表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
綾瀬さんはギターが得意  作者: Gorilla Hands
12/13

第5章「演奏会」2

 演奏会当日。結局、綾瀬は準備にほとんどタッチしなかった。日が近づくにつれて家で練習する時間は増えたが、それでもスペインで働いていた時ほどではなかった。

 そもそも綾瀬はプロになってからあまり練習していなかった。仕事で演奏するだけで十分だったからだ。手が勝手に動く感覚を大事にしているからといのもあった。真面目に練習をしている人間に怒られるかもしれないが、上手に弾こうとする自意識を不在にする事こそが、綾瀬にとって最も重要だった。その方が上手くいくのだ。

 それは音楽を蔑ろにしていたわけではない。むしろこれまで綾瀬は常に音楽しか頭になかった。朝起きてから夜寝るまで、仕事も人間関係も音楽以外の要素が生活になかったのだ。

 高校生になって生活は一変した。当たり前だが世界は音楽だけではない。色々な人間が色々な事を考えて生活している。しかしそれを身に染みて実感できたのは数年ぶりだった。ギターに触れない日があったのは、子供の頃、物置で手にしてから初めてだった。

 昼休みや放課後の他愛ない会話、プール遊び、お見舞い。それらは他の人間にとって何でもないことなのだろう。だがそれは自分にとっては特別だった。しかしこの日々はきっと長くは続かない。自分が大学に進学するなんて事は絶対にないだろう。学力の問題ではなく、そういうビジョンがそもそも浮かばなかった。

 多くの人間が高校卒業後、スペインでギタリストになろうなどと思わないように自分は大学生になるとは思わない。そこには優劣ではなく、ただそうなる他なかったという事実のみが存在するのだ。

 卒業までの一年と少し。綾瀬はできるだけ多くの時間を家族や友人と過ごそうと考えている。これから先、何があっても揺るがない記憶にしたいとも。そう考えるくらいにここは良い人ばかりだ。

 誰にも言わなかったが、綾瀬は自分の演奏をタダで聞かせていいものかと気にした事があった。ケチとかではなくて、今まで育ててくれた師匠にどこか申し訳なさを感じていた。勝手が過ぎるのではないかと。

 だが徐々に価値観は変わっていった。ここにいる人達の為なら、喜んで自分を、自分そのものを差し出そうと。技術や芸術ではなく、綾瀬律を提供しようと思うようになった。そう、ここではそれが当たり前なのだ。双葉は双葉を、楓は楓を、不器用ながらに等身大にぶつけてきてくれる。そうしてお互いのお互いの為に動いていた。

 日も傾き陰り始めた空き部屋に数十人が椅子を並べて自分の登場を待っている。ほとんどが話したことのない生徒、しかも彼等はそこまで音楽に熱を入れてるワケでもないだろう。けれどそんな事は気にもならない。何しろ向こうでは酔っ払いを相手にしていたのだ。

 静流が来場感謝の挨拶を済ませ、自分の登場を促した。うなずいて教壇に上がり、用意された椅子に腰掛けた。照明はない。飾り立てる事もしなかった。自分が好きなこの空間。教室と夕闇こそが相応しいと思ったからだ。

 弦を軽く爪弾く。綾瀬がするのはそれだけだ。それ以降は自分ではない何か、もっと大きなものに預けることにしている。自身の不在をもって音楽とする。それが一度も変えた事がない綾瀬の演奏だ。カピ・ベルメホに指導されている間でさえそうだった。

 しかしその時、綾瀬はこれまでにない深みにいた。それはもはや自分の不在ですらなかった。音楽ですらなかった。全てだった。テンポ、リズム、メロディーそういったものが何かより上位のものの結果であるように思えたのだ。それは教室の薄暗さであったり、ここに集まってくれた人達の息遣いであったり、あるいは友人が向けてくる眼差しであったり、高校でできた思い出であったり、今まで生きた十六年の全てであったり、それ以上だったりする。その大きさ、長さもばらばらな一つ一つの印象が、一つ一つの音であるように綾瀬は祈った。

 最初は圧倒されていた聴衆も、数曲を経て徐々にこの遊びのルールを理解してくるのを綾瀬は感じていた。CDや動画では伝わらないものがあった。この空間は自分達も参加する事で成立している、身体を震わすことも声を出す事もなく意思疎通をはかる事ができる、むしろ自我の境界が薄くなることで意思疎通の必要がなくなる場合もまたあるのだという体験的な洞察が進んでいく。

 全ての曲を演奏し終え、綾瀬は弦から手を離す。綾瀬も運営スタッフも聴衆もみなしんと静まり返った。まだどこかに先程までの音が残っているかもしれないと口を噤んでいるようだった。椅子を引きずって音が鳴るのを気にして誰も立つことすらできなかった。だがやがて耐えきえれなくなり漏れた笑いによって、その沈黙も破られる。

 次の瞬間、一斉に歓喜の声が弾けた。ヤバい、すげぇ、あるいは笑い声や雄叫び。先程までのコミュニケーション不要な状態から転じて、それぞれの個性によって表現された感情で場が構成される。そこはもう日常だった。特別な時間が終わり、先程の体験は思い出したとしても既に記憶の一つになってしまっている。あの濃密な空間に比べると日常のなんとじれったいことか。演奏後はいつもそう感じてしまう。

 けれど綾瀬はここに来て、新たな側面を知った。確かに現実は煩雑で手間がかかる。しかしその手間こそが生の実感を補強するのだ。今まで浮世離れした自分達はきっとそれが足りなかったのだろう。

 この目の当たりにしているざわめきも、きっと別種の音楽なのだ。生の全てはみな音楽になりえる。交換可能である。こうして綾瀬はやっと地に足が着いた感じがした。

 綾瀬は「ありがとう」とみんなに言った。


 演奏会は成功に終わった。参加した生徒の口から広がった噂により綾瀬律は一躍、時の人となった。転校当初から注目はされていたが、それが実力に裏打ちされたものであるという確証を得てよりその度合いが強いものになった。

 それによって環境に変化が起きはじめていた。演奏して一週間も立たないうちに、生徒会によりクラブ発足が認められた。静流によると生徒会総務を務める生徒達はみな演奏会に招待していたそうだ。その甲斐あって会議では満場一致で可決されたらしい。

 もっとも綾瀬自身にはさほど変化はない。少なくとも外面的には。もともと他人の目を気にする人間ではないので、廊下で挨拶をする仲の人間が以前より増えたという位だ。ようやく与えられた部室も散らかっており、新聞部室の方が居心地が良いので、まだ時折掃除に行く程度である。これからの活動についてはゆっくり進めて行くつもりだった。

 そんな週の土曜日、半ドン上がりの午後。新聞部にこれまで綾瀬と静流に関わった友人が一同に会した。転校当初からとりあえずの目標であったクラブが発足したのを記念してパーティーをすることになったのだ。

 世話になった人達にお礼をしなきゃ、と綾瀬が思い着いたのだが、例によって、段取りの上手い静流が指揮を取り、フットワークの軽い双葉や生徒会長が買い出しに行ってしまった。軽食やお茶菓子は畔が用意した。なんだか趣旨とズレている気もしたがもはや一種の様式美のようにも感じられたので綾瀬は黙って双葉にくっついて買い物を手伝った。

 時間になると多くの人が集まった。双葉と楓、歩睦、遥、生徒会長、新聞部長。床の上に敷かれたシートに座り思い思いに始まるのを待っている。

「そういえばちょっと前もこんな事したよね」綾瀬は隣に座った双葉に言った。

「ええ、あの時は畔さんが突然来てビックリしたわ。彼女、お菓子作りだけじゃなくて料理も上手いわね。とても丁寧だわ」

 バスケットから取ったBLTサンドを口にして双葉は頷いた。双葉も料理をする身だからか色々と特徴を調べている。味わうというより分析に近かった。

「あれだね、姉妹で私に無い部分は全部あっちに行ったとかそういう感じだよね」

「……そう、ね」

「嘘でもいいから否定して欲しかった。まあいいや、それでさ改めて言うんだけど、今までありがとうね」

「な、なに急に」

「いや常々思ってたんだけど、私って本当に双葉におんぶに抱っこじゃない」

「いいのよ、そんな。その、あなたは私が尊敬する音楽家だし、それに今は大切な友達だし、縁があったというか」

「これ、お礼」

 綾瀬は双葉にイヤホンを渡して耳に付けるように促した。手元のオーディオプレイヤーを操作して、前日にPCで作ったフォルダを選んで最初から再生する。

「この曲ってこないだの」双葉がすぐに気づいた。

「そう、こないだの演奏会、実は録音したんだよね。それでかなり良い演奏ができたから、プレゼントしようと思って。こっちがCDね」

「ほ、ほんとにいいの?」

「もちろん。双葉に渡すために作ったんだから。世界に一枚しかないよ」

 演奏会を録音してプレゼントするのは畔のアイディアだった。綾瀬としては毎回音楽ネタが続いては新鮮味に欠けると思った。しかし、そんなことはない、彼女が一番喜ぶのはそれだと畔が力説した。自分が風邪を引いた日を境に、畔は妙に双葉を気にかけるようになった。それは悪いことではないのだが、どうもその力の入れようが楓に似ているような気がしている。いわゆるお節介というやつだ。

 だが楓もそうだが、そのアドバイスは効果抜群だった。こっちが見ていて恥ずかしくなるくらい双葉はCDを手にして目をキラキラさせている。喜んでくれるのが一番なのだから問題ないはずなのだが、双葉が楓に抱く複雑な気持ちがようやくわかった。

「す、凄い。やった! ありがとう、私、あの時も凄く感動して、ほんとありがとう」

 もう日本語になっていなかった。

「おいおい、もうプレゼント交換とかしてるのかよ。そういうのってクライマックスにするだろ。まだ始まってもいないのに」楓があきれるように言った。

 そろそろ始めましょうか、頃合いを見て静流が教壇に立ち音頭を取った。畔が各自に配った紅茶の紙コップを手に次の言葉を持つ。静流はそこに集まったすべての人の顔を一人一人見てから言った。

「私と綾瀬がここに二カ月弱が経ちました。ここは私達がこれまで経験する事のなかった素晴らしさに満ち溢れています。それは全てあなた達のおかげです。あえて一人一人を挙げる事はしませんが、あなた達が支えてくれたから私達はここにいられる。誰一人欠けても、いまこの瞬間は生まれなかった。まだ何も始まっていませんが、クラブの正式な発足を一つの区切りとしてささやかながらお祝いと、何よりも感謝の会をこうして設けました。みんなありがとう。乾杯」

 乾杯、と唱和して一斉にコップを掲げる。ついでそれぞれの両隣の人と突き合わせて会が始まった。教壇から戻ってきた静流が綾瀬の隣に腰を下ろすと、その反対側から歩睦がコップを手渡した。

「ありがとう、歩睦」

「静流さん、今日は本音でしたね」綾瀬が言った。

「あら、私は嘘をついたりしないわ」

「感情が出てたって事です。わかってる癖に」

 静流は何も言わずに笑って、綾瀬に向かってコップを突き出した。それにちょこん、と自分のをくっつけて乾杯をする。本当に良い日だった。静流の向こうで歩睦が話したそうにしていたので静流を返してあげた。自分も双葉と話そうと振り向くと、彼女はまだCDを見つめていた。いや長いよ! とさすがにツッコミそうになる。

「双葉、それは後でね」

「そ、そうね。綾瀬さん、おめでとう」

「ありがとう。といっても私、大して何もしてないけど」

「そんなことないわ。綾瀬さんの演奏が凄かったからあんなに話題になったのよ。今度はいつやるのかって、生徒会に質問が来るくらい。あの時の演奏が本気なの?」

「本気かどうかはあんまり関係ないかな。私、少し変わったみたい。上手く言えないんだけど、双葉のお陰なのは間違いないよ」

「私がっ? なんで私があの演奏と関係あるのっ?」

「双葉がいつも心配してくれるから。結局、それが嬉しくて、もっとみんなと音楽を楽しもう、そう思っただけなんだよ、たぶん」

 双葉が今まで見たなかでも一番、あわあわしていた。顔が緩みきっていて、そのだらしない顔がなんだか少し可愛く思えた。きっと双葉は本来こういう女の子なのだろう。普段の彼女はみんなの為に頑張った結果なのだ。それが偽物という事はない。どちらも本当の彼女だ。

 綾瀬律がただの音楽を追求するだけでなく、綾瀬律としていられるように双葉はしてくれた。それなら私は双葉から本来の彼女を引き出せるようにしてあげたい。綾瀬は強くそう思った。それは人のためとや親切心とは全く異なる。綾瀬自身がそんな双葉を見ていたいのだ。

「だから双葉も私にして欲しい事が会ったらなんでも言ってよね」

「なんでもって、そんな」

「ううん、たぶん双葉なら無茶な事言わないから」

「じゃあ……たい」

「え?」

「指、触りたい」

 おっと、と綾瀬に衝撃が走った。そして自分の感情に驚く。ひょっとして自分は物心ついてから初めて焦っているのではないか、と。今まで焦った事がないからわからなかった。自分はのんびりしているというよりも馬鹿みたいに冷静なのだ。演奏が得意なのもこの冷静さが元になっている。ギターに触れてから五、六年。如月は初めて己の強みを明確に自覚した。

 しかしそんな大発見も今はどうでも良い。それよりも双葉の希望にどう答えるかだった。別に指を触られるくらい何でもない、はずだ。しかしどうしてかスペインで静流に勧誘された時以上に高いハードルに感じられた。

「やっぱり駄目よね。商売道具だもの」

「い、いやそういう問題じゃなくて。その、恥ずかしいなって」

 うわぁ、とさらにパニクる。自分の発言に自分で赤くなった。今のはどう考えても綾瀬律のものではない。双葉が事あるごとにわちゃわちゃしているのを綾瀬は不思議に思っていたが、みんなが自分と同じメンタルでいると勘違いしていた。確かにこんな気持ちになったら上手く話せないに違いない。見ると、双葉も顔を赤くしていた。

「そうよね、私、なに言ってるんだろ。ごめんなさい、忘れて」

「い、いいよ」

 意を決して、綾瀬は手を双葉に差し出した。自分の意志に反して指先が震えるのが面白い。双葉は手をじっと見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。嚥下する喉が妙に艶かしい。

 双葉はそっと指に触れてきた。にもかかわらずその刺激は電撃のように強烈で綾瀬は肩まで震わせた。くすぐったいような、揉み込まれるような双葉の触り方に思わず声がもれそうになる。

「やわらかい。もっと硬いのかと思った」

「ある程度になるとタコとかできなくなるから……」

 気を紛らわせようと豆知識を披露するが双葉は全然聞いていなかった。まるで何かの研究者のような熱心さで指先から手の平まで確かめている。

「二葉さん、はあはあしすぎです」とうとう綾瀬はギブアップした。

「あ、ご、ごめんなさい!」

「ていうか何やってんだ、お前ら」

 双葉が我に返って手を引っ込めるとようやく変な雰囲気が去った。そして周囲の状況が見えるようになる。全員がこちらに注目していた。隣で双葉が大変な事になっているが、自分はもういつも通りに戻っていた。さっきまでの熱に浮かされたような感覚は既にない。ただ双葉を見て、今の行為を思い出すと胸の奥にぽつりと小さな火が灯ったように暖かさが生まれた。

「綾瀬さん」

 楓達に一通りからかわれて解放された双葉が先程と同じ目になって名前を呼んだ。綾瀬はそこに前途多難さを感じ取った。こういう時の双葉は何を言ってきてもおかしくない。そして、自分はそれを断れないだろう。なぜなら、それを叶える事こそが今の自分の望みなのだから。ただ今回は想像よりノーマルな頼みだった。

「今度、またどこかに遊びに行きましょう」

「もちろん。これから暑くなるから海とか行こうよ」

「どっか行くのか。なら私も混ぜろよ。ていうかこないだできなかったから、今度泊まりで遊ぼうぜ」

 楽しそうな話を嗅ぎつけて楓が話に乱入する。例によって勝手に計画を決めて、勝手に仲間を集うのでどんどん話が大きくなって行った。双葉、楓、静流、歩睦、畔。どうせならという事で遥や揖斐にも声がかけられた。幸い新開家には親もおらず、雑魚寝で良ければスペースは十分にある。

 さっきまであった二人だけの、親密で熱っぽい空気は完全に消え、いつもの日常が戻っていた。しかし、その日常もつい先月手に入れたばかりのものだ。楽しまなくては勿体ない。ふと双葉と目が合って同じことを考えていたとすぐにわかった。どんどん膨らんでいく来週末の予定に自分の希望を入れるべく、二人も輪に加わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ