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綾瀬さんはギターが得意  作者: Gorilla Hands
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第3章『幻想』2

 次の休日、新開静流と歩睦は公園で待ち合わせていた。静流はベージュのロングスカートに白のブラウス、歩睦は七分丈のデニムパンツにライトグレーのパーカー姿だった。静流のコーディネートは、静流と妹の二人が夜遅くまでああでもないこうでもないと試着を繰り返して決めていたものだ。洋服にうとい綾瀬は呼ばれなかった。

「インタビューの、普段着はジーンズとカットソーしか持ってないって本当なの?」

 綾瀬と並んで植え込みに潜む双葉がたずねた。

「ほんとです。今まで何か興味湧かなくてね」

「今度、一緒に見に行きましょう」

 綾瀬と双葉は静流達が来る三十分前から公園に潜んでいた。二人を尾行するためだ。昨夜、静流と妹が遊びに行く服を決めている間、綾瀬は綾瀬でする事があった。尾行するのに付き合ってくれる人の選定だ。もっとも選択肢はそんなに選択肢は多くなかったが

「でも、なんで私なのよ。こういうのは楓とか遥の領分よ」

「その楓が根暗に音楽聴いてる奴がいるからって」

「あなたもあいつのメル友になったわね!」

「そんな悪いことじゃないと思うけど。楓って顔広いみたいだし」

「確かに助かることも多いわ。でも私はあいつにハメられているような気がしてならないのよ」

「まあ、お礼に私がまた演奏させてもらうということでここは一つ」

「……それ、ほんと?」

「別に嘘じゃないけど?」

「綾瀬さん、もっと頭を低くして。見つかってしまうわ」

 双葉に俄然やる気が沸いていた。自分の演奏で双葉を釣ることも実は楓の入れ知恵だった。あまりに食いつきの良い双葉の横顔に中に綾瀬は切ないものを感じた。彼女は今まさにハメられているのだ、と。憐憫の表情を浮かべる綾瀬に双葉が怪訝そうな顔に変わる。なんでもないよ、と綾瀬は笑顔でかぶりを振った。そうするしかなかった。

 尾行といっても静流達のスケジュールは既に把握していた。夕食の時、話題になったからだ。公園を少し散歩してから、同じ敷地にある屋内プールで遊ぶらしい。プールに行くのは歩睦の希望だった。水遊びには少し時季が早いのではないかと綾瀬が言うと、温水で一年中利用できるとの事だった。

 プールは公園を突っ切れば待ち合わせ場所から目と鼻の先にあった。しかし静流達はあえて遠回りになる遊歩道を選んだ。道すがら歩睦は時折静流にシャッターを切っているが、回数は決して多くない。ポーズや構図を気にしたり、カメラに集中したりすることもなかった。主体はあくまで静流らしい。


 更衣室で鉢合わせするのを避けて、綾瀬と双葉は一足先に入場した。温水とはいえややシーズンオフなせいか休日にも関わらず、更衣室に人はまばらだった。水着持参の連絡は昨夜の内に双葉にもメールで送ってあった。

「洋服は持ってないのに、水着はお洒落なの持っているのね」着替えながら双葉が言った。

「うん、泳ぐのは好き。ていうかスペインって地中海に面してるからね。リゾートだよ」

「初めて綾瀬さんが海外にいた感じがしたわ」

「私、今までスペインっぽく無かったのか……」

「演奏してる時以外はあんまり」

「じゃあ、ええと。真っ青な海、白い建物、オレンジ色の屋根、磨り減った石畳、シーゲス・トダ・レグラ・イ・ピエルデス・トダ・ディベルシオン!」

「最後のは何?」

「すべての規則に従っていたらすべての楽しみを失ってしまう、って意味のスペイン語」

「発音は完璧だったけど。でも意味はやっぱり綾瀬さんっぽいのね」

 シャワーを済ませて綾瀬はプールサイドに出た。金属の骨組みにはめ込まれたガラス天井の下、人が疎らに行き交っている。花壇には南国を思わせる椰子の木が植えられていた。いくつあるプールもそれなりといった入りで、小学生の夏休みに経験した芋洗いのような惨状にはならなそうだ。もっとも静流がその辺りの下調べせずに来たりはしないだろうが。

 まもなく静流と歩睦も現れた。見つけるのは簡単だった。セパレートの水着姿になった静流がとにかく目立った。しかもその隣にワンピース水着の歩睦がごつい一眼レフを首から下げている。目立たないわけがなかった。他の客はまじまじと見たりはしないものの気にはなっているようだ。

「はたから見るとよくわからない絵面だよね」綾瀬の感想は率直だ。

「どうしてプールなのかしら」

「グラビア撮影とか?」

「歩睦さんの写真ってそういうのじゃなかったでしょう。余り知らないけど。女子だしちょっとイメージできないわね」

 綾瀬と静流はレストスペースにあったテーブルに腰かけ遠目に静流達を観察した。テーブルは植え込みに囲まれていて、人目が遮られる作りになっている。本来はカップルとかの為なのだろうが張り込みにも都合が良かった。

「はいこれサングラス。変装用ね」

「さっきから両手に持ってるから何かと思えば」

「こういうのは形からかなって家から持ってきました。向こうは日差しが強烈だからさ」

「わかったわよ。それにしても静流先輩、あの美貌で、あのスタイル。目茶苦茶な人ね」

「風呂上がりとかに出くわすスゴイよ。一緒に入ったときなんか畔が落ち込んでたし」

「一緒にお風呂……仲良くやっているのね」

「うん、おかげさまで」

「きっと新開静流に水着を着せてグラビア撮影に成功したのは歩睦さんただ一人ね。テレビで見た時は静流先輩ってもっとクールな人だと思ったわ」

「そんなことないよ。ものすごく落ち着いてるけど、茶目っ気あるし」

「ええ。あなた程ではないけど、わかってきた」

「それに歩睦の目、好きなものに夢中になってる人の目だからね、静流さんもまんざらじゃないでしょ」

 歩睦は今までになく生き生きとしていた。遊歩道の時と同じく、静流にポーズを注文したりはしない。プールサイドや水の中での普通の仕種を撮るだけだ。写真撮影といわれて一般的に思い浮かぶイメージかそこにはない。それがかえって彼女の真摯さを表しているように綾瀬には思えた。設備の整ったコンサートホールで正装に身を包んだ聴衆に迎えられて満足感を覚えられるのは当然。けれど小さな酒場で普段着で友人と語らいながら楽しみに待つ客にもまた違った親しみを覚える。それと似ていた。

 歩睦はしばらくすると更衣室に引っ込んだ。ひょっとしてもう帰るのかと双葉と顔を見合わせていたら、すぐにデジカメを持たずに戻ってくる。ロッカーに預けてきたようだ。確かにもし盗難にでもあったら痛い出費になりそうな本格的なカメラだった。撮影は終わりにして遊ぶつもりなのだろう。静流達は別のプールに移ろうとしていた。追い掛けようとして双葉が席を立つが綾瀬は腕を取って止めた。

「行っちゃうわよ?」

「うん、もう満足したからさ。お昼食べてら私達も泳ごうよ」

 真意をはかりかねた双葉に、綾瀬は静流達を見るよう促した。歩睦を先に行かせた静流がこちらを見ていた。ついてくるのはここまで、と視線が言っている。わかってますよ、と綾瀬が頷くと、静流は歩睦の待つプールへ歩き出した。

「静流先輩、気づいてたのね」

「そうみたい。私もホントに隠し通すつもりじゃなかったけどね」

「怒ったかしら」

「なんで? 笑ってたよ」

「サングラスだから表情までわからないのよ」

「ああ、そっか。もう眼鏡にしていいよ」

「あなたがそう言うのなら私はかまわないのだけど」  

屋台で昼食を買い、テーブルに戻るとカップルに占領されていた。仕方なく花壇の縁に並んで腰掛けた。綾瀬は焼きそばを、双葉はホットドッグを頬張る。やや物足りないが身体を動かすのだから少なめにしようと提案したのは言うまでもなく双葉だった。

「結局、今日って何だったの?」

「えっとね……」

「その、言いたくなかったら別にいいんだけどさ」

「違う違う。頭の中で考えまとめてただけ。一言でいうと、確かめたかったのかも。静流さんが欲しいと思ったものはどんなものなんだろうってね。わかる?」

「も、もうちょっと続けて」

「静流さんや私はみんなとはちょっと違う境遇でしょ。ありがたい事に人よりも秀でた才能があって、それで色々な経験をさせてもらっている。でも、それを経験しているのは今ここにこうしいている私とは別物なんだよ。それと同じようにパソコンの前に座ってお金を稼いでいる静流さんは今日の静流さんとは別人だって、思うんだよね」

 綾瀬律はギターが好きだ。愛していると言っても差し支えない。これから先も手放す事はないだろう。しかし実際に演奏している時、綾瀬は自分という感覚が限りなく薄くなるのを感じるのだ。彼女はそれくらい音楽に同化する事ができた。   

 スペインで静流と話した時、綾瀬は彼女が自分の同類だとすぐに悟った。他の人とは異なる、そして自分と似た自我の薄さから来る透明感を彼女に覚えた。静流が信じられないようなレベルでマーケットの変動を察知できるのはおそらく自分で考えて予測しているからではない。相場というやつに意識が溶け込んでいるからなのだろう。一つ屋根の下で暮らすようになって、静流の部屋をそっと覗いてみた事がある。綾瀬は自分の考えにますます確信を持つようになった。

「それは、つまり……神がかり的な状態ってこと?」

 双葉は眉間に皺を寄せて答えを探り当てるように言った。休日のプールサイドには全く似つかわしくない表情だ。

「神様かどうかはわからないけど、確かに何か降りてきてる感じかも。いや降りるというよりは浮かび上がってくるような……今まで説明したことがないからうまく言えないわ。とにかく、そう言う時の自分ってあんまり人間っぽくなくてさ。そんな時間がどんどん増えて行ってね、このままでいいのか考えてたんだ」

 自分が介在しない演奏。あるいは自分が限りなく音楽そのものに近づく演奏。そこには既に好きという感情はない。かといって恐れもなく、それは音楽ですらないのかもしれい静謐の瞬間だ。綾瀬の抱えている感情は心配という言葉が一番近かった。自分がさらに音楽のみに没頭し人間性を省みなくなったとしたら、その時はもう自分には喪失の感覚すらもないのだろう。ただ家族や友人を悲しませてしまうかもしれない。それが心配だった。

 この事を師匠のカピに伝えたこともある。彼は良いとも悪いとも決めつけなかった。その評価は自分がどんなコミニュティを所属しているかによって左右されるからだ。例えば、彼はフラメンコの名門の家に生まれ、音楽家の道を歩むことが物心つく前から決められていた。故にのめり込みすぎて多少クレイジーになっても容認されたという。

「今はもうわかったけど、静流さんは何か目的があってここに来た。自分がやっている仕事とは全く関係ないただの高校生になる為に。私と似ている静流さんが、そんな風に自分の性質を追求するだけじゃないのだとしたら、静流さんの選択が私の参考になるかもしれない、そう思ったの」

 最初に綾瀬は直感していた。彼女の計画に便乗すれば何か発見があるかもしれないと。何か目的があって日本へ向かう彼女は、世の中と折り合いをつける事に自分よりも一歩先を進んでいるのだから。

「それでどうだったの?」

「今日の静流さんはいい顔をしていたよ。楽しそうだった。自分を追求するのはとても楽しいんだけど、それとは別の、普通の楽しさが見えた。だから私も難しく考えずに羽を伸ばすつもり。こうやって同い年の子と遊ぶなんて本当に久しぶりだからね」

 真っ青に晴れ渡った空を見上げる。ガラス越しで風こそ感じられないものの、陽射しが目に眩しいのが心地好い。隣で双葉が同じように目を細めているのを見て、ふと思い出す。「そうだ。双葉に言わなきゃいけない事があったんだ」

「私に?」

「うん。いつもありがとう」

「うぇっ?」

 双葉は変な声を出してみるみる間に赤くなった。「ななな何を急に」とどもりながら手をわちゃわちゃさせているのを面白く思いつつ綾瀬は続けた。

「前から言おう言おうと思ってた。私、ここに来てからずっと面倒見てもらってるでしょ。何かお礼しなきゃとも思っているんだけど」

「そ、そんなのいいから……そういうのじゃないからっ」

「そういうのって?」

「噂が……」

 そこまで言って、双葉は口をつぐんだ。プールの揺れる水面を視線を落として、あからさまにしまったという顔をしている。綾瀬は聞き出すかどうか逡巡した。意外にも双葉の方から話を切り出した。

「噂がね、あったの」

「どんな?」

「あなたと静流さんは道ならぬ恋を抱えていてこの高校に一緒に来たっていう」

「はい?」綾瀬はちょっと意味が飲み込めなかった。

「だからっ、惹かれ合う二人が周囲の奇異の視線から逃れるためにうちの高校に来たっていう……でも今回の事で静流先輩の目的が歩睦さんだってわかって、ちょっと聞いてる? なんで笑ってるのよ!」

 聞いてる途中から綾瀬はお腹を抱えて笑い出していた。セパレートの水着の間で腹筋がぴくぴくと震え、目尻には涙さえ浮かんでしまう。

「な、なにそれ、そんな話が広まってるのっ、くくっ、駄目、お腹痛い」

「そんなに笑わないでよ! だって、あなた達みいたいな二人がウチの学校みたいな普通のトコにくるなんておかしいじゃない」

「いやー、こんなに笑ったのは久しぶり。私と静流さんは同志だからね。同じ方向を見てるから向かい合うことはないっていうかさ。とりあえず私と静流先輩がどうこうってのは全くないよ。というかどうしたらそんな話になるのか」

「見てるとそんな感じするわよ」

「まさか」

「歩睦さんを部室に連れて行った時も、慰められてたじゃない」

 確かにそんな事もあった。けれどそれだってあの時の一回切りだ。一緒に暮らしてたりするからそういう噂が立ったのだろう。実際の暮らしぶりまで知れば、あの時の抱擁が親愛や敬愛の念から来たものとわかるだろうが、それこそ他人には無理な話だ。

「少し訂正」

 落ち着きを取り戻した双葉が言った。

「もちろん噂だけであなたを手伝ったんじゃないわ。噂が経ったのって後になってだし。その、綾瀬さんが楽しく過ごせればいいなって、クラス委員やっててツイてるなって思ったから」

「うん、わかってる。やっぱりお礼するよ今度」

「ねぇ、綾瀬さん。今って楽しい?」

「楽しいよ。大笑いできたし」

「私、本当はね、もっと綾瀬さんとお話ししたかったの。放課後のちょっとだけじゃなくて。でも迷惑じゃないかって」

「なんで?」

「どうしてかしら。有名人だから? そんなの理由にならないって自分でもわかっているのよ、おかしな話だって。でもどうしても考えてしまう」 

 双葉は綾瀬と話しているとよく考え込む節があった。それはもっと正確に言うと、何かを言おうとして躊躇っているのだった。この子は自分に幻想を抱いている。けれど、同時にそれが幻想だとを理解している。綾瀬はそれがようやくわかった。そしてそんな彼女の矛盾がとても嬉しかった。幻想を抱くだけなら双葉はいつかお客さんになってしまうだろう。だが双葉の感情には綾瀬にとって甘美なものが含まれている。

「じゃあ、とりあえず泳ごっか」綾瀬は双葉の手を取って立ち上がった。

「あ、綾瀬さんっ?」

「難しい話は打っちゃって、今日は遊ぼうよ」

 綾瀬は双葉をプールまで引っ張った。慌てる双葉の声が耳をくすぐる。少なくとも、今この瞬間はお互いにとってまったく悪いものじゃない。それならば。彼女が矛盾の間で身動きが取れないならば、たまには私がこの子の手を引いてみようじゃないか。そう思いながら綾瀬は水面に飛び込んだ。

 水柱が二つ上がった。

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