第1章「帰国」2
静流は綾瀬に一週間後には高校生と告げたが、本当にその通りになりそうだった。
静流はそもそもノートPCさえあればどこででもできる仕事だ。これまでも日本にいたり海外にいたり、気分次第であちこち移り住んできたらしい。綾瀬に関しても周囲は寂しがりこそすれ、帰国を引き止める者はいなかった。仕事のスケジュールはさすがに気になったが、こっちでやっておくからと師匠のカピもタブラオのマスターも笑って送り出してくれた。成長してまた戻って来い、と励ます二人はまるで家族が旅に出る時のような接し方だった。綾瀬は正直うるっときた。
スペインから日本への直通便は存在しない。綾瀬達は一度フランスを経由して、日本へ向かう飛行機に乗った。ファーストクラスの乗り心地はしばらく忘れられそうにない。一列に三席しかなかったり、料理を持ってくる人がシェフの帽子を被ったフランス人だったり。座席も囲いがあって個室と言っても良かった。あまり贅沢には興味がない綾瀬でも、テンションがあがるというものだ
フランスから日本までは十時間。乗り継ぎ時間を含めると向こうを出発して十五時間後、二人は日本の空港に降り立った。帰国したのは実に一年ぶりだ。今年はCDのレコーディングやそのプロモーションなどで忙しく帰れなかったのだ。かわりに家族がスペインに来てくれた。
カピの家で歓迎パーティーが開かれ、そこで綾瀬の妹が振る舞った料理はびっくりするくらい美味しかった。しかも自分好みの味付けだ。両親によると自分の為に練習してくれているらしい。確かに自分が中学一年生でスペインに渡ってからというもの、妹はどんどん大人びていった。
「お姉ちゃん!」
税関を通過し、待ち合いロビーに出た途端にいつもの声で迎えられた。平日で学校があるはずだが関係ないらしい。妹の『姉優先主義』については親も諦めていて、また自分としても嬉しいので、綾瀬家では公認されいる。
「ただいま、畔」
荷物をフロアに置いて胸に飛び込んでくる妹を受け止める。この重みが一番、日本に戻ってきたと感じる瞬間だった。家族がスペインに来てくれた時もそうだった。こういうのは理屈ではないようだ。
「本当に戻ってきたんだ。まだ信じられないよ」
畔は相好を崩している。チョコレートが溶けるかのような笑みだ。それだけでも帰ってきて正解だったと思えた。
「私も。なんかこの人に誘われてね。面白そうだったから」
そう言って、静流に水を向けた。
「はじめまして。新開静流よ。これから宜しく」
「お世話になります、妹の綾瀬畔と言います。静流さんって読んでいいですか?」
「好きなように読んで頂戴」
「本物の新開静流さんなんだね、お姉ちゃん」
「ね。なんか現実感ないよね」
「貴方だって、向こうじゃ有名人じゃない」
「あんまり意識した事ないです。声かけられたとかもありませんし。ほら、周りがちらほらこっち見てますよ」
「ほんとだ。すごい。静流さん本当に綺麗ですもんね」
「ありがとう。着いて早々だけど移動しましょうか。構わない?」
綾瀬が頷くと静流は出口に向かった。フライト中の機内でも若干注目は浴びていた。しかし、こういった公共的なスペースだと好奇の視線も強まるものらしい。それを相手にするでもなく、かといって邪険にもせず、平然と歩く静流の姿は風格すら漂うものだった。
静流がチャーターしていたバンに乗り込んで向かったのは、静流が移住を決めた地方都市だった。空港からは高速を使って三時間ほどの距離にある。どういう基準で決めたのかわからないが、静流がその街を指定した。綾瀬はどこに住んでも良かったが、そこが偶然実家に近かった。立地や住居についても全て静流任せだ。
畔は実家に当然ながら実家住まいだった。本当は妹がわざわざ空港まで出迎えに来ることはなかったのだ。むしろ実家から直接向かったのは方が手間がかからない。しかしその分だけに嬉しくもあった。
車内ではほとんど話さなかった。静流が用意したバンは普通の座席ではなく、壁に沿ってぐるりとコの字型のソファが設えてあった。三人とも準備にそれぞれ忙しく、気づいたら全員が横になって眠っていた。肩を揺さぶられて綾瀬が目を開けると、車内はもう暗くなっていた。窓の向こうに何の変哲もない住宅街が見える。
「お姉ちゃん、着いたよ」
「ん? うん。わかった今出るから」
変な姿勢で寝ていたせいで身体がガチガチに固まっていた。あくびをしながら背伸びをして身体をゆるめる。スペインだけでなくヨーロッパ中を師匠と共に演奏旅行をする事もあった綾瀬は長距離移動にはなれていた。しかしさすがにスペインから日本は遠かったようだ。
それぞれの荷物を手にして車を降りる。静流は先に降りて、ある一軒家の前で待っていた。綾瀬と畔は静流の隣に並ぶ。そこがこれから暮らす事になる家だった。三人で共同生活を営むのだ。
「私も一緒に住みたい」
綾瀬が家族に帰国の旨を電話で報告すると、畔はそう言った。日本にも帰ってくるにも関わらず実家には帰らないと知った時、妹は決心を固めたようだ。駄目なら近くにアパートを借りて一人暮らしをしてでも引っ越すと宣言した。姉という前例がある以上、反対できることではかった。
姉妹で世話になるという無理を承知で静流に経緯を話すと、静流からはあっさりとオーケーが出た。部屋は余ってるから好きに使うといい、妹は家事は得意か、と尋ねるくらいだった。そして畔は姉の為にと炊事、洗濯、料理を習得していた。むしろ綾瀬こそが真の居候だった。何年も一人暮らしをしていたのにまるで憶えていない。ありもので済ませるタイプだった。
「それじゃあ、入ってみましょうか」
静流は上着のポケットから鍵を取り出して言った。
「静流さん、入ったことないんですか?」
「ええ、下見から支払いまで全て人に任したから。専門家だから不備はないはず」
家は外見から判断しても、豪邸とは行かないが、安普請といった風もない。少なく見積もっても二千万ぐらいするのではないか。これをポンと購入するとは。ブルジョアっているんだな、と口には出さず綾瀬は玄関が開くのを待った。
ドアが開くと、そこはごく平均的なスペースの三和土だった。その向こうには薄暗い廊下が見える。生活臭はあまり感じられなかった。ハウスクリーニングが入っているのかもしれない。
「普通の家ですね」
「お姉ちゃん、そんな事言っちゃ駄目だよ」
「いや、良い悪いって意味じゃなくってね」
「大丈夫よ。あなたが思ったことを口にする性質なのは、飛行機の中で把握したから。それにこの家はそう思われるようにしたの。コンセプトは普通、なのよ」
「コンセプト?」畔が聞き返した。
「そう、私は普通を体験したいの」
静流はそう言ってドアをくぐった。はあ、と畔は感心したのか呆気に取られたのかわからないような息を吐いて綾瀬に小声で言った。
「静流さんも変わってるんだね」
畔は既に姉で変人について学習していた。
バンの運転手はトランクから綾瀬達の荷物を運び出し、リビングに上げると丁寧に頭を下げて帰って行った。リビングにはソファやテレビなどの家具一式が既に揃っていた。静流によると各自の部屋にも本棚や机などが用意してあるという。そちらも支障ないかどうか確認を兼ねて、先に荷物を片付ける事になった。夕食も外食で済ます予定だったので、この家で料理を任された畔の負担にもならない。
綾瀬は新しい自分の部屋でわずかばかりの私服をクローゼットにしまった。クローゼットと机のちょっとした隙間に、ギターケースを立てかけているとドアがノックされた。
「お姉ちゃん。ちょっといいかな?」
「いいよー」
「お邪魔するね」
畔は部屋に入り、ひとしきり見回すと綾瀬の荷物を見て言った。
「もう片づけ終わったの?」
「終わったよ。畔は?」
「私はまだ残ってるけど、夜やろうかなって。本当にあのスーツケースで全部なんだ」
「それ、静流さんにも空港で言われた」
綾瀬はあまり物を持たない。小学生の頃はそうでもなかったが、スペインに渡ってからその傾向が次第に強くなって行った。衣類は演奏の際の衣装を除いてはジーンズとTシャツと上着、食事は外、睡眠はソファの上という有り様だ。綾瀬にとって住んでいたアパートはあくまでも仮住まいである、という印象が強かった。四年居ても結局の所、自分が旅行者だと考えている節があった。
「あれ、一泊二日とかのサイズだよ。いつも言うけどもうちょっとオシャレしようね」
「まあ、これからは時間もあるし。おいおいね。あ、でも高校って制服でしょ。それならそれで」
「もう駄目だってば……。それでさ、えっと、今日お願いできるかなって」
畔は気恥ずかしげに手を合わせてもじもじした。それでピンときた。妹が再会した時には必ず行っている二人だけで演奏会を行っているのだ。それはスペインに渡る前から、子供の頃からの二人だけの決まり事でもあった。
「もちろんいいよ。別にいつでも、何ならこれからでも……って駄目か。静流さんとご飯食べに行かないと」
きっとその辺りの都合も考えて、畔は言いだしにくそうにしていたのだろう。けれど彼女とって、それはどうしても外せない内容だったのだ。我ながら愛されているなあ、と綾瀬はしみじみ感じた。
「ちょっといいかしら」
静流が開けっ放しになっていたドアから顔だけをのぞかせた。畔がびっくりしていた。
「夕食、コンビニで済ませてしまおうと思うのだけど。これから私が行ってくる」
「それはかまいませんけど……聞こえてました?」
「何が?」
「いえ、何でもないです。じゃあお言葉に甘えて宜しくお願いします」
「リクエストはある?」
「あんまり食べてないのでご飯系で。丼とかカレーとか」
「了解。妹さんは?」
「あの、その、なんでもいいです」
「そう」
「静流さん、ありがとうございます」
「そんなに畏まらなくいいのよ。家族で積もる話もあるでしょう。明日からの料理、期待しているわ」
「はい、任せて下さい」
妹は腕まくりをするフリをして、ほとんど膨んでいない力こぶを作った。静流はそれに頷いてから顔を引っ込めた。階段を降りていく足音が遠ざかり玄関がバタンと閉まった。財布を取るとかそういう手間がない。きっと最初から準備をして、自分たちに声をかけてきたのだ。
「気、遣わせちゃったかな」
「大丈夫だよ。静流さん、飛行機の中で今日の夕飯、コンビニにするか迷ってたから」
「そうなの」
「コンビニで買い物した事ないんだって。だから気になってたみたい」
綾瀬と静流は料理ができない。スペインにいた頃の綾瀬は食事はジャンクフードとタブラオのまかないで食いつないでいた。日本に戻る機内で聞いた話だと、静流はカロリーメイト、もしくは食べないで済ませていたそうだ。栄養補助食品はともかく、食べないという選択があるのかと、綾瀬は感心した。
妹も一緒に暮らす事に決まって、静流は色々と綾瀬に尋ねてきていた。年齢、性格、趣味等、特に家事が得意だと聞いて、だいぶ興味を持ったらしい。それは畔が綾瀬の為に料理を習得したという事情も含めての事だった。静流は人のために何かをする、ということに関心があるようだ。
「だから、料理に期待しているってのも、リップサービスじゃなくて本心だと思うよ。あのひと色々考えてるけど、全部ちゃんと理由があるみたいだから」
「それはそれで緊張するよ」
「畔の料理なら、大丈夫。さてじゃあ始めようか」
綾瀬はさっきしまったばかりのケースを掴み、中からギターを取りだした。先にベッドに腰掛けて、両腕を広げて畔を誘う。畔は綾瀬の両脚の間におずおずと腰掛けた。彼女が恥ずかしがる理由がこれだった。思春期を迎えるくらいから、抱っこされるようなこの体勢に妹は羞恥心を覚えるらしい。綾瀬はほとんどそういう気持ちは湧かなかったが、一時期は普通に面前で演奏した時期もあった。しかし結局は幼い頃から続く、この形に落ち着いている。なんでもまるで自分が演奏しているような気分になるそうだ。
畔の背中がまだ強張っているのを胸で感じながらチューニングする。特に異常はない。空輸する際、航空会社の好意で空席に置かせてもらったのでそれほど心配していた訳ではないが、それでも安心した。ギターは木製なので温度変化に敏感だ。マイナス五十度になるような貨物室だと、ギターが裂ける事もあるらしい。このギターは師匠のカピにプレゼントされた、綾瀬の所持品の中でずば抜けて高額の品物なのでそれは遠慮したい。
チューニングを終え、一呼吸置いて演奏しだす。子供の頃によく演奏した曲、初めてスペインのコンクールで優勝した時の曲、妹がまだ知らない最近の曲などを思いつくままに奏でていく。たまにリクエストに応えたり、時には曲とは言えない自慢のフレーズだけを重ねたりもする。商売や芸術としては上等とは言えない、ただの思いつきに運指を任せる。正直な所、演奏しやすい体勢ではまったくない。ちゃんとすればもっと上手くできる所も多々ある。けれど、これはこれで楽しい、綾瀬にとって欠かせない一時だった。
「やっぱり、お姉ちゃんの演奏は安心する」
畔もいつの間にか、すっかりリラックスして身体を綾瀬に預けきっていた。こうしていると自分にも何かあったかいものが流れてくるような気がした。しかし、演奏を始めてからもう一時間が経とうとしている。そろそろ居間で待たせている静流にも申し訳なさが出てきていた。
「今日はこの辺でおしまい。これからはまたいつでもできるから」
「そう、なんだよね。これから毎日お姉ちゃんと一緒なんだよね」
「いつでも言ってよ。今日だって私はまだまだ行けるんだけど、待ってる静流さんに悪いからさ」
「え、帰って来てるの?」
「うん、気を使って、忍び足で帰って来たみたい。二十分くらい前に」
「早く言ってよ!」
畔はあわてて立ち上がり、身なりを整えて部屋を飛び出して行った。廊下に出ると静流に謝っている声がした。ペコペコと頭を下げている姿が目に浮かんだ。
この家には気遣いができる人間が二人もいる。まだまだ自分たちは遠慮している。さっき静流が言った「家族で」なんて、まるで静流は家族ではないみたいだった。本当は今日、ついさっきから家族になった筈なのだ。けれど、その遠慮の中に配慮があった。それがとても心地よい。この家の暮らしはきっと心安ぐものになる。綾瀬はそう思った。