第1章「帰国」1
第一章 帰国
綾瀬律はギターを弾きつつ、ふと店の奥に目をやった。自分と同じ日本人がいたのだ。
観光立国であるここ、スペインのアンダルシアで日本人を見かける事はよくある。しかしこの店は地元の者が集まる、フラメンコ専門の大衆酒場、タブラオである。珍しいどころではない。ここで演奏するようになって一年が経つが初めての事だった。
しかもその日本人は自分と同じまだ少女と呼べる年頃だった。これが仮に地元の酒場ではなく観光地として有名な遺跡か何かの前だったとしても、一人でいるのは不可解な事だった。他の客も訝しんでいる。
綾瀬律もそれとなく気にしていると当人と目があった。お客に対し知らぬふりをするのは失礼だ。相手の方が若干年上に感じたのもあって軽く会釈する。すると彼女は微笑を浮かべた。なんだか日本人にしかできない感じだな、と綾瀬は思った。日本の事を思い出して懐かしくなるが、彼女はすぐに席を立ちどこかへ行ってしまった。
気にはなったものの綾瀬はギターの演奏に意識を戻した。この店の主な客層は自分の親と同じくらいのオジサン達だ。彼らの陽気な笑い声の伴奏を勤めるのが綾瀬の仕事だ。つまりはの生演奏である。
時折、客のリクエストを受ける事もあった。店内のBGMとしてではなく本気で演奏する。すると場内は静まりかえり、曲が終わった瞬間、喝采の拍手が沸き起こる。綾瀬はこの国の、そんな素直な性格の人達が気に入っていた。十六歳の小娘の演奏でも、それが良ければ讃えてくれる。
休憩時間を迎え、ステージから降りてカウンターに戻る。店のマスターが「お疲れさん」と細長いグラスに入れたフルーツジュースを出してくれた。グレープとライチの酸味、そして冷たい喉越しが火照った身体と頭に心地よい。一息で半分ほど飲んで、カウンターに置くとカランと氷がグラスを叩く音が響いた。グラスに差してあるストローでくるくるとかき混ぜながら先程の事を思い出す。
「マスター、店に日本人がいたよ。しかも私と同じくらいの子」
「ああ、お前に話があるそうだ。裏に通しといたから行ってこい」
綾瀬は一瞬、何を言われたのかわからなかった。姿が見えなくなってそれきりの事だと思っていたら、まさか自分への来客だったとは。中学にあがると同時に単身でスペインに来てまる四年、家族や仕事以外で日本人の来客なんて初めてだった。
「じゃあ、会って来てみますか」
「なんだ知らないヤツなのか。てっきり友達かなんかと思ったぜ」
「どうだろ。暗いからよく見えなかったけど、たぶん知らない人だと思う」
「まあ、お前友達いないもんな」
「うわぁ。それを言っちゃいますか。そもそも日本人の女の子がいないんだよ」
「ふむ。確かにここらじゃあまり見ないな」
「いたとしても大体は旅行だからすぐお別れだしね。おっさんの友達ならいるんだけど」
「俺みたいなか」
「そうそう。でも私抜けて、演奏どうするの?」
「心配するな」
マスターはニヤリと片頬で笑って足元からギターを取り出した。また病気が始まったな、と綾瀬がストローを噛んでいるのを尻目に、マスターはいそいそとストラップを肩にかけワンフレーズだけ弾いてみせた。ひどかった。フラメンコの店をこの人がやっていいのだろうか、と思うほどだ。まあセンスも確かだし、これさえなければ非の打ち所のない親父なのに。
「どうだい? 俺が代わりに演奏する」
「店、潰れちゃうよ」
「潰れるか! ほら、これ持って早く行ってこい」
マスターは先程と同じジュースを今度は二杯、カウンターに置いた。
「二人で飲みな」
「ありがと。遠慮せずいただきます」
綾瀬は両手で受け取り、カウンターの横にあるスタッフ専用のドアに向かった。通りすがったスタッフが綾瀬の手が塞がっているのに気づいてドアを開けてくれる。ドアをくぐる時にマスターを見やると、カウンター席の客にさっきと同じフレーズを披露していた。客は難しい顔で首を横に振っている。あれさえなければ非の打ち所のない親父なのに。
ドアがきいと音を立てて閉まり、喧騒が遠ざかる。応接室に向かって足を踏み出すと廊下が軋んだ。綾瀬にはそれが歴史の声のように聞こえた。マスターの話によると、この店は彼のひいひいひい祖父さんの代からの店らしい。これまでに店にまつわる色々な逸話を聞いている。多少話を盛ってそうだが、大体は本当の話なのだろう。石造りのカベと板張りの廊下はあちこに傷があり、時代を重ねた風格を漂わせている。この街には百年以上の歴史を持つ建物がごろごろあって、しかも人々がそこで当たり前のように暮らしているのだ。
街中にある酒場がそんなに大きな敷地であるはずもなく、十歩あるいて応接室に着いた。古びた木製のドアを前にして、その向こうにいる人間について想像を巡らせる。ひょっとしてファンとかだろうか。しかし自分は日本ではそれほど有名ではない。他には、と考えて止める。考えてるよりも会った方が早い。それよりも何と声をかければいいのか。電話越しではなく、実際に会って日本人と話すのも久しぶりだった。
「あのー、います?」
あれこれ迷って出た言葉はなんとも気の抜けたものだった。
「ええ、どうぞ」
綾瀬は二つのグラスを片手だけに持ち直して真鍮のドアノブを回す。廊下と同じ石造り部屋にいたのは、間違いなくホールで見かけた少女だった。背筋を伸ばして堂々と木椅子に腰かける姿は、まるで彼女が部屋の主であるかのようだ。両手にグラスを持って「あのー」なんて声を上げてる自分と比べるとなおさらだった。
綺麗な人だ、と綾瀬はまず最初に思った。背は女性にしては高く、手足はすらりと伸びている。肌は白磁のようだった。モデルのようなと形容するのをよく耳にするが、こういう人がまさにそれなのだろう。酒場だとわからなかったが、こうやって明かるい所で会うととんでもなかった。先程、周りの視線が彼女に集まっていのは訝しんでいただけではない。みんな見とれていたのだと、今になって気づく。それも不思議ではなかった。
「はじめまして、私は新開静流と言います。ご存知かしら?」
静流が椅子から立ち上がる。その身体に従うように、背中まである漆黒の髪が椅子の背から腰へと渡った。思わず「おお」と声が漏れる。ただの仕種がここまで絵になる人はそうそういない。
「どうかして?」
「いえいえ、どうかしてないです」
「おかしな日本語ね」
「最近使ってなかったもんで。あ、これどうぞ。マスターが二人で飲めって」
綾瀬は静流に近づき、片方のグラスを手渡した。グラスをあおる静流の喉がこくりと動くその艶かしさに、綾瀬は自分も真似してみた。都合よく、壁にかけられた姿見に自分の姿が映っていて一人うなずく。これは自分のカラーじゃない。
「酸っぱい。でも美味しいわ」
「良かった。お口にあったみたいで」
「どうして?」
「普段はもっと高いものを飲んでそうだなって思って。紅茶とか」
「そんな事ないわ。仕事中にアクリエアス、よく飲むもの」
この人ちょっと面白いな、と綾瀬は思った。
グラスを半分ほど空けたところで静流がおもむろに切り出した。
「綾瀬さんは私の事を知っている?」
「新開静流さん……ちょっとわからないです」
「そう。私は静流です」
綾瀬はあっけにとられた。「私はギタリストです」と対抗するか逡巡しているうちに、静流はスカートのポケットから名刺を抜いて差し出した。
名刺には『新開トレード代表、新開静流』と印字してあった。新開トレードは日本では有名な投資会社だ。といっても顧客もいなければスタッフも多くない。静流は十五歳の時に起きた株式市場の世界的大暴落で空売りを仕掛け成功した。新開トレードはその際に税金対策として法人化しただけだった。静流はそれ以降も右肩上がりで資金を増やし続け、ある時センセーショナルに世間に紹介された。日本で彼女を知らない人はいないだろう。
綾瀬はようやく思い出した。スペインという異国の地で、生活費を自分で稼ぐ綾瀬が世相に疎いのは仕方のないことだった。とはいえ、静流の話題はこちらでも何度か見聞きしていた。
「思い出した。テレビで見たことがあります」
「今日は貴方を勧誘に来ました」
「そんなにお金持ってませんよ。というか今月もカツカツで」
「もちろん投資の話ではありません。プライベートです。私と一緒に高校生をしましょう」
「はい?」
「昨夜、貴方がテレビでインタビューを受けていたのを偶然見ました。インタビュアーの質問は、君にとって天才とは何か? それに貴方はこう答えた。関係が無いこと、と」
綾瀬は何も言わなかった。静流の真意を測りかねたからだ。綾瀬は普段マスコミ向けにはおおらかなキャラクターで通している。それは自分の性格に反するものではないが、演技の部分もあった。あの時のインタビュアーはそういった演技を超えて迫ってきたのだ。熟練のトークに素の表情が出てしまった。番組が終わった後、しくじったなと綾瀬は思った。しかし別に心配もしていなかった。しくじったのはその質問だけで他はいつも通りだったし、何よりそんな微妙な変化など視聴者は気にしないと考えていたからだ。しかし現実は違った。静流は綾瀬のもとへやって来た。
「綾瀬さんはこちらに来て何年?」
「十二で来たんで五年目ですね」
綾瀬は十七歳にしてプロのギタリストである。日本ではそれほど有名ではないものの、スペインを中心にヨーロッパではそこそこ名が知れている。何枚かCDも発売されている。
綾瀬がまだ日本で一介の小学生だったある日、たまたま倉庫で見つけたギターを居間で弾いているとインターホンが鳴った。玄関を開けるとそこには見知らぬ白人が立っていた。カピ・ベルメホと名乗ったその男はフラメンコギターの分野で神と称せられる人物だった。彼の趣味は散歩である。日本公演の際にたまたまぶらついていた住宅街で耳にした綾瀬の演奏に惚れ込んだのだった。
「ファンタスティコ! ワタシ、アナタニギター、オシエタイヨ」
カピは玄関でそう吠えた。普通なら警察に来てもらってお終いだ。しかし綾瀬は綾瀬で既に面白い人間だったので「オーケー、オーケー」とスペイン人に英語で快諾した。両親まず彼が本当に世界的なギタリストなのかを調べた。知りあいのつてを辿って紹介してもらった音大の教授から「これはとてつもないことです。行くべきです」とアドバイスをもらい、サポートの約束を取り付けた上で綾瀬の渡欧が決まった。一週間後に控えていた中学の入学式には当然出られなかった。
それから四年の月日が流れ、カピの目に狂いはなく、彼の指導を受けた綾瀬はヨーロッパで注目されるアーティストに成長した。ギターの腕前とは別にどんな場面でも物怖じしない彼女の受け答えは好評を博し、スペインのテレビ番組にも度々招待されたりもしている。一言で言えば彼女は天才だった。そんな綾瀬が町の飲み屋で演奏して日銭を稼いでいるのは、気安い雰囲気が好みという趣味から来る道楽に過ぎない。
「あの番組で見せた表情、貴方は自分の将来を見通してしまっている」
「よくわかりましたね」
「ええ。私も同じだから。一人は飽きました」
「ああ、なるほど」
二人で笑う。秘密めいた符丁のようだった。
天才の孤独という言葉がある。綾瀬は自分は天才だと自惚れるつもりなどないが、孤独を感じる事はあった。なんだか深い悩みようにも聞こえるがそういう訳でもない。ただただ単純に、心を割って話せる友達がいないのだ。静流もそうなのだろう。
「綾瀬さんも感じた事があるはずよ。胸の内の空虚を。考えた事があるはず。普通に暮らしている自分を」
綾瀬は答えなかった。それが肯定のサインだった。自分は恵まれた境遇にある。それは間違いない。最高の環境で最高の技術を持つ教師に教わっている。成功し周囲に認められつつある。だが、そんな自分は想像してはいけないのだろうか。例えば、あの時カピの申し出を辞退し、日本で暮らし続け、友人に囲まれながら高校生になった自分を。
「ここに日本行きの航空チケットが二枚あります」
静流はまたポケットから取り出して言った。
「用意が良いですね」
「何事も段取りです」
「しかもファーストクラスですか」
「自家用ジャンボジェットが良かった? 希望なら用意するけど」
「まさか。逆です。私、ビジネスしか乗った事がなくて。列車なら一度ありますけど」
「安心して。これは進呈します。向こうで住む家もこちらで手配します。もし貴方がこれを取れば、一週間後、私達は高校生になる事ができる。取らなければ」
「なければ?」
「貴方はこれからもここでギターを弾き、私は自宅のPCでローソク足を眺めているでしょう。自分のやるべき仕事をこなした私達は益々有名になり、テレビや雑誌の取材も増えていく。私たちはお互いの記事を見かけるようになって、その度に『あの時、日本に行っていたらどうなっていたんだろう』って今日の事を思い返すのよ」
「うわ、またえげつない勧誘方法ですね」
「ごめんなさい。でもね、少なくとも私はそうなるわ」
「五分待ってもらえますか」
静流の表情が少しこわばるのを見てつけ足す。
「大丈夫。カピに、師匠に電話するだけです。静流さん、私はこう言う話が来たら乗ることにしているんです」
綾瀬はバッグから携帯電話を取り出し、リダイヤルからカピを探した。根っからのアナログ人間である彼に携帯電話を持たせたのは彼女だった。それもごく最近の事だ。悪い事をしたな、と思う。けれど自分だって四年前、せっかく購入した学校指定のセーラー服には袖を通さず終いにだった。これでおあいこだ。
数コール鳴って、いつもの陽気な声が届く。綾瀬は伝えた。
「カピ? わたし、ちょっと日本で女子高生やってくるね」