人前でよく使えるな
「眠い……」
あくびを噛み殺しながらあたしは制服に着替え、身支度を整えた。
今日はこれからヒガシとの約束で学校まで差し入れのクッキーを届けることになっているのだ。
普段なら昼過ぎまで寝ているあたしにとっては結構な試練だけど、約束は約束。さすがにすっぽかすわけにはいかない。
寝ボケまなこの目をこすりながら階段をおりてリビングに行くと、ママが昼食の後片付けをしていて、あたしを見るとキッチンカウンター越しに声をかけてきた。
「あらしーちゃん、今日はめずしく自力で起きたと思ってたら、外出?」
「うん。ちょっとヤボ用で学校へ寄ってくる」
「病院じゃなくて?」
「そこにはもう行かないよ。行けるわけないじゃん」
おとといの一連の出来ごとを思い出して、あたしは顔を赤らめた。
病人の西園寺をベッドの端に押しのけて寝こけてしまったせいで、とんだ恥をかいてしまった。あんだけ派手にやらかした手前、もはやあの病院に近寄ることは出来ない。
それに、そろそろ退院する頃だろうから無理して足を運ぶほどでもない。
「ふーん、出かける前にパパに会って行きなさいよ。パパ、朝からそわそわしてたんだから」
「へ、なんで!?」
「父の日でしょ。このところ夜遅くまでお菓子作りしてたのって、パパのためじゃなかったの?」
げっ、忘れてたっ。
あたしは慌ててダイニングテーブルを借りてヒガシに渡す予定だったクッキーを2つに分けて包み直した。ちょっと小さくなってしまったけど仕方ない。
そんなあたしの姿をじっと観察していたママが口を挟んできた。
「もう1つは西園寺くんに渡すの?」
「ちがう。これはヒガシへの誕プレ」
「まあ、しーちゃん二股!? 罪作りな子ね」
「ちげーよ! もう、そんなんじゃないってば!」
うっとおしいママの詮索から逃れるようにパパの書斎を訪ねて、パパにクッキーのおすそわけをしてちょっと雑談を交わしてから、あたしはそそくさと家を出た。
ママってばほんとうに下世話なんだから嫌になる。
でも、よいこともあった。なんとパパから臨時のおこづかいを貰えたのだ。同時に口止めもされたけれど。
(十二使徒だった過去って、そんなに触れられたくないのだろうか?)
これがいわゆる黒歴史ってやつかなと思いながら、あたしはてくてくと学校へ向かう。
見上げた空は雲が多く、けれどすぐに天気がくずれる様子はなく、強い日差しを遮ってかえって出歩くにはちょうどよかった。
いくつもある坂道をやや辟易しつつ登ると、学校へ続く引き込みのコンクリート舗装の脇道が現れる。その細くて長い長い下り坂の先に、あたしの通う緑に囲まれた中学校があった。ちなみにこの坂道、けっこうな急斜面で帰りはかなり地獄だったりする。
校門をくぐって体育館の手前までたどり着いたところで、ボールの弾む音と、キュッ、キュッ、とバッシュが床を噛む音が聞こえてきた。
どうやら少し出遅れたようだ。
開いてる体育館のドアからそっと中に入ると、やはり試合が始まっていて、1クォーターの終わりがけのところだった。
そしてあたしが着いて早々に、ヒガシがデフェンスをかわしてダブルクラッチを見事決めた。
(おおおお、うめぇ!)
いつの間にこんなに上達したんだろうな。
巧みな動きに思わず見惚れたが、体育館内をつんざくような黄色い声ですぐさま我に返った。
「キャーッ、東君ステキーッッ!!!」
(うわっ、なんだこれ)
とっさに声の出所を探すと――いた。前にあたしがあげた魔法少女のハンドバッグを腕に引っかけた太田さんが、恍惚とした顔で力の限り叫んでいる。もちろんその大胆な行動に、ギャラリーにいる人達――保護者や生徒がちらほらといた――の視線は釘付けだった。
は、恥ずい! 見てるこっち側のがいたたまれない!
これはたまらんとコートのほうに視線を戻すと、今度は相手側の選手がインサイドからのボールを受け取って、ひょいっと同点ゴールを決めたところだった。
おおお、どちらもレベル高いな!
「いやあああああ、やめてえええええ!」
またしても耳をつんざくような悲鳴があがって、ドン引きしながらヒガシのほうを見ると、ちょうど目があった。途端、ヒガシの唇が動く。
“連れて行け”
わかった。空気がよめない太田さんに、ちょっとお灸をすえてきてやるよ。
それにしても周囲の白眼視にもめげずにようやるよ。この子は鋼鉄の精神の持ち主だな。
「太田さん、ちょっと」
近寄ってヒソヒソと声をかけると、太田さんはチラリとあたしを一瞥しただけで、また応援に熱中しだした。
むかっ。この女、スルーしやがったな。
あたしは太田さんの腕を引っ張って、問答無用で体育館の外にまで連れていく。
「痛いわよ、離して!」
無視無視。さっきのお返しだ。
そのまますのこが敷き詰められた渡り廊下を歩いて、校舎の中に入ったところで太田さんを解放した。
いいところで水を差された形の太田さんは、そりゃあもうえらい剣幕でキレてきた。
「何するのよ! 東君の勇志をしかと目に焼きつけてたところだったのにっ!」
「それなんだけどさ、ちょっと落ち着きなよ。はしゃぎ過ぎて悪目立ちしてたよ。太田さんを睨んでいる人もいたし」
「いいのよ。日陰で暗躍する時代は終わったの。私はこれからどうどうと白昼で愛を叫ぶわ! ――それはそうと鈴木さん」
太田さんの大きな目が、するどくあたしの手提げカバンをとらえる。ちなみにあたしのカバンは無難なコンビカラートートだ。
「それ、東君への差し入れが入ってるでしょ?」
「えっ」
ズバリ指摘されて思わず身体を固くした。
そしたら太田さんはフンと鼻を鳴らして、「ここ数日東君の尾行をしてたから、すべてお見通しよ」と告げてきた。
うわ、ストーカー宣言きたよ……。
「ねぇ、そういう趣味の悪いことをするのはやめなよ。ますます嫌われちゃうよ」
「うるさいわよ。鈴木さんこそ東君と影でこそこそイチャイチャしていいご身分ね。西園寺君はどうしたのよ。この浮気者!」
「ちがうってば! イチャイチャなんてしてない!」
慌てて否定したが太田さんはこっちの話をまったく聞いちゃくれない。それどころか悪鬼のごとき形相でまくしたててきた。
「言い訳は無用よ。私だって対抗してお菓子を作ってきたんだから、鈴木さんなんかに負けないわよ!」
「えええっ!?」
それはちょっとヤバイんじゃないか?
以前ヒガシの家で太田さんが作ったトンデモ雑炊を思い出して、あたしは青ざめた。あれが短期間で改善されてるとは到底思えない。あたしなんか目じゃないくらい壊滅的だったもん。
「悪いこと言わないからそれだけはよしな。太田さんて料理の才能ないじゃん」
言って太田さんのハンドバッグに手を伸ばしたら、マミさんに触れる前にバシッと跳ね除けられた。痛い。
「失礼ね、今度こそ美味しくできたはずよ! だって愛がたくさん詰まってるんですもの!」
もうっ、どうしてわかってくれないんだろ。あんたの手料理は毒物なんだよ……。




