
「違うわ。そういう事じゃないの。私もあなたと同じだってこと。私は貴方を思う私を変えられない」
それが双葉の出した結論だった。今日、双葉は別に謝るつせりはなかった。これはどちらかが間違っているという類の話ではない。自分と彼女の関係、そのきっかけはクラス委員で転入生の世話を任されたからだ。そしてその枠以上に彼女に入れ込んで、クラブ設立に手を貸したのは彼女が自分の尊敬するアーティストだったからだ。けれど、お茶会や毎日の他愛ないお喋りや、尾行につきあったのは、尊敬の念からではない。ただ楽しいからだ。そして今、ここにいるのはただ大切な友人が一人で寝込んでいるからだった。
「そっか。それなら仕方ないね。じこあこれからも甘えちゃおうかな」
「ええ、任せてちょうだい」