ちいさな少年の淡い恋
それは幼い少年の、ほんの少しの冒険心から起きた出来事。
ある晴れた日の昼下がり。
幼い少年は母親の言いつけを破り、自宅のすぐそばにある横断歩道をひとりで渡ってしまいます。
向かう先は、少年の母親がときどき遊びに連れて行ってくれる小さな公園。
どうしてもすべり台で遊びたくなったのでした。
車に気をつけながら無事に公園にたどりつくと、大泣きしているひとりの少女がいました。
少年が少女に近寄ってどこから来たのかたずねるも、少女はポロポロと大粒の涙をこぼしながら首を振るばかり。
自分と同じ年頃の幼い少女は、どうやらまだ上手くしゃべることができない様子でした。
どうしたらいいのだろう。
しばらくのあいだ途方に暮れていると、少女の母親らしき人物が血相を変えてこちらへ走りよって来ました。
「しーちゃん、勝手に家を出ていっちゃダメでしょ!」
「ふえっ、ままー!」
少女が無事に母親と再会をはたし、ほっと胸を撫で下ろした少年が立ち去ろうとすると、少女の母親が慌てて引き止めてきました。
「この子を見ていてくれてありがとう。あなたはどこのお宅の子なの?」
少年が自宅を教えると、少女の家からとても近いことが判明しました。
ですが、このような少女を今まで一度も見かけたことがありません。
不思議に感じた少年がそのことを指摘すると、少女の母親はとたんに悲しそうな顔になって言いました。
「この子は生まれつき心臓が悪くてほとんど家から出ることができないの。だからいつもひとりだし、言葉も遅れていて……」
「それなら、ぼくが友達になってあそんであげるよ!」
◆
それから少年は夕方になって幼稚園から戻ると、そのまま少女の家へ向かう日々がはじまりました。
少年の母親は当初、少年が少女の家に入り浸ることにいい顔をしませんでしたが、少女が手術を控えていて3週間後にこの街から引っ越してしまうことを知ると、粗相をしないことを条件に通うことを許してくれました。
少年と少女はすぐさま打ち解けてとても仲良くなりました。
「ほら、“トモくん”って言ってごらん」
「うー」
「がんばって」
「とみょ…くん……」
「言えるじゃないか。次はね…」
少年は根気よく少女に言葉を教えていきました。
最初は泣いて無理だと首をふっていた少女も少しずつ言葉を覚えていき、2週間を過ぎた頃には簡単な会話ができるほどまで上達しました。
「ともくん! あそんでー!」
「いいよ。しぃはかわいいなあ」
しぃと呼ばれた少女は、とても無邪気で愛らしい容姿をしていました。
それはもう、思わずキスしたくなるほどに。
少年は隙あらば少女のすべすべした頬をちゅーちゅー吸うようになり、少女にギャン泣きされるのが日課になりかけた頃。
約束である3週間目を迎えました。
◆
少女はこれから遠くの大きな病院に入院し、心臓の穴を塞ぐ手術をするそうです。
手術が終わったらすぐに戻って来れるというわけではないようで、2人の落ち込みは相当でした。
とくに少女は少年と離れ離れになることを泣きじゃくって嫌がりました。
「やあだああああ! ここいるうー!」
「しょうがないでしょ。今のうちに治しとかないと小学校にも通えなくなっちゃうわよ……」
少女の母親の言葉を聞いた時。
少年は自分の気持ちを抑えて、少女を説得する側に回ることに決めました。
「しぃ、行ってくるんだ」
「やあ。やだよお……」
「ぼくだって会えなくなるのはイヤだよ。でもそれ以上にしぃが元気になって走りまわる姿が見たいよ。しぃだって外で遊びたいでしょ?」
「…………」
「ちょっとの間ガマンしてさ、来年になったら一緒に小学校に通おう?」
「…………うん」
少女がしぶしぶ納得したところで、少年はいったん自分の家に帰りました。
急いで本棚から本を数冊とりだして、少女の元へ駆け戻ります。
「お別れにこれをあげるよ」
「???」
「これはマンガって言うんだ。しぃはおとぎ話にはあまり興味がないみたいだから、マンガを読んで言葉を覚えるといいよ」
「うん!」
「続きも60冊ほど出てるから、気に入ったらねだって買ってもらうといい」
「うん!」
少女は大事そうに本を抱きかかえると、少年に感謝のキスをして(いつも嫌がっていた少女がキスしてくれたことに少年はとても喜びました)、名残惜しそうに街から去っていきました。
◆
そして月日は流れ、春。
小学校の入学式を向かえ、真新しいランドセルを背負った少年は、必死に件の少女の姿を探していました。
少女の母親は、入学式には間に合うと言ってました。
しかし、学校内をどれだけ探しても少女は見当たりません。
もしかして手術に失敗したのかもしれない、と心配でたまらなくなった時。
見知らぬ男の子から声をかけられました。
「よお、久しぶり!」
「誰?」
「俺! 俺だよ! おれおれ!」
「わかんないよ」
「あんたに世話になった、しぃだよ」
「はあああああッ!?」
少年は腰をぬかさんばかりに驚きました。
だって目の前の男の子――いいえ、女の子でしたが、件の少女とは別人みたいに様変わりしていました。
背はぐんと伸びて自分を追い越していますし、身なりやまとう雰囲気がぜんぜん違うのです。
そしてなにより、その乱暴な言葉づかい。
「しぃは、ほとんどしゃべれなかったはずだ……」
「そうなんだよ。俺もさすがにヤバイと思ってさ、ともくんがくれた少年マンガとテレビアニメを見ながら必死こいて勉強したんだ。どう、めっちゃ上手くなっただろ? ついでに海賊王を目指して特訓もしてるんだ!」
どうやら少女は言語習得の過程で、少年マンガに多大な影響を受けてしまったようでした。
短くなった頭をポリポリ掻いてガハガハ笑う少女を見て、少年は奈落の底に突き落とされた気分に陥りました。
(ああ、あんな本なんて渡さなければよかった……)
こうして無垢な天使は泡のように消え失せ、1人の野生児が誕生したのでありました。
この直後に少年が「おまえなんか、しぃじゃない!」などと暴言を吐きます。
そして怒った少女ととっくみあいのケンカになった結果、少女が主導権を握る形で落ち着きます。