第3章『幻想』1
「静流さんがおかしい」
綾瀬が双葉にそう相談したのは、部員が確保できてから数日後の放課後だった。綾瀬と双葉は終礼から部活が始まるまで、教室で雑談するのがいつの間にか日課になっていた。
「おかしいって何が? あなた達いつもおかしいと思うけど」
双葉は何かの書類に記入しながら聞き返した。雑談の間、双葉はクラス委員や生徒会関連の仕事を片づけている。こうして話すようになったのも双葉が綾瀬達のクラブに関する書類を代わりに記入してくれたのがきっかけだった。
「いやそういうおかしさとはちょっと違くて」
「詳しく説明してもらえる?」
「ありがと」
静流に違和感を覚えたのは部員を確保してすぐ、その日の夕食の時だった。三人で囲む食卓でサバの味噌に箸をつけながら「入ってくれた遥と歩睦、面白そうな人達ですね」と綾瀬はその日の事を話題にした。静流はいつものようにええ、と肯定したが、その時わずかに間があったのだ。その間が綾瀬は何故か妙に気になった。
綾瀬は静流をそれとなく観察しだした。すぐに状況は判明した。静流は歩睦が絡んだ時だけ考える節があるのだ。といっても、あからさまにだんまりするわけではない。一緒に暮らしてお互いの呼吸をよく知るようになった綾瀬にしかわからないごく僅かなラグだ。
「それは静流先輩が歩睦の事を嫌いとか苦手ってこと?」
「うーん、あの人に好き嫌いとか、そういう感情はないと思う」
「そんなロボットみたいな印象もあんまりだと思うけど」
「あー、悪い意味じゃなくってさ。博愛的というか周りにいる人はみんな好きなんだよね。私もそういう所あるからわかるんだ」
「……。私は気がつかなかったけど、それで綾瀬さんとしてはどうしたいの?」
綾瀬は返答に窮した。差し当たり何か問題が生じているわけではない。ただ違和感があるから気になってしまうだけだ。綾瀬は一緒に暮らしていて、静流には「滞り」が全くないとしみじみ感じていた。当意即妙、思考や行動に無駄がない。彼女が言いよどむ姿など想像できない。だからこそ今回の事が浮き彫りになって見えた。これが静流以外の人間だったら、当たり前として日常に埋没していただろう。
「いっそのこと本人に聞いてみたらどう?」
「静流さん、秘密主義だからなー。教えてくれるかな」
「話してくれないだろうから最初から聞かないっていうのはちょっと違うと思うわ。仮に教えてくれなかったとしても、自分が気にかけていると相手に伝わるのがお互いにとって大切」
書類に目を落としながら双葉はそう言った。しかし綾瀬はその言葉に眼を見張った。
「びっくりした」
「何が?」
「今、佐伯双葉さんが凄く大人に見えました」
「そんな大げさだってば。職業柄、そう思っただけ」双葉は顔を赤くして言った。
「職業柄って?」
「クラス委員とか生徒会とか。調整役してると報告、連絡、相談に聡くなるのよ」
「私にはない世界だわ。でも、私もそう思った。さっそく聞きに行ってみようかな」
「ええ。その前に生徒会寄っていい? この書類、会長に渡したいから」
A棟の教室からB棟の新聞部室まで並んで歩く。二人で廊下を歩いていると、お互い言葉少なになる。綾瀬はこの時間をとても気に入っていた。廊下のあちこちから沸く喧騒と日溜まりは何度歩いても気持ちを穏やかにしてくれた。意外なのは同じ趣味を双葉も持っていたことだ。このオレンジ色の空気を吸い込む事は、双葉にとって背景を持たない自分以上に感慨深いのかもしれない。綾瀬はそう思いさえした。なにしろこの空間を維持しているのは双葉たちなのだ。
生徒会室に立ち寄り双葉の用を済ませて新聞部に行くと、静流、遥、部長の三人がいた。肝心の歩睦の姿が見えなかったが、それはいつものことだ。綾瀬は静流立ちに挨拶を済ませて窓際へ向かった。開け放した窓のサッシに手をかけ、ベランダの下を覗き込むと、案の定そこにはカメラを持った歩睦がしゃがんで身を隠していた。
「やっぱりいた。ちょっと来てもらえる?」
「わかりました」
歩睦はすくっと立ち上がって、スカートについた埃を手で払った。綾瀬はふと彼女の両脇に腕を差し込み、持ち上げようと試みた。歩睦はそれがとできると思えるくらい華奢なのだ。歩睦は抵抗することもなく持ち上げられたまま、窓をくぐって教室に戻った。
「ありがとうございます」
「えーと、ここはお礼を言われるとこ?」
「いえ、その、なんとなく」
綾瀬は帰国して初めて「不思議ちゃん」なる言葉を知った。つきあいの長い遥によると歩睦にはその気があるのだという。彼女は隠れて写真を撮るのが好きらしい。なんでも自然な表情をとらえられるのがいいそうだ。しかしある程度慣れてくると歩睦がどこに潜んでいるのか分かってくる。そうなると面と向かって撮るのと大差ないように綾瀬には思えたが、写真を見比べると確かに違いはあった。隠れて撮った方が日常をそのまま切り取った印象がより強い。どこかに掲載す際には被写体の許可を得るそうなので、まあいいか、と綾瀬は受け入れている。
綾瀬が歩睦を持ち上げたまま静流の所へ運ぶと、静流が読んでいた写真誌から顔を上げて言った。
「どうしたの?」
「静流さんはなんでこの子につっこまないんですか?」
「私はもともとそういうタイプではないわ」
「確かに。んー、でも」
「違和感を覚えた?」
「それです。静流さんが少し遠慮しているような」
「あなた達はどう?」
静流が部屋にいた全員に尋ねると、みな首を横に振って答えた。気づいたのは綾瀬だけという結果に静流は満足げな表情を見せて、綾瀬の方を向き直る。
「知りたい?」
「まあ、気になります。何がなんでもって訳じゃありませんけど」
「わかった、教えるわ。歩睦さん、あなたが私がここに来た理由なのよ」
突然の告白にみなが呆然とした。静流は椅子から立ち上がり部屋の両脇に並ぶ書架の一角に歩み寄った。迷いなく棚から一冊の雑誌を取り出しそれを机の上に置いた。部長を除いた全員で近寄り囲むように覗き込む。
「これは?」
「写真誌のバックナンバーね。歩睦が賞を獲った時のヤツ」遥が説明した。
「そう。私は一年ほど前にふと立ち寄った書店でこれを手に取った。あなたの写真を一目見て心惹かれたわ、そしてぜひ会ってみたいと思った。綾瀬を誘って、ここに来たのは全て、では無いけれどもほとんどその為よ」
綾瀬は頬に視線が刺さるのを感じた。双葉がアイコンタクトで確認してくる。知らなかった、と首を横に振る。私はその為にここに連れて来られたのか、と思いながら。ちょっとした違和感がこんな根っこの話につながるとは夢にも思わなかった。
「それであの、どうでしたか」歩睦が問いかけた。
「どう、とは?」
「幻滅しちゃいましたか? こんな変なので」
歩睦は普段からおずおずとした口調だが、いつにも増して怯えの色が強かった。身体が強張っているのが一目でわかる。新開静流というビッグネームに、そしてそれをハリボテではないと感じさせる存在感をもつ彼女にジャッジされるというのは怖くなっても不思議じゃなかった。
「わからないわ。誰にでもおかしな所はあるでしょう。そうではなくて、だって私とあなたはまだほとんど話してすらいないのよ」
自分達は新開静流に対して大きな思い違いをしているんじゃないか。綾瀬を慰めた時にも増してそう考えさせるに十分な笑みだった。それは歩睦を安心させる為の笑みだった。それと同時に普通の少女のはにかんだ笑みでもあった。綾瀬はひどく納得していた。なるほどこのためか、と。彼女は確かめにここに来た。静流は歩睦の為だけではなく、自分の為にも笑うことができたのだ。
「静流先輩」遥が言った。「こいつは人前だとこんなんですが、先輩を校内で初めて見かけた時はそりゃ大変なはしゃぎようだったんですよ。すごい綺麗な人だ、写真に収めたいって」
「ちょ、ようちゃん!?」
「どうかこの子の為にモデルになって貰えませんか?」
「かまわないわ。ただ、あなたの口から聞きたいわ」
歩睦は恥ずかしそうに身じろぎした。スカートを握り込む手が緊張を物語っていた。しかしやがて静流を見据えた眼差しはまっすぐで、その声もいつもよりはっきりとしたものだった。
「私の写真のモデルになってもらえませんか」
「喜んで」
静流はそう答えた。