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邂逅

 

 朝の冷たい風が、セロ村の小道をさらさらと撫でていく。イディスは、まだ眠そうに目をこすりながら、木の扉をキィと開けた。吐く息が白く、空には淡い青が広がっている。石畳の路地は霜でうっすら白く濡れ、歩く音さえ吸い込まれるように静かだった。


「おはよう、イディス!」

 隣の家からラウラが飛び出してきた。毛糸の帽子を深くかぶり、マフラーの端を引き

 ずりながら駆け寄ってくる彼女に、イディスは小さく笑って手を振った。


「おはよう、ラウラ」

 声は小さいけれど、それでも確かに届いた。


「ね、昨日の続きしよっか? ほら、“魔法使いごっこ”!」


「うん。今日は僕がドラゴンね」


 ふたりは村の端にある広場へと向かった。そこは、藁や木屑が転がる小さな空き地。丸太や木箱が積まれ、子どもたちの秘密基地のような場所だった。

 イディスは大きめの枝を拾い、角のついたヘルメットのような何かを頭にかぶる。ラウラは赤い布をマントのように羽織り、手を広げた。


「よし、ドラゴン退治に出発よ!」


「がぉー」

 枝を振るうイディスと笑いながら駆け回るラウラ。その声は、冬の空気に弾けて響いた。木の箱を山に見立てたり、木くずを魔法の粉に見立てたり。ルールも目的もないけれど、それはそれで完璧な遊びだった。


 日が少し高くなった頃、ラウラがふと呟いた。

「ねぇ、午後さ……ちょっと森の近くまで行ってみない?」


「森って……バランの?」


 イディスの足が止まる。ラウラはいたずらっぽく笑って肩をすくめた。


「ちょっとだけよ。すぐ戻ってくるって。さっき、小鳥が変な方向に飛んでいったんだもん。なんか、呼ばれてるみたいな感じ?」


 イディスは迷った。でも、ラウラの目はきらきらしていた。

「……うん、じゃあ、ちょっとだけ」






 その頃。村のはずれ、深い森の奥——

 濃い霧が、枝の間から滲むように立ちこめていた。木々は音もなく揺れ、空気はぬめるように重い。森そのものが生きているかのようだった。


 その中心に、ひとりの男が立っていた。


 アルノルト=ヴァイス。

 灰色のマントを身に纏い、背に大剣を背負った放浪の剣士。かつてこの国の戦乱を静めた英雄。今は名を隠し、どの国にも属さぬ旅人。


「……出てこい」


 低くつぶやいた声に呼応するように、木々の隙間から黒い影がいくつも現れる。牙と爪、濁った目、腐敗した皮膚。それは魔素に濁された“呪性の魔物”——森の深部に巣くう異形の群れ。


 その気配に、男は眉ひとつ動かさず剣を抜いた。

 ——空気が鳴る。

 剣が振るわれた瞬間、世界の温度が変わった。

 風が裂け、霧が吹き飛ぶ。地を蹴る音すらなく、魔物たちの身体が宙を舞い、無音のまま崩れ落ちた。


「……まだ浅い。気配が濃くなるのは、これからか」


 そう呟いて目を細める。その視線の先、森の入り口方向から——かすかな、けれど確かな魔素の流れが届いた。


「……子ども?」

 彼はほんのわずかに眉をひそめ、すぐに森の影へと溶けた。






 イディスとラウラは、森の入り口で足を止めた。

 バランの森——村人たちが足を踏み入れない、危険な地域。

 巨木たちが天を覆い、陽光はわずかに木漏れ日となって地面を斑に染めている。空気は濃密で、まるで別世界の扉を開いたかのようだった。


「……本当に、入るの?」

 イディスの声が小さく震える。


「大丈夫よ。ちょっとだけ」

 ラウラは振り返って微笑んだが、その笑顔にもわずかな緊張が宿っていた。


 一歩、足を踏み入れる。

 森は、彼らを迎え入れた。

 木々の間を縫って歩くうちに、世界は次第に変貌していく。苔むした巨石が道を塞ぎ、蔦が絡みつく古い石柱が朽ちて倒れている。かつてここに何かがあったことを物語る遺跡の欠片が、森の奥へ奥へと続いていた。


「わぁ……」

 ラウラが息を呑む。


 目の前に広がったのは、小さな渓谷だった。清らかな水が岩肌を流れ、水面には虹色の光が踊っている。周囲には見たこともない花々が咲き乱れ、蝶が舞い踊っていた。


「きれい……まるで、お伽話の世界みたい」


 イディスも思わず歩を進める。


 しかし——その美しさの奥に、何かが潜んでいた。

 空気が、重くなった。

 鳥の声が、止んだ。

 風が、死んだ。


 蝶たちが一斉に飛び去り、花々がざわめくように揺れる。森全体が、何かに怯えているかのようだった。


「……ラウラ、なんか変だよ」


 その時——遠く森の奥から、低い唸り声が響いた。

 地を這うような、魂を震わせる咆哮。それは一つではない。いくつもの声が重なり合い、森全体を震わせている。

 木々がざわめき、葉が舞い散る。


 そして——影の中から、それらは現れた。

 最初の一体は、人の背丈ほどもある狼のような魔物だった。しかしその毛皮は腐り、目は血のように赤く濁り、牙からは毒々しい粘液が滴っている。


 二体目は、蜘蛛のような足を持つ異形。人の顔を持ちながら、その表情は歪み切っていた。


 三体目、四体目——次々と姿を現す魔物たち。

 それらはすべて、魔素に汚染された森の住人たちだった。かつては美しい生き物だったであろう彼らが、今は醜悪な化け物と化している。


「うあああああ——!」

 ラウラが悲鳴を上げる。


 魔物たちが一斉に襲いかかった。

 狼型の魔物が跳躍し、蜘蛛型が糸を吐き、他の魔物たちも雄叫びを上げながら迫る。


「ラウラ、逃げて——!」

 イディスが叫んだその時、ラウラが彼を庇うように前に出た。


 ——ガキン!

 狼型魔物の爪が、ラウラの小さな体を打ち飛ばす。彼女は木に激突し、地面に崩れ落ちた。赤いマフラーが宙を舞い、静かに地に落ちる。


「ラウラ……!!」


 イディスの世界が、止まった。

 時間が、凍りついた。

 すべての音が遠のき、視界が白く霞む。

 魔物たちがゆっくりと近づいてくる。死の影が、彼を包み込もうとしていた。


 その時——

 森が、呼吸を止めた。

 空気が凍てつき、魔物たちの動きが止まる。


 そして——天から雷光が落ちた。


 いや、それは雷ではなかった。

 剣だった。


 空間を切り裂きながら降り注ぐ、純白の剣光。

 森全体が光に包まれ、魔物たちの絶叫が木霊する。


 光の中に、一人の男が立っていた。

 アルノルト=ヴァイス。


 灰色のマントを纏い、背に大剣を背負った放浪の剣士。

 その瞳は嵐のように深く、立ち姿は一本の樹のように不動だった。


「……愚かな」

 低く響く声。それだけで、周囲の魔物たちが怯んだ。


 男が一歩踏み出す。

 地面が振動し、空気が唸りを上げる。


 そして——剣が抜かれた。


 世界が、変わった。

 抜刀の瞬間、森全体に衝撃波が走る。木々が軋み、大地が割れ、空気そのものが悲鳴を上げた。

 男の剣は、ただの鉄ではなかった。それは光そのもの、風そのもの、そして——死そのものだった。


 最初の一閃。

 狼型魔物が真っ二つに裂かれ、光の粒子となって消え去る。


 二閃目。

 蜘蛛型魔物とその糸が一瞬で蒸発し、後には何も残らない。


 三閃、四閃、五閃——

 剣が舞うたび、魔物たちが次々と消滅していく。まるで悪夢が朝の光に溶けるように、一切の抵抗を許さぬまま。


 しかし——それで終わりではなかった。

 森の奥から、新たな咆哮が響く。


 今度は違った。桁違いに巨大で、凶悪で、邪悪だった。

 地面が激しく震え、巨木がなぎ倒されていく。

 そして現れたのは——森の主とも呼ぶべき、巨大な魔物だった。

 熊のような体躯に、竜の翼を持つ異形。

 その体長は優に十メートルを超え、口からは業火が漏れ出している。

 魔素の結晶が体表に露出し、触れるものすべてを腐敗させる瘴気を放っていた。


「……来たか、"森喰らい"」

 男が呟く。その表情に、初めて緊張の色が浮かんだ。


 巨大魔物が咆哮する。

 その声だけで、周囲の木々が枯れ果て、大地にひび割れが走る。

 そして——突進した。


 大地が砕け、森が崩壊する。

 まさに天災のような破壊力で、魔物がアルノルトに迫る。


 しかし——男は動かなかった。

 剣を構え、静かに呼吸を整える。


「——"風神剣・天翔"」


 男が技名を呟いた瞬間、世界が静寂に包まれた。


 そして——

 光の嵐が吹き荒れた。

 剣から放たれた光は、竜巻となって巨大魔物を包み込む。

 魔物の咆哮も、大地の振動も、すべてを飲み込んで——

 静寂。


 光が収まった時、そこには何もなかった。

 巨大魔物は跡形もなく消え去り、荒れ果てた森だけが残されていた。

 アルノルトは剣を鞘に収め、倒れているラウラの元へ歩いた。

 膝をつき、脈を確認する。


「……大丈夫だ。気絶しているだけだ」


 イディスがよろめきながら近づく。

 その瞳には、畏怖と感謝、そして——何か新しい光が宿っていた。


「あなたは……一体……」


 アルノルトは立ち上がり、森の奥を見つめた。

 瘴気は晴れ、木々も再び緑を取り戻し始めている。


「……放浪者だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 そう答えながら、男は歩き始めた。


 その背中を見つめながら、イディスは呟いた。


「……僕も、強くなりたい」


 アルノルトの足が止まる。

 振り返らずに、静かに答えた。


「守れなかったことを悔やむなら、その悔しさを忘れるな。それだけで、いつか前に立てるようになる」


 その言葉を残し、男は森の奥へと消えていった。

 まるで最初からそこにいなかったかのように。


 イディスは、意識を取り戻し始めたラウラを支えながら、その場に立ち尽くした。

 森は再び静寂を取り戻し、小鳥たちの囀りが響いている。


 しかし——彼の心の中には、消えることのない炎が宿っていた。

 それは憧れであり、決意であり、そして未来への第一歩だった。


 この日、イディスの人生は大きく変わった。

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