第4章「風邪」3
綾瀬畔はその日、二度目の列車に揺られていた。私物を取りに実家に帰った彼女は両親への報告も兼ねてそのまま一泊し、朝一で帰る予定だった。しかし一人で家に残した姉になんとなくメールすると、風邪を引いたという返信が来た。それで矢も盾も止まらず電車に飛び乗ったのだ。
静流の家と実家はそう遠くない距離にあった。電車だと一時間程度で行き来できる。両親は結構寛容なタイプなので、笑って送り出してくれた。何しろ中学一年の姉をスペインに送るくらいの人達なのだ。
姉に対して過保護なのは畔自身も自覚していた。今まで一人暮らしをしてきた綾瀬にはそんな世話が必要ないことも。それは純粋に妹の望みからくる行動だった。
妹は姉がスペインに行くことになったのは自分がきっかけだと思っている。幼ない頃、妹はよく綾瀬に演奏をせがんだものだった。チューニングが目茶苦茶な楽器でも、音階やテクニックを知らなくても、それでも音楽を作れてしまう才能が姉にはあった。それは掛値なしの魔法だった。 五年前のあの日、学校から帰って夕食までの間、いつものように綾瀬が演奏するのを聞いていると玄関のインターホンが鳴った。陽気なスペイン人が現れたあの日から姉の人生は変わったのだ。
あれだけの才能なのだから、もしかしたらいつかどこかで似たような事が起きたのかもしれない。きっかけなんてどこにでも転がっているものなのだから。けれど、あの時、姉がギターを弾いていたのは自分が頼んだからだった。
私は姉から青春時代を奪ってしまったのかもしれない。そんな思いが妹の胸中にはあった。誰かにそう責められたわけではない。むしろ両親も姉自身も、そう泣きわめく幼い自分を慰めてくれた。
綾瀬が渡欧してから半年後、長期休暇を利用して彼女の所へ遊びに行った畔はそこで決意した。自分がきっかけなのだからできるかぎりサポートしよう、と。姉はあんな性格だから久しぶりの再開も全然寂しそうではなかったけれど、それでも日本料理は恋しかったようだ。母の作る手料理に喜ぶ姿を見て、畔は日本に帰ってから料理の猛勉強を始めた。
菓子作りは元々得意だったが、それにもさらに磨きをかけた。スペインへ遊びに行った時は必ず自分が食事の準備をさせてもらった。綾瀬は畔の気持ちを知ってか知らずか、屈託なく喜んでくれたものだ。
今回、日本に帰ってくる事になって誰よりも喜んだのは、きっと自分なのだろう。畔はそう思っている。どんなに頑張っても、自分には支える事しかできない。妹とはそういう立場だからだ。だから静流には感謝しても感謝しきれなかった。
電車は八時過ぎに駅についた。駅から家までは駆け足だった。玄関ドアの鍵を開けて中に中へ上がると、階段を降りる足音が響く。お姉ちゃん、と声をかけようとして明かりに照らされた顔は綾瀬の友人、双葉だった。虚をつかれていると彼女は言った。
「驚かせてごめんなさい」
「い、いえ、でもどうして双葉さんが?」
「今日はもう一人の友人と泊まらせてもらう予定だったの。でも朝にメールが来て。成り行きで看病、みたいな」
「そうだったんですか。お姉ちゃんは?」
「少し前に寝たところ。もともとそこまで酷いわけではないから明日には良くなると思う」
「ああ、良かった」
畔は安堵の溜息をついた。姉に生活感が全くないのは、実際に無頓着だからだ。具合が悪くても治るまで寝ているとか普通にしかねない。だから急いで帰ってきたというのもあった。
「ごめんなさい。お粥作るのに勝手にキッチン使わせてもらったわ」
「いいえ! いいんです、お姉ちゃんの為にしてくれたんですから」
「まあ、そうなのだけど、あんまりにも整頓されたキッチンだったから。前にみんなで洋菓子をご馳走になったでしょう。あの時から普通じゃないと思ってたのよね、びっくりするくらい美味しかったから」
「そんな、ありがとうございます」
自分に微笑む双葉の振る舞いは友人の妹に対するものとして、このうえないものだった。それは綾瀬から耳にした双葉のイメージとは若干異なっていた。彼女はなんというか、もっとあわあわしているタイプだと畔は思っていた。
「あの、今日はこれからは?」
「畔さんもこうして戻って来たし帰るのが筋なのでしょうけど生憎、愚かな友人に自転車を持っていかれてね、泊めてもらえると助かるわ」
「勿論です。私の部屋に布団敷きますから」
「そう? 別にソファとかでも構わないけど」
「まさか! お姉ちゃんの恩人にそんな事はできません」
「大袈裟だって。でもお言葉には甘えさてもらうわね」
「はい!」
幸い、夕食は実家で早い時間に済ませていた。妹は手早くシャワーと着替えを済ませ、来客用の寝具と寝巻を用意する。その間に双葉は入れ代わりで入浴してもらった。客人が一番最後なのはどうかと思ったが、双葉が譲らなかったのだ。二階に上がったついでに綾瀬の部屋を覗くとよく眠っていた。寝息も規則正しく、苦しそうでもない。双葉の言う通り、明日には回復しているだろう。
脱衣所に双葉が使う寝具を置いて、風呂から上がるのをリビングで待つ。時計を見ると夜の九時だった。普段ならまだ寝るには早いが、畔も実家と往復してさすがに疲れてい。張りつめていたのが一気に緩んだのもあって、布団をかぶったらすぐに寝てしまいそうだ。「畔さん、起きて」
自分の身体がびくんとはねるのを感じる。パジャマを着た双葉が自分を揺すっている。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。今日はもう寝ましょうか、という双葉に従って二人で二階にある畔の部屋に上がった。
パジャマ姿で布団に潜り込み、照明を落とす。さっきまであんなに眠かったのに、目が冴えてしまったようだ。しかし畔には好都合だった。いつも姉と親しくしてくれる双葉と話がしてみたかった。
「双葉さん、少しお話してもいいですか」
「ええ。私はいいけど、大丈夫?」
「実はさっきのでちょっと目が冴えちゃって。あ、双葉さんのせいじゃないですからね」
「じゃあ、少しだけね」
「ありがとうございます。でも不思議ですよね。こうして一緒に寝るなんて」
「ほんとに。あなたのお姉さんといると色々起きて退屈しないわ」
「お姉ちゃんと静流さんの事、色々手伝ってくれているんですよね。よくご飯の時とかに聞かせて貰ってます」
「前から雑用みたいな事やってきたから段取りとかに詳しいだけよ。綾瀬さんはあんまりそういうの興味ないみたいだし」
「お姉ちゃんは無頓着な人ですから」
「……さっきのキッチンの話だけど、申し訳ないって思ったのはあなたが双葉さんを大事に思ってるんだなってわかったからよ。勝手に使ったからだけじゃなくてね」
「キッチンでわかるんですか?」
「別にそういう特技があるとかじゃなくてね、調味料の揃い方とか見てて、相手の好みを考慮してるんだなって」
畔は驚いた。そんな些細な所から性格を見抜いてくる人とはあまり会った事がない。静流がその珍しい人間の一人だが、あの人は雰囲気、立ち居振る舞いから、さもありなんと受け入れられる。しかしこの人はもっと自然体のまま、自分の核心を突いてきた。
「よく言われるんですよ、過保護だって」
「でもわかるわ。あの子、目が離せないもの。私が手伝わなくても自分でなんとかしちゃうんだろうって分かってても」
「双葉さん」
それは畔がこれまでずっと抱いて来た気持ちと同じだった。他人とは思えない思考に双葉をぐっと近くに感じた。
「だから使ってて思ったのよ。私はひょっとしてあなたの役目を取っちゃったかなって」
ああ、そうかと納得した。お姉ちゃんがこの人の話をするのは偶然ではなかったのだな、と。この人はとても気配りができる優しい人だ。だから畔も自分を打ち明けた。
「お姉ちゃんがスペインに言ったのって、私がきっかけなんです。私がせがんで演奏してもらってたら、偶然カピさんていう凄い人が聞いてウチに来たんです。もちろんそんなのは偶然だってわかってます。でもあの日からお姉ちゃんの人生は変わりました。普通に友達と過ごすような時間は無くなったんです」
「うん」双葉がただ頷いて促す。
「だからそんなお姉ちゃんが日本に帰ってくるって聞いて、そのきっかけをくれた静流さんには感謝してるんです。すぐに仲良くなってくれた双葉さんにも」
「そうだったんだ」
「あのお茶会の時、私ちょっと泣きそうだったんですよ。制服を着てみんなと一緒にいるお姉ちゃんを見て。だから恨んだりなんて絶対ないです」
「うん、それなら良かった。今日はたまたまだけどこうしてあなたと話せて嬉しいわ」
「私もです」
こういう人なら姉の友人というだけじゃなくて自分も直接の友達になりたい。妹はそう思った。幸い、彼女がどんな趣味趣向を持っているかは、姉や静流の話から筒抜けだった。そして、その趣味において畔はこの世界で誰よりも詳しいと自負している。なにしろ自分の姉の事なのだから。家族だけが持っているギタリスト綾瀬律のグッズや、知っているエピソードがたくさんある。しかし、畔はまず何よりも伝えておきたい事から話しだした。
「双葉さん。二葉さんの心配はもともと心配無用だったんですよ」
「どういうこと?」
「私のお姉ちゃんは減らないんです」
「減らないって、物じゃないんだから」
「いえいえ。お姉ちゃん、ぼーっとしてる分、それが当たり前みたいににみんなに良くしてくれますから。大切な人が二人になったら、愛情も二倍になるタイプなんですよ」
「そ、そういうものなの?」
「はい、だからこれからは……」
畔は声を潜めてこれからの展望を語った。双葉がそれに興味津々に耳を傾けてくれているのが嬉しい。これまで余り自分の姉について話ができる相手が畔にはいなかった。これからもっと楽しくなりそうだった。




