暗号みたい
「しーちゃん。熱も下がったことだし明日は学校に行きなさいね」
ママの言葉にあたしは無言で箸をテーブルに置き、夕飯もそこそこに自室へと戻った。
ベッドにぼすんと沈んで意味もなくゴロゴロと転がってみる。明日のことを考えると、治ったはずの胃のあたりが痛みだして憂鬱だった。
(情けない姿を見せちゃったからなぁ。学校に行きにくい……)
マーライオンと化したあの後、帰宅してから熱を出して本格的に寝込んだあたしは風邪と診断されて、月曜日と今朝の登校は免れた。だけどすっかり体調も元に戻ってしまって、さすがにこれ以上の休みを重ねるのは無理だろう。
(おまけにハスキーボイスからもきっと根にもたれてるだろうからなあ。明日は覚悟しなきゃ……)
はああああ、と盛大なため息をついた時、コン、と何かが当たった音がした。
ん、何だろう?
音がした先の窓辺に目をやると、もう一度コン、と鳴った。窓に小石がぶつかる音だった。
誰だ投石しやがるやつは。
一瞬、大声をあげようかと迷った。だがまずは正体を確かめるべきだと判断して、そっと窓辺に歩み寄った。
カーテンの隙間から外を見下ろすと、暗闇の中、門のところに人影がある。こちらに気づいて軽く手を振った影の主は、ヒガシだった。
「こんな時間に何しに来たんだろ」
あたしは慌ててパジャマの上から薄手のパーカーを羽織り、抜き足差し足で階段を忍び下りた。玄関を開けたとたん、ひぐらしの鳴き声が耳に飛び込んできて、湿った空気が頬を撫でつける。
「よお、案外元気そうじゃないか」
「どうしたの? こそこそせずにチャイム鳴らせばよかったのに」
「オッサン帰って来てる時間帯だろ。面倒は避けたいし元より長居するつもりはないからな」
言ってヒガシは大学ノートをポンと差し出してきた。
「期末が近いだろ。ノート貸してやるから休んだ分、写しておけよ」
「ああ、ありがとう」
礼を述べて受け取ったところで、ヒガシが更に言葉を重ねてきた。
「明日は絶対に来いよな」
「う、うん……」
歯切れの悪さを感じとったのだろう、ヒガシの片眉が上がった。
「休んだら承知しないからな」
「行くよ! 行くけどさ、その、変な噂とかなってやしない?」
「噂?」
「ほら日曜日にみっともない醜態晒しちゃったじゃん。あれ広まって嗤われてないかなって」
それにつけ加えてハスキーボイスの報復がありそう、と苦い顔をしたら、ヒガシはサラサラの髪をかき上げて薄く笑った。
「何のためにICレコーダーを持たせたと思ってるんだよ。その辺は安心しろ。バドミントン部の連中なら、当分は借りてきた猫のように大人しいはずだぞ」
……お、脅したのか。そうだこいつは腹黒野郎だった。
録音チラつかせて迫るのは造作もないことだったろう。恐ろしいやつだ。
「あいつらの行動は最近目に余るものがあったからな。丁度良かったよ。他に聞きたいことは?」
「あとさ、太田さん怒ってなかった?」
太田さんの存在も油断できなかった。あの子の小細工のせいで一度は死にそーになったことすらあるのだ。また恨みを買ってたら非常にめんどくさい。
しかしヒガシはこれも一笑に付した。
「多少うだうだ言ってたから自分で食ってみろって押しつけたら、泣いて謝り出したよ。自分で食えないもんを人に食わせようとするなって話だよな」
もっとも次は頑張る、と不穏なセリフをはいてたようだ。懲りないやつだと思いながらも、あたしは一気に肩の力が抜けた。ふさいでいた心がウソのように晴れていく。
「そっか。ならよかった……ははっ」
「元気でたか?」
「うん! 色々ありがとう!」
力強く答えたところで空腹を覚えた。
ここ2日くらいまともに食べれなかった上に、夕御飯もほとんど手をつけなかったので当然といえば当然だ。
しまった、しっかり食べておくべきだった。
ぺったんこになったお腹をさすりながら後でママに残り物をもらおうと思っていると、
「じゃあ俺は帰るわ。また明日な」
「あ、うん! 明日学校で!」
ヒガシは手をひらひら振って踵を返した。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら、ぼんやりとヒガシはすごいな、と思った。
気を遣ってくれているのがわかるのに、それが変に重くない。あたしもこんなふうにさりげなく人の心を軽くしてあげたりできる人間になりたい。
ああでもね、ヒガシ。
言えなかったけど……あたし……あんたの字は達筆すぎて読めやしないよ……。




