第2章『転入』3
生徒会室に呼び出されてから数日、学校のあちこちで綾瀬の姿が目撃された。部員を集めるよう静流から指示を受けた綾瀬は精力的に勧誘活動を行った。初め、周りの人間はこれに驚いた。綾瀬は転入してからも積極的に人と関わったりはしなかったからだ。孤立もしないが、人の輪に参加もしない。最初に関わりを持った双葉や楓としか交わりがなかった。
目的がない時、綾瀬は日溜まりにいる猫のようにぼうっとしている。しかし一度やると決まったらそれに躊躇なく取りかかる事ができる。それもまた彼女の一側面だった。廊下ですれ違った見ず知らずの人に「部活、入らない?」と聞いて回れる大胆さと、若干引き気味に断られてもへこたれず「そっかー、ありがとうね」と何故だか感謝できるメンタルタフネスは生徒の間で好意的に広まっていき、廊下でよく声をかけられるようになった。誰も入部はしなかったが。
「というわけで、このままでは私は使えない子になってしまいそうです」
そう言って綾瀬は箱入りのイチゴミルクに刺さったストローを吸い上げた。口に人口甘味料の甘さが広がる。最近のお気に入りだった。ふむ、と楓は腕を組み、双葉は弁当箱に入った人参を箸で掴んだまま宙を見た。どちらも二人が考える時の癖だ、と今の綾瀬は知っていた。
三人は昼食を一緒に取る仲になっていた。三人とも学食よりも弁当の日が多いと話したのがきっかけだ。楓と双葉か自分で弁当を用意するのに対して、綾瀬だけは妹の手作りだったが。なにより楓が料理上手にだったのに綾瀬は驚いた。双葉の弁当もとても美味しいが、楓の作ったものはそれを上回っていた。
双葉とのぎくしゃくも、楓の言うように何時の間にかすっかり直っていた。お互い、特に解決を試みてはいない。こういった話は触れずに時間が経てば解決するものなんだな、と綾瀬は一人納得した。
「静流さんの計らいで家に住まわせてもらって、妹の料理を食べるだけの身は私でもつらいです」
「でもこのタイミングでクラブ作るのは難しいぜ」
「私もそう思う。ウチは基本的に自由だけど、それはある程度のラインを超えたらなの」
「だから学年の最初にある部活勧誘は熾烈な争いなんだ。あの勢いというか、熱気であんまり興味ない奴も入れちゃおうってのが二、三年生徒の狙いなワケだ。要はあれだよ、ボルテージ」
「ボルテージね。メモった方がいい?」
「ああ。テストに出るぜ」
「綾瀬さん、本気にしなくていいから」
「なぜに!」
「あんたのとこは勧誘しなくても入ってくるじゃない」
「どゆこと?」綾瀬が言った。
「楓、バレー部なんだけど、県内でも強い方だから、部員も割とすんなり入るのよ」
「いやウチはウチで結構苦労があるんけどな……じゃあ、これはどうだ。裏ワザ!」
「裏技? どんなの?」
「あんま大きい声じゃ言えないが幽霊部員だよ。メンツ集めるだけでいいならこれが一番手っ取り早い。部員と実績が揃わないとクラブとして認められないから、クラブ設立に使いにくいんだけど、もう実力を持った人間がいるなら話は別さ」
「双葉はどう思う?」
「確かにそういう手がないわけじゃないけど……生徒会に関わる身としてはあまりそういうのは感心しないわ。結局、長続きしないケースも多いし」
「ごめんね」
「謝られたっ? やる気満々なのっ?」
綾瀬はガッツポーズを決めた。
放課後、綾瀬はB棟にいた。転入してからなんだかんだで毎日ここに足を運んでいる。昨日までは部員を募って、今日は静流に呼ばれたからだ。場所は前に利用した音楽準備室ではなく新聞部室だ。綾瀬が部員を勧誘してる間、静流も別で動いていたようだ。例によって教えてもらってはいない。
新聞部はB棟の二階にあるらしい。例によって何の苦労もなく双葉の後ろを付いて行くだけで良かった。双葉は生徒会室ではああ言っていたものの、クラブ設立の面でも綾瀬をフォローしてくれていた。育ち柄、人の好意を受け取る事にあまり疑問を持たない綾瀬だってが、具体的にはまだ浮かんばないものの、そろそろ何かお礼をしなければならないと考え始めている。
B棟はいつもと変わらずにぎやかだった。綾瀬がよく利用した街の市場に似ていた。自分で料理をしない彼女はそこでよく惣菜を買ったり、お使いを済ませたりしていた。廊下は魚介やフルーツの香りこそしないものの活気は勝るとも劣らない。綾瀬の好きなものは夕日と雑踏である。B棟に足しげく通うのはクラブ設立や静流の指示からだけでは決してなかった。
綾瀬が上機嫌で歩いていると、ふと小柄な後ろ姿が目に入った。別段、廊下を歩く他の生徒と変わった所もない。ただ一つあるとすれば、彼女の肘から先が綾瀬から見えなかったくらい。彼女は肘から先を胸の前に構えていて、後ろから見ると隠れてしまっていた。それだけだ。けれども、綾瀬はこれまでそういう些細なきっかけを元に勧誘の声をかけてきていた。廊下の曲がり角で鉢合わせしたとか、学食の自動販売機を同じタイミングで使おうとしたとか、そんな些細な事だ。
綾瀬は先導していた双葉を追い越し、その後姿に声をかけた。
「ねえ、幽霊部員にならない?」
声をかけられた生徒は振り返り、綾瀬の瞳をじっと覗いた。遠目から小柄だと感じたけれど、近くに寄ってみて改めてそれがよくわかった。つむじが綾瀬の胸ぐらいにあって覗き込めてしまう。身長、首のやや上辺りから斜めに切り揃えられた髪、そして仕種から考えれば自分よりも年下に決まっている。しかしこちらを見つめる眼差しはほんの少しだけ自分よりも大人びたものが混ざっている気もして年の差が掴めなかった。綾瀬の事情を知っているので辺りは静寂でもって見守っている。一人、双葉だけが背後でわやわやしているのが背中で感じられた。
「あの、その、いいですよ」
おお、と綾瀬は感嘆の息を漏らした。関係ない生徒まで祝福してくれた。昨日までにあんなに苦労していたのに、あのアドバイスでまさかこんなにもたやすく遂行できるとは。うすうす勘づいてはいたが楓は凄いのかもしれない。彼女はそういう星の巡りに生まれているのかもしれない。
「ちょっと、あなた本当にいいの? 別に強制とか脅しとかじゃないのよ」
「双葉、ヒドい」
「いやだって。普通じゃないわよ今の展開」
「まあ、それは私も思う。大丈夫なの、えっと」
「荒川歩睦です。大丈夫です、実は……」
「じゃあさ、今から部室、ではないんだけど、部員、でもまだないんだけど、とにかく集まりがあるから、来てくれるかな?」
「えっと、はい、大丈夫です」
「よしじゃあ、出発進行!」
綾瀬は歩睦の両肩を掴んで列車ごっこで進み出した。双葉も双葉も、と催促すると、双葉は一瞬ためらったが仕方ないという風に綾瀬に従った。完成した三両連結は廊下にいた他の生徒から注目されたが綾瀬は少しも気にならなかった。西ヨーロッパを横断した時、一度だけ乗った高速鉄道のファーストクラスよりも心踊る。なにしろ、これで汚名返上だ。綾瀬にもプライドというものが多少はあった。結構気にしてたのね、という双葉の呟きも気にならないというものだ。
新聞部室では静流と見知らぬ女子が二人いた。一人は向かい合わせにくっつけられた机の一番奥に座っている。おそらくここの部員なのだろう。パソコンに向かって黙々と作業している。静流と話していた女子はフレームがとんがった眼鏡に、髪を左右にゴムでまとめて垂らしている。瞳はらんらんと輝いていて、なんにでも興味津々と言った風だ。
「静流さん、部員一人確保してきましたよ。静流さん?」
静流に褒めてもらえると期待していた綾瀬だったが、当の静流は何故かこちらを見てぼんやりとしていた。自分ではなく荒川歩睦に注目しているらしい。知り合いか何かだろうか、と歩睦の顔を覗いてみると、彼女もまた同じように静流をじっと見つめていた。
「綾瀬、その子は?」静流が言った。
「さっき廊下で勧誘したんです。ね?」
「アユ、また道草食ってたね」
静流と話していた眼鏡の女子が歩睦の前まで歩み寄りデコピンをくらわす。
「今日はまっすぐ来いって言ったっしょ」
「ヨウちゃん、違うんです。この方が話していた綾瀬さんとわかったので、ああー」
ヨウちゃんは問答無用で指を額にぐりぐりと押しつけた。綾瀬はまだ歩睦の肩をつかんだままだったのでそのまま押し出し、なんとなく「ヨウちゃん」を手伝った。歩睦の頭上でヨウちゃんと視線が交わる。共同作業から生まれる親近感を覚えた。
「あなたが綾瀬律さんね、私は屋形遥。よろしくね」
「よろしく。ヨウちゃんじゃないの?」
「荒川歩睦はなんでか遥を音読みするの」
「あー、そういう由来なんだ」
「あの、そろそろ二人とも離してもらえると助かるんですが」
歩睦のおでこは赤くなり始めていた。二人が拘束を解くと、荒川歩睦はてくてくと遥の隣に移った。どうやら彼女の立ち位置はそこらしい。いつのまにか静流も自分の隣にいた。
「綾瀬、この二人が新しい部員よ」
「えーと、つまり」
「貴方が同じ事を考えるとは思わなかった。誰かにアドバイスをもらったのかしら。それにしても同じ人間に声をかけるなんて、凄い偶然ね」
だからすんなり勧誘できたのだ。元から入部すると決まっている人間を勧誘すれば、オーケーを貰えて当然だ。結局、自分は静流の手の上で踊っていたという事になる。もちろん静流に踊らせる意図はないが、それでもちょっと切ない。綾瀬は脱力した。
「すみません、あの時、言おうとしたんですけど」歩睦が言った。
「アユの発言は流されること多いからね」
「いいの、いいの。私がうかれてたんだから、道化だったんだから……そう、道化だったんだから」
「そんな事ないわ。あなたはよくやってくれた。本当よ」
静流は綾瀬の肩を抱き優しく頭をなでた。その光景に、綾瀬以外の全員が度肝を抜かれた。綾瀬は一緒に暮らす中で、静流が普通の、優しい人間だと知った。しかし綾瀬以外はそうではない。テレビで持て囃されていた頃の、外見から伝わる冷たいイメージが脳裏にあった。今、目の当たりにしている静流はさながら女神のようだった。夕日が制服の毛羽立ちにきらめいているのだわかっていても、静流自身が燐光を放っていると信じそうだ。しょげていた綾瀬ですら魅入りそうになる。みんなの注目を浴びて、静流は手を引っ込めてしまった。ほんのわずかに目が泳いでいて、綾瀬は静流が照れているのだとわかった。一緒に暮らしているからこそ、その違いに気づく事ができた。
「静流さんでも照れたりするんですね」
「あなた、私をなんだと思っているの」
その時パシャリ、とシャッターを切る電子音が部屋に響いた。今度は視線が歩睦に集まると、彼女は恥ずかしそうにカメラで顔を隠した。それでもレンズはしっかりと綾瀬と静流に向けられていた。
「なんか今撮られたみたいですけど」
「ええ。そのようね」
「アユは写真が関わる時だけ大胆なのよ」遥がそう解説した。
これから活動する主要メンバーが集まったので、改めて自己紹介が行われた。屋形遥は新聞部で記者を、荒川歩睦は写真部だがよく遥に付いてカメラマンをしているとのことだった。二人は一つ違いの幼馴染で、他には丁寧な歩睦が遥にだけややくだけた口調なのはそういう所から来るらしい。
「しかし、双葉がいるとはね」遥が言った。
「会長に部ができるまで手伝うように言われたからね」
「揖斐ちゃんね。ほんとにそんだけ? 部員の二重登録なんて、あんたがよく反対しなかったなってさ。なに、賄賂?」
「ち、違うわよ。あんたこそ何か企んでんじゃないのっ?」
「うわー、あんたほんと露骨ねぇ。いいけど。まあ、最初は名義貸しなんて断るつもりだったわ。でもメインは新聞部で良いって言うし、それに面白そうな集まりになりそうだからさ。ほら、例えばこのように早速ひと仕事」
遥が一枚の写真を机から拾う。写真には綾瀬と静流、そしてイギリスの女王陛下が映っていた。膝をつき謁見する綾瀬が女王から勲章を授与されるのを静流が後ろで見守っているという構図だった。
「これほどの栄誉はそうそうないでしょう。部の発足、間違いなし」
「これ、静流先輩と綾瀬先輩だけ、光の当たり方が違います」
「お、さすがアユ、よく気づいたね。自信あったんだけど」
「捏造じゃない!」双葉が吠えた。
「ちなみにアイディアは私じゃなくて、新開先輩よ。クレームは先輩にどうぞ」
「先輩、あんまり目に余るようだと困ります」
「ちょっとした余興よ。そもそもそんな細工をしなくても大丈夫だとわかっているでしょう」
「それはそうかもしれませんが、じゃあ最初からそんなこと」
「でも静流さん、もし仮にそれで通るようだったら、通したでしょ」
「世の中に確定したものなんてないのよ、綾瀬」
なにやら格好よく言い直されたが、それは紛れも無い肯定だった。双葉は頭痛でも始まったかのように頭を押さえて呻いていた。一日一回は彼女のこの姿を見る。苦労人だ。
「ともかくは実績については余裕があるからいいでしょう。部員に関しては、新開静流、綾瀬律、屋形遥、そして荒川歩睦の四人で登録するつもりです。何か問題は?」
「ありません。設立に関して記入する書類があるので明日にでも綾瀬さんに渡します。生徒会に携わる者として、これからも『誠実な』活動を期待しています」
「……」
みんなで黙ってみた。双葉の扱いがわかってきた綾瀬だった。
「そこは頷きなさいよ!」
「それじゃあ部の立ち上げを祝してお茶にでもしましょう」静流が言った。
「今から店に行くんですか? ちょっと遅いような」
「ちゃんと準備してあるわ、ほら」
突然、部屋にリュックサックを背負った畔が入ってきた。しかもまだ家ですら見ていないこの高校の制服姿である。「うわ、妹!」と綾瀬は割とマジでびっくりした。
「綾瀬さん、知ってるの?」双葉が尋ねる。
「私の妹」
「妹さんもうちの高校なんだ」
「いや、まだ転入手続きの途中。無理矢理引っ越してきたらしくて今度地元に帰んなきゃって言ってたし」
畔は綾瀬を見て、にへらと相好を崩してから静流に言った。
「おまたせしました、静流さん」
「ご苦労さま。わざわざありがとう」
「気にしないで下さい。これから通う学校の見学もしたかったですし、何よりお姉ちゃんの為ですから!」
畔は綾瀬にガッツポーズを見せつけた。自分には勿体ない妹だと思いつつ綾瀬は手を振って返した。
昨晩、畔と静流が何やら打ち合わせていたのはこれだったのだろう。見知らぬ人との同居も、綾瀬、静流、畔の三人はつつがなく暮らしていた。それどころか静流と妹は思った以上に仲良くなっていた。夜遅く、綾瀬が風呂から上がりキッチンに飲み物を取りに行くと、リビングで楽しげに話している静流と畔を見かける日が増えていた。
「私達にはまだ部室はないのだけど、今日はここを借りても構わないかしら?」
静流は遥にたずねた。
「……はっ。びっくりして放心していたわ。ほんとに無法な人達なのね。楽しくなってきた。で、えーと、大丈夫だと思いますよ。普段から飲み食いしてますし。ね、部長、かまいませんよね?」
部長と呼ばれて、黙々と作業をしていた生徒が手を止め、初めて顔を上げる。自己紹介にも加わらなかったので名前もわからないがおっとりした人物のようだ。しばらくこちらをぼうっと見つめて何がしか考えていたが、やがて両腕で頭の上に大きな丸を作った。オーケーのサインらしい。
「この学校って、変わった人多いよね」
「それ、綾瀬さん達には言われたくないわ……」
「どったの? なんか疲れた顔してるけど」
「もうなんだか校則違反とかそういうの色々通り越してて」
床にブルーシートが敷かれ、茶会の席はみるみる間に整えられていった。魔法瓶に詰められた赤褐色の液体を畔が紙コップに注ぐと、湯気と芳しい香りが立ちのぼる。コップを受け取り綾瀬はシートに腰を下ろした。人の輪の中にバスケットにはきつね色にやけたクッキーが綺麗に並んでいる。つまんで口に放り込むと、軽く齧っただけで簡単に砕け、甘味とバターの風味が口の中に溶けるように広がった。香草やココナッツが絶妙なアクセントになっている。畔は姉の世話をする事に関して、全方位に物事を納めているのだ。
「双葉も食べれば? それともチクリにいくとか?」
「そんなに頭固いわけないじゃない。飲食なんて生徒会でもあるし」
双葉は綾瀬の隣に座り、同じクッキーに手を伸ばした。
「凄い美味しい。今日の所は目をつぶりましょう。ただし明日、ここにいる人は全員、反省文書いてもらいますからね。もちろん私も含めて」
その場の空気が凍った。静流ですらフィナンシェに伸ばしかけていた指が固まる。「この堅物マジか」という非難の目をみんなが向けようとして、双葉がニヤリと口の端をあげているのに気づく。
「冗談に決まってるじゃない」
したり顔で紅茶を嚥下する双葉が、綾瀬には何か風変わりな物に映った。頭が固いだけじゃない、この子が自分が把握したと思っている以上に、色んな側面をまだまだ持っている。そう感じて綾瀬は少しワクワクした。