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綾瀬さんはギターが得意  作者: Gorilla Hands
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第2章『転入』2

 クラスに転校生が来た日、丹呉楓は友人の双葉を後ろの席から観察していた。彼女の様子がおかしかったからだ。朝礼が終わったてもそれは変わらなかった。例えば授業の時も、綾瀬に教科書を見せるというだけでビクビクしていた。落ち着きのない仕種、宙を泳ぐ視線、何度も組み替えられる足。楓でなくても訝しく思って当然だった。

 初め、二人は知り合いで弱みでも握られているのかと考えた。ただそれにしては双葉はいやに甲斐甲斐しかった。本人にあまり自覚は無いようだがもともと綾瀬は面倒見のいい奴である。そうでなければ数年間もクラス委員を続けていない。しかし綾瀬に対する献身ぶりは親切というのを通りすぎているように見えた。普段とは目つきがどこか違うのだ。

「オッス」

 昼休みが始まってすぐに楓は双葉の席へ駆け寄った。いつものように双葉の頭に腕を回してうりうりと絞めながら話しかける。この調子だと、双葉は綾瀬を案内がてら昼食も同伴するつもりだろう。そこに強引に割り込む。それが楓の作戦だった。

「ちょっと、楓、やめてってば」

 双葉は楓の腕を外そうともがくが、文系の双葉がとバレーボール部で鳴らす楓に敵うはずもない。楓は割と誰にでもこれをやる。髪の感触とかが好きたった。

「どうしたー? 今日はイヤがるなー」

「いつも嫌がってるわよっ」

 そう言われてみると確かにそうだった。今の自分には彼女のどんな反応もいつもと違うように見えるバイアスが働いているらしい。楓は一旦双葉から離れ、腕を組んで一考する。朝礼前の事を含めて、少なくとも自分に対してはいつも通りのようだ。

「ふむ」

「ふむ、じゃないわよ。なにか変よ。いつも変だけど」

「それはお前だ。双葉、転校生に相手だとヘンなんだな。な、綾瀬もそう思うだろ?」

「そうなの?」

 突然の問いかけにも綾瀬はナチュラルに答えた。こいつなかな見どころあるな、と楓は心の中で思った。今の急な振りに初見でついてくるとは。

「私は今日初めて会ったもんだから、なんともだけど」

 綾瀬が双葉をまじまじと見つめる。すると、あろうことか双葉がモジモジしだした。「ちょっと綾瀬さんまでやめてよ……」などと困った風に恥じらいながら。ありえなかった。ひょっとしたら双葉の偽物なのかもしれなかった。

「私の前だとずっとこうだよ。なんていうか、恥ずかしがり屋?」

「ありえません!」

 楓は腕で大きなバツを作って宣言した。

「私が本当の双葉を教えてやろう。みんなで学食行こうぜ」

「ごめん。私、昼は教務室に呼ばれてるんだ」綾瀬が言った。

「あれ、そうなん?」

「急な転入だったからまだ書類の記入とかまだ片づいてないとかなんとか」

「書類できてなくても、転校できるモンなのか?」

「お金とか権力とかがあると、なんとかなるらしい」

「ふーん?」

 よくわからなかったので楓は曖昧にうなずいた。

「ま、しょうがない。じゃ双葉、ウチらだけで行こうぜ……」

「綾瀬さん、私、ついていこうか」楓の言葉を遮るようにして双葉が言った。

「んーん。校舎覚えたし大丈夫だよ。それにほら」

「逃がしません」

 双葉の肩に指を食い込ませつつ、楓はふと思いついた。教室を出ようとしている綾瀬を呼び止め、コンビニで買ってあった惣菜パンを渡す。

「昼飯あるのか? 良かったら食べなよ」

「……ありがと。お弁当はあるんだけどね。せっかくだからありがたく頂くわ」

「おう、これからよろしくな」

 綾瀬は手をひらひと振って応えながら、ヤキソバパンを口にくわえて廊下を歩いて行った。その姿は楓から見ても、飄々として格好良かった。粋というか絵になる。というか本当に女子高生なのだろうか。

「綾瀬さん、廊下での飲食は禁止よ! 綾瀬さんっ」

 一緒に後ろ姿を見つめていた綾瀬が思い出したように声を上げたが、綾瀬はどこ吹く風で角を曲がり消えてしまった。どうやら彼女は自分と同じ側、つまりあまりルールを守らない側のようだ。気が合いそうだったが、今はそれよりも双葉の方だ。

 逃げようとする双葉を引きずって楓は学食に向かった。綾瀬にあげた惣菜パンは部活の後に食べるつもりで用意したもので、昼は学食で取るつもりだった。双葉の話を聞くのとは別に、誰かと一緒に食べた方が美味しく感じるし都合が良い。それに楓には、双葉がどうしても話したくない事情を抱えているようには見えなかった。

 学食に着くと双葉も観念したようで、大人しくカウンターで注文し二人並んでテーブルに着いた。双葉はきつねうどん、楓はA定食だ。学食は割と規模が大きく、昼休みのスタートに出遅れたとしても混雑することなく昼食にありつける。

「油揚げおくれよ」

「馬鹿じゃないの」

「バッサリだな。で、あの綾瀬ってのは何者なん?」

「転校生よ」

「知ってるわ! ていうか、知ってるわ! 教えろよー、トマトやるからさー」

「嫌いなの押しつけるだけじゃない!」

「だって朝はあんなに興味なさそうだったのに、お前おかしいじゃん」

 うっ、と双葉が言葉に詰まって俯いた。きつねうどんの辺りに視線を落としているせいで、かけている眼鏡がだんだん曇っていく。「こいつ、もうすぐ落ちますぜ」と楓は自分の心の中にいる警部補に報告した。

 そんな楓の胸中に知ってか知らずか、しばらくして双葉は口を開いた。

「私がね、憧れてるっていうか、尊敬している演奏者がいるの」

「双葉、クラシックとか好きだもんな」

「クラシックというかフラメンコの人なんだけどね。その人、綾瀬律っていうの」

「ふーん……綾瀬律ねぇ」

「あの子なの」

 おお、と楓は手を打った。最近どこかで聞いた名前だと思ったが、最近も何も今朝の事だ。そんな人間が何故こんな普通の高校に来たのだろう。楓は文科系のクラブについては詳しくないが、校内の吹奏楽部とかが強豪などと言う話は聞いたことがない。

「でも、そういう奴って音大とか……大学じゃないけど、行くもんじゃないの?」

「綾瀬さんは小学六年の時に、スペインの有名なギタリストに弟子入りして渡欧したの。それ以来、ずっと向こうで暮らしているはずだったんだけど。私が知ってるのもネットとか、海外の動画を見ただけだし」

 想像の上を行く経歴だった。英才教育くらいは考えたが、小六で海外留学とは。しかも弟子入りってなんだ。師匠がいるという事だろうか。スケールが違いすぎて、ついさっき話した彼女がそんな凄い人間だとは実感が沸かなかった。

 ともかく楓は大体の事情を把握した。要は双葉は舞い上がっているのだ。自分に置き換えたら、ある日、突然自分のクラスにバレーボールのオリンピック選手が転校してくるようなものだろうか。そうしたら自分も驚くに違いない。驚いて、感激して、それから経験談を聞かせてもらう。それともコーチしてくれとねだったりするのだろうか。

「よし、じゃあ、一曲弾いてもらおうぜ!」

「だから、言いたくなかったのよ」

 綾瀬を探しに楓は立ち上がろうとしたが、双葉に制服の裾をつかまれ阻止された。何をするんだと文句を言おうとして思い出す。ああ、こいつはヘタレだったんだ。他人や集団の為に働いてる時はそんな事ないくせに、自分の事になると急に大人しくなるのだ。そのせいで周りから「堅い」とか「真面目」とか思われがちだったりする。しかし楓は双葉にも希望や好みがある事を知っていた。

「聞きたくないのか。生演奏だぞ」

「聞きたいけど……。急にそんな事言ったら、そう、失礼じゃない」

「じゃあ、ゆっくり聞けばいいのか。ゆっくりってなんだ?」

「し、自然さが大事なのよ」

 自然さってなんだ、とは楓は賢明にも追求しなかった。要はこのクラス委員はまずは普通に友達にづきあいから始まって、徐々に仲良くなっていき、ある日放課後の音楽室で一人でギターを弾いてる綾瀬を偶然目撃するとかプランを考えているのだ。そんな事が起きるか。

「お前、まずは普通に友達づきあいから始まって、徐々に仲良くなっていき、ある日放課後の音楽室で一人でギターを弾いてるあいつを偶然目撃するとか、そういうプラン考えてるだろ」

「ぐっ」

 やはり図星だった。夢見がちすぎる。どこのお花畑だろうか。というかどう見ても具体的に行動した方が早い。しかし楓はそんな双葉がキライではなかった。

「わかった。私がお前の妄想が実現するよう、サポートしてやる」

「そ、そんな事しなくていいわよ。ていうか妄想っていうな」 

「大丈夫、任せろ」

「ねぇ、聞いてる? ちょっと人の話聞きなさいってば」

 必死に留めようとする双葉はもはや眼中になく、楓はいかにして双葉の妄想を実現するかシミュレートを開始していた。その内容は双葉の妄想と大差ないものだ。しかし楓は気づかない。サポートという言葉が大好きなのだ。その語感に堪らないものを覚える。

 つまり楓はアホなのだ。

 

 放課後、綾瀬は校舎のB棟をうろついていた。一緒に登校した際に静流に来るよう頼まれていた。理由は尋ねても教えてくれなかった。静流はあまり多くを語らない。秘密主義なところがあるようだ。それは必要な事も話さないような陰険なものではない。どちらかというと、子供が意味もなく内緒を作っておかしがるのに似ていて微笑ましかった。

 しかしせめて集合場所になっている「第二音楽準備室」がどこにあるのかくらいは確認すべきだった。校舎は二つの棟からなりそれを連絡通路が結んでいる。A棟は普通の教室と教務室、B棟には音楽室や書道室等をはじめとした芸術系、技術系の教室がそれぞれ入っているらしい。準備室というくらいだから、音楽室の隣だろうと当たりをつけて向かったものの見当たらない。綾瀬はろくに確認もせずにうなずいて後になって困る事が多かった。そもそもなぜ転入前の静流が、部屋の位置を知っているのかが謎だった。

 B棟は放課後になると、部活動に勤しむ生徒達が集まり賑やかだった。なかなか良い空気だな、と綾瀬は一人で呟く。自分が迷ってる事もどこかへ行ってしまう。滅多な事では慌てないのだ。

 夕暮れ時、どこかの家から漂ってきた夕飯の支度の香りをかぐように耳を澄ました。強い西日の差す校舎のあちこちで日溜まりのようにざわめきが生まれている。大きなバッグを持って駈けていくグループ。ジャージ姿と制服姿のちょっとした立ち話。廊下から教室へ呼びかける弾むような声。どの音も輝きながらも、一日の終わりを予感させる響きを含んでいた。

 綾瀬の師匠であるカピ・ベルメホは散歩を趣味としていた。雑踏を歩き人々の声やざわめきからインスピレーションを受け、彼らの生活感情を音楽にして表現した。弟子であり一緒に生活していたこともある綾瀬が同じ感性と趣味を持つようになったのは当然だった。カピと綾瀬が出会ったきっかけでもある。綾瀬はB棟の中を、音に身を任せてそぞろ歩いた。日本に帰って来てからは初めてだった。

「まあ、どんなに言い訳しても迷子ですけどね」

 建物を半分ほど制覇し、屋上に続く階段の踊り場まで来てそれを認めた。

「よう綾瀬、こんな所で奇遇だな」

 振り返ると階下に楓と双葉がいた。楓はこれみよがしに片手を上げて挨拶し、双葉はその腕を掴んでどこかへ連れて行こうとしている。一見して、ちぐはぐだった。

「綾瀬さん、邪魔してごめんなさいね。すぐに行くから」

「何言ってんだよ、それじゃ何の為に尾行してきたのかわからな……いたいっス!」

 双葉が急に楓の頭を殴打した。こんな一面もあるんだ、と二人の気安い関係に少し憧れる。自分が静流さんの後ろ頭をはたけるようになるには時間がかかりそうだ。というか永遠にこないかもしれない。

「なんで尾行?」

「それはオマエに用があるからだ」

 じゃあ教室で声をかければいいじゃないとは言わなかった。こういうタイプはどこにでもいるものだ。スペインにいた時、何かと自分をライバル視するイギリスのバイオリニストがいたが、彼女も無駄に流儀や形式から入るタイプだった。向こうにいた時の事を思い出しつつ、別に邪魔じゃないけどと言おうとして閃いた。

「道案内頼める?」

「任せろよ。ここはアタシの庭みたいなもんだ」

「第二音楽準備室ってところなんだけど」

 楓が口を開いたまま硬直した。思い出そうとしているのか視線がふらふらと宙を泳ぐが、結局、知らねぇと呟いた。ぴんと立てた指先と「アタシの庭」発言が切ない色を帯びた。

「それなら三階の端の方にあるけど……でもなんでそんな所に?」双葉が言った。

 それは私にもわかりませんとは言えず綾瀬がお茶を濁すと、双葉と楓は何故か急にものわかりがよくなった。目的は棚上げにして三人で向かう。とても日本的なコミュニケーションだった。道すがら、まだしていなっかので楓と自己紹介を済ませると、どういう経緯か双葉についての話題になった。事を詳しく話を聞いた。より正確に言うと、楓に聞かされたに近い。双葉はクラス委員だけじゃなく生徒会の手伝いもしている。だから学校の事を知り尽くしている。「すげぇ」「天才」「神!」らしい。

 確かに双葉は学校についてとても詳しいようだ。第一準備室は素直に各科目別教室の隣にある。しかし第二準備室はほとんどが物置として使われており、適当な空き室をあてがわれるのであちこちに散在している、と迷いのない足どりで進みながら説明してくれた。

「ここが音楽準備室Bなんだけど」

 三階の教室の前で双葉が言った。

「わかるわけねーよ。なんでわかるんだよ、この教室フェチ!」

 楓がそう言うのも無理がなかった。綾瀬も口にはしないものの心の中で頷く。第二音楽準備室はまず位置からして廊下の端から三番目か四番目というわかりにくい場所にあった。また両隣の部屋と何の違いも見られない没個性的な扉、極めつけに「第二音楽準備室」という表記がどこにもなかった。ドアプレートは貼られているものの、書き込まれておらずまっ白だった。

 二人に感謝しつつ綾瀬はドアに手をかけた。鍵がかかってるかもと双葉が言ったがドアはすんなりと開いた。部屋には静流がいた。綾瀬は静流と暮らし始めて、度々思う事がある。彼女が部屋に一人でいるとまるでガラスに書いた絵画のようだ。何でもない瞬間が静謐な空気に満たされる。今もそうだった。

 しかし楓は違ったようだ。

「あ、ミヤビモン!」

「そういえばそんな風にテレビで呼ばれたりもしてましたね」

「あまり好きな呼ばれ方ではないわ」

 静流は柳眉をわずかに歪めた。

「先輩たちがメールで転校してきたって大騒ぎしてたけど本当だったのか」

「うちの学校ってそんなに有名だったかしら」

 それは綾瀬にも疑問だった。綾瀬は別にどこでも良かったので、帰国後の事は全て静流に一任した。だからこそ静流にはここに来る理由があるはずなのだ。しかし綾瀬はまだそこまで静流の内面に踏み込もうとはしていなかった。

「私達は学生生活をしようと考えてここに来たのよ。今まで若いながらに働いていたのだけど、ふと別の可能性も体験してみたくなって私が誘った。ちなみに綾瀬とはルームシェアをしているわ」

「ルームシェアというか私が居候ですけどね」

 それは高校へ通う理由にはなっても、この高校を選ぶ理由にはならない。軽口で応じつつ内心ではこう考えていた。

「綾瀬、この二人は?」

「同じクラスの双葉と楓です。ここまで案内してくれたんですよ」

「親切な人達ね。楓さん、あなた部活は何を?」

「バレー部ですけど」

「今日は練習お休み?」

「ちょっと野暮用で」

 楓は双葉をちらりと見て言った。

「そう、わかりました。あなた達、綾瀬がどんな人物か知っているのね」

「ど、どうしてそれを!」

 楓はとてもノリが良かった。その後ろで双葉が頭を抱えている。

 楓の長身と体つきから、日頃からスポーツをしている人間だと静流はすぐに気づいた。静流はこの部屋に来るまでに校舎内を歩き回り、運動系の部活が活動中なの確認していた。にもかかわらず楓はここにいる。普通よりも込み入った事情があるに違いない。さらに転校してきたばかりの綾瀬に積極的に関わろうとしているなら、それは彼女がどんな人間か知っているという可能性が一番高い。静流はそう説明した。さすがに頭が切れた。 

「彼女のギター、聞いてみたくない?」

 静流は乱雑に転がる楽器の中からギターケースを取り出した。しばらく放置されていたらしく黒革の上には埃がかぶっている。空気に細かく散っていくのが光に反射する。

「本当は私が個人的に弾いてもらおうと思っていたんだけど」

「そういえば落ち着いて、静流さんにゆっくり弾いた事ありませんでしたね」

「ええ。でもこっちの方がずっと良いわ」

「私は別にかまいませんけど、二人とも興味ある?」

 綾瀬は双葉と楓に問い掛けた。雅の洞察力を疑う訳ではないが、綾瀬は日本ではフラメンコがそれほどメジャーではないことを自覚している。確かに知らない人は珍しいかもしれない。けれど例えば無作為に三十人ほど集めてフラメンコを日常的に聞くという人がいるのは稀だろうし、演奏する人はたぶんいないだろう。腕に覚えがないわけではないが、日本に来てまでことさら演奏することもないだろう、と思っていた。 

「そんなことない!」

 双葉が大きな声を上げた。みんな驚いたが誰より彼女自身が驚いたようで黙り込んでしまう。しかしそれもわずかな間だけですぐに顔を上げ、綾瀬が初めて聞くしっかりとした口調で言った。

「綾瀬さんが弾いてくれるなら、私は聞いてみたい」

 双葉のじっと見つめてくる瞳はまるで何か試験にでも挑んでいるようだった。実際、彼女はそう考えているかもしれない。綾瀬はそれに応えない訳には行かなかった。転校してきた見ず知らずの相手の世話にしては彼女は少しばかり親切すぎると感じていたが、その理由が綾瀬にももうわかっていた。こそばゆい事だけれど、彼女は自分のファンなのだ。こんなに熱い視線で望まれるなんて、向こうでもそうそう無かった。

「こいつマニアなんだよ。部屋にあるCDの量とかおかしいの。それに私もそこまで熱心じゃないけどさ、友達の特技は知っておきたいと思うよ」

「うん、じゃ弾いてみますか」

 綾瀬はケースからギターを取り出して椅子に腰かけた。パンツルックだったらかかとをももに乗せるのだが、さすがに制服だと厳しい。片足を落ちていた台に乗せて安定させる。音を確認してからペグを弄り調律する。自分の好みまで突き詰めたらきりが無い。ある程度満足が行ったところで双葉達の方を向いた。

「何かリクエストある?」

「シギリージャ! 去年の、市の音楽祭で演奏していた曲を」

「了解。……なんでそんなローカルなのを知ってるの?」

「ネットで見たの」

「なるほど」

 目を瞑り綾瀬は弾き始めた。シギリージャは苦悩の歌だ。十七の小娘に苦悩を表現する事なんてできるのかと綾瀬自身も普段は考えたりする。けれど、実際にやってみると不思議とできるのだった。一度ギターを持つと綾瀬は一個の人間ではなくなる。存在の底にぽっかりと穴が開いて、そこから音像が現れるのを待てば良かった。人間、誰しもが切実な所を持っているだな、と宙に浮いたような気分で綾瀬はそれを見つめるだけだ。いない事、それが綾瀬の音楽だった。

 五分ほどして演奏を終える。「という感じなんだけど、どうかな」と言って目を開く。いつも通りの静流と、演奏前とは様子の違う双葉と楓がいた。楓は驚いたように口をあんぐりと開け、双葉に至っては涙目になっていた。

「めちゃくちゃ上手いじゃん! 完全に天才の所業だよ!」

「す、凄かった」

 驚きの放心から一転、爆発したようにハイテンシンョンで捲くし立てる楓と、その隣で上手く喋れない双葉。綾瀬が気になったのは双葉の方だった。そんな風には見えなかったけれど、この子は実はとても感受性が高いようだ。ここまで反応があるなんて、演奏者冥利に尽きる。楓に泣き顔をからかわれる双葉を見ていると、胸の奥が疼くのを感じた。

 綾瀬がギターをケースにしまい解散になった。泣いてしまった双葉が恥ずかしがり、話をするという雰囲気ではなかった。まだ少し鼻をぐずつかせている双葉を連れて、楓が部屋を出るのを静流と見送る。双葉をかまいつつ、けれどしっかり前を歩いて先導する楓が微笑ましかった。

「静流さんは変わりませんでしたね」

「そんなことないわ、これでもとても感動しているのよ」

 演奏が始まってから口を開かずにいた静流が微笑んで言った。綾瀬の手を取り、自分の胸に持っていった。どう、と首を傾げられたが、綾瀬は静流の普段の胸の鼓動を知らない。ただ心なしか早い気はした。

「貴方を選んで正解だった。さあ、帰りましょう」

 否応なしに握られた手は同じくらいあっさりと離された。綾瀬がぼうっとしているうちに、静流はもうドアをくぐり廊下へ出ている。まったく、自分に忠実な人だ。だが、どうやら今、彼女は上機嫌らしい。この人にならイニシアチブを取られても許せてしまえる。そう思わせるのが彼女の特質なのかもしれない、と綾瀬は思った。


 次の日、学校に綾瀬と静流の噂が広まり始めていた。そもそも正体がバレたというほど経歴を隠していたわけでもないが、綾瀬は昼休みになるまでにミュージシャンなの、という質問を二度受けた。そんな大したものじゃないけれど本当だと綾瀬が答えると、相手が納得して帰っていくのでそれほどの騒ぎにはなっていない。綾瀬は誰にでもフラットな物腰で対応するので、騒ぎを回避するのが無意識的に上手かった。

「私にはなかったわ」

 午前中の出来事を隣に座る静流に話すとそう応えた。そうでしょうともと綾瀬は心の中でうなずいた。静流の周りにはそういった些事を訪ねにくい超然とした空気がある。だからメールのやりとりで噂が広まる。ただそれは周りが勝手に抱くイメージに過ぎないようで、家では綾瀬と妹の三人で世間話に興じている。妹とも自分の居ない所でなんだか盛り上がっているようだ。ウマが合ったらしい。

「私達って、やっぱり珍しいんですかね」

「強引な手続きで転入したから、特別扱いされている。こうしてここにいる事もそう」

 二人は生徒会室にいた。コの字型に並べられた三つの長机の真ん中に、置かれたパイプ椅子に並んで座っている。他に人はいない。校内放送で呼び出されて来たものの、入れ替わるように出て行ってしまった。少し待っててもらえる、と頼んで部屋を出て行った女子はこの高校の生徒会長、揖斐政子だと名乗っていた。生徒会、そして生徒会長というものは忙しいものらしい。

 物珍しさに色々物色していると、数分して揖斐が戻ってきた。さっきは一瞬でよくわからなかったが、彼女は細面に理性的な色をした瞳をしていて雰囲気が静流に似ていた。視線を下ろしていくと、すらりとした体型で黒髪もまた同じく肩甲骨くらいまで伸ばしている。後ろ姿だけだと間違えてしまうかもしれない。ただ静流と違って飾り気はあるようで、彼女は前髪を斜めにピンで留めている。鬱陶しいのは好きではないのか、静流は小物を持たない。

「双葉さんは……いないわね」

「彼女も来るんですか?」綾瀬が尋ねた。

「よく手伝ってもらってるの。それにあなたの所のクラス委員でしょう。もうすぐから来るだろうから先に始めましょう。ごめんなさい、こちらから呼び付けたのに、待たせてしまって」

「いえお昼も済ませた後なので」

「こうして呼ばれる事も予想していた。それに一度、話をしてみたかった」静流が言った。

「私と? どうして?」

「とてもできる人間だと教室で話していた。特に事務捌きが早いと」

「あなたのように本当に社会に出て働いている人に言われると困っちゃうわね」

「世の中はあなたが思ってる程、複雑ではないわ。確かに今はまだ未熟かもしれない。けど、熟していない果実に酸っぱいと不平を言うのは筋違いだわ。同世代でサポートしてくれる可能性はとても貴重」

「将来、就職活動をしなくても良さそうかしら」

「その気なら大学受験もしなくていい。もっともそれよりも忙しくなるだろうけども」     

 揖斐は微笑むだけで何も返さなかった。静流もそれを気にしていない風で、どうやら話が終わったらしい。綾瀬は言葉のキャッチボールをただ見ていた。自分のような適当な人間が相手では無い時の方が、静流はより彼女らしいのかもしれない。

「じゃあ本題に移るけど、あなた達、昨日準備室を無断で使用しましたね」

 静流は頷きあっさりと認めた。こうなる事を予見していたようなのでここは彼女に任せることにする。もっとも、帰国して以降、綾瀬が決めた事など夕飯のおかずくらいだった。綾瀬としてはギターが弾ければ大体それで満足なのだ。

 揖斐の話をまとめると内容はこうだ。生徒はみな生徒会の会員であり、規約に従う事になっている。その規約では教室の無断使用は禁止されている。普通なら誰かが気まぐれに空き教室でひと時過ごした位で目くじらを立てたりなどしない。ただ今回二人は目立ち過ぎた。超絶技巧の演奏がいきなり校舎に響き出したのだ。目立ちもする。

「本来なら、教師から軽く注意されて終わる程度なのだけど、できる事なら生徒の事は生徒間で話を着けたいじゃない? それが生徒会自治というものなのだから」

「静流さん、私、この会長さんにはあまり迷惑をかけたくないんですけど」

「ええ。それで私達はどうすればいいのかしら」

「二人にクラブ設立を提案します。恐らくあなた達は学生生活を体験するのが目的なのでしょう?」

「どうしてそう思ったんですか?」

「だって二人に高校教育は必要無いじゃない。にも関わらずわざわざ学生に戻る理由としてはそれが一番妥当に思えた。あとNHKでそういうドキュメンタリーもやっていたし……来たみたい」

 話の半ばで綾瀬も足音に気づいていた。職業柄、耳は優れている。見知った人間であれば、足音だけで誰だか判別できたりする。約束に遅れているというだけではなさそうな、ちょっと忙しげな足どりは何かと世話になっている双葉のものだ。

「すいません、遅れました」

「謝るのは私じゃなくて、二人にね。私も遅れたようなものだし」

「そ、そうですね。ごめんね、綾瀬さん、静流先輩」

「んーん、気にしてないから。ていうか私達が呼び出されるようないけない子なわけだし」

「それは……そうなんだけど。でも昨日は私も何も考えずに案内しちゃったし」

 双葉は素直な人間だった。綾瀬は笑いそうになった。二人が話したのは、今日はこれが初めてだった。昨日泣いた双葉が恥ずかしがってしまい、午前中は事務的な会話しかしていない。楓に相談すると、そのうち戻るだろうから心配するなとアドバイスをもらった。どうやら本当のようだ。

「今ね、二人にクラブを設立したらどうかって勧めてたところ。どう新開さん」

「異存ないわ。もともとそのつもりだったから。昨日の演奏は私自身の為だったけれど、こうして話題になる事も計算していた。そうすれば説明の手間も省ける。綾瀬もそれでいい?」

「私はなんでも。こういう事は静流さんに従ってれば間違いないでしょうし」

 静流は揖斐に向き直りうなずいた。

「決まりね。昨日の件は転校したばかりで規則を知らなかったという事でお咎めなしにします。といっても、そもそもそんな権限は私達には大して無いのだけど。双葉さん、部活申請に関する条件を教えてあげて」

 双葉が空で説明しだす。それによるとクラブとして生徒会に認められるには条件が大きく二つあった。部員と活動実績だ。部員は最低でも四名。活動実績については申請の前後三ヶ月に何らかの形でクラブがこの学校の利益になると認めさせればいいらしい。

「私、こないだセビーリャ市のフラメンココンテストで優勝したけど、実績になる?」

「えっと、会長?」聞かれた双葉は困った様に揖斐をうかがう。

「実績として認められるかは定期的に行われる会議で議題として提出されて多数決で判断されます。綾瀬さんの優勝はとても素晴らしいものなのだろうけど……学校に寄与する意志があったのか。あなた達がもう一度この学校で何かを行えば間違いなく認められるでしょう。そもそも実績といっても優勝とか全国大会進出とか難しい事を要求しているわけではありません。人に迷惑をかけるものではないか、そして上達や達成の為、習慣的に修練や学習を行っているかを確認したいの。だから私はそちらの条件については心配ないと考えています、という所でどうかしら?」

 綾瀬はうなずいた。確かに優勝は私の実績ではあるが、学校の為にやった事ではない。つい先週まで学校に通うなんて考えがそもそもなかった。なるほど今、自分は集団に属しているのだ、と綾瀬は改めて感じた。

「部員の確保については頑張ってとしか言えません。これは今活動しているクラブ全てがパスしてきた通過儀礼だから。ただ一つだけ、生徒会長としての期待と新しい友人としてのエールを込めて、プレゼントを送りましょう。双葉さん、二人の部活設立を手伝ってあげたらどうかしら」

「な、なんでですか? なんで私が!」

「彼女たちはこの高校に来てまだ二日、中学にもほとんど通ってなかったみたいだから、色々と心もとない事もあるでしょう。中学、高校とクラス委員および生徒会運営に携わってきた、いわば学生のエキスパートである双葉さんが手伝ってあげるのはそれほどおかしな事ではないと思うけど」

「それはそうかもしれないですけど」

「というのは建前で昨日の夜、楓に話を聞いてね、二人が仲良くなれるように便宜を図ってくれって」

「やっぱり楓ですか! あいつはほんとに!」

「楓を知っているんですか?」綾瀬が会長にたずねた。

「あの子と私は幼稚園からの幼馴染みなのよ。家がすぐ近くなの。中学で双葉さんがクラス委員になって三人友達になったわけ」

「なるほど」

 双葉達三人はそれぞれ友達がいるというだけでなく、その繋がりが輪になっているのだ。偶然かもしれないが知り合った三人がみな、それぞれ異なる関係で結ばれている。今までに知り合った人とどこかで繋がっていた。ネットワークように事情が伝わり、本人の知らない所でなっていて色々と考えてくれている。綾瀬にはそれが不思議だった。

 スペインにいた頃の綾瀬は自分が行った事に対して、周囲が反応するという枠組みしか持っていなかった。師匠のカピ・ベルメホとバイトとして雇ってくれたタブラオの店主は旧来の友人であり、二人が自分の知らない所でたくさんフォローしてくれていた事は想像に難くない。綾瀬律というただ一つ演奏の才能を持っているだけのが未成年がスペインという異国の地で生活するのに動いた大人の数と労力は、経済的な利益という見込みも相まって、この学校で動いている規模を遥かに上回るものなのだろう。けれど規模が大きければ、それだけ実感も増すわけでもない。きっと質が違うのだ。その関係の中で綾瀬は車輪の中心のようなものだった。輪そのものとは距離を抱えていた。

 いま触れている関係はそれとは少し異なる。スペインにいた頃は自分を中心に、自分の為に用意された関係だった。だが今、自分は既存の友人の輪に新しく加わり、そしてそこで等しく扱われている。それが愉快だった。笑い出したくなるくらいに。

 綾瀬が考え事をしている内に静流と揖斐で今後の活動について段取りが決められていた。昼休みも残り少なくなって四人で生徒会室を出る。途中、三年生の教室へ向かう静流と揖斐と階段で別れ、双葉と二人きりになった。双葉は落ち着かない様子でもぞもぞしていた。それ綾瀬がもう憶えた、彼女の言いたくても言えないでいる時の仕種だった。

「どうかした?」綾瀬は助け船を出した。

「あの、綾瀬さん、さっきの話は気にしないでね?」

「さっきの話って?」

「だからその仲良くなりたいから、便宜を図るとか……楓が馬鹿なだけだから」

「あー、あれね。別に気にしてないよ」

「そ、そう」

 気にしないでと言われて、気にしていないと答えたのに、なぜだか双葉が少しだけ肩を落としたように綾瀬は見えた。目の錯覚や気のせいなのかもしれない。けれど、とにかく何とかフォローしなければと咄嗟に考えて続けた。

「なんて言えばいいんだろう、気にするとかじゃなくて、こう新鮮だったんだよね」

「?」

 何を言ってるのかわからないという顔をされた。それはそうだ。自分でもわからない。

「つまり、ほら、仲良くなるってのに悪い事は無いじゃない? そんな感じ」

「あ、あー、そうだよね。あは、あははははは、はあ」

 双葉は少し戸惑って、笑って、溜め息をついた。どうやらフォローは失敗に終わったようだ。よくわからん、と綾瀬は思った。何か問題を解決する際は、その本質がわかれば自ずと解法と解答までおぼろげに見えるものだ。今、綾瀬にはそういった感触がない。まだまだだった。

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