選定の日
教室がざわついていた。
朝の授業が始まる前から、子どもたちはソワソワと落ち着かず、抑えきれない声をひそめ合っていた。
「今日、来るんだよな? 選定官」
「ほんとに、うちの村にも来るんだね」
「誰が推薦されるのかな。やっぱ、リーネかサミルあたり?」
机の間を飛び交うささやきの中心にあるのは、サークレア魔法学院の“推薦制度”。
中等教育へ進む年齢に達した子どもたちの中から、特に才能を持つ者が、首都フェルミオンの学院へ推薦される制度だった。魔法、戦術、錬金、精霊論、あらゆる学問と技術を学べる、まるで夢のような学び舎。王国でも指折りの名門。貴族の子女と肩を並べられる、数少ない「平民の道」でもある。
その日が、今日だった。
イディスは、教室の隅の窓辺で、静かにそのざわめきを聞いていた。
話には加わらなかったが、無関心なわけではなかった。
彼の表情は穏やかで、瞳はどこか夢を見ているようだった。自分でも気づかないうちに、少しだけ期待していたのかもしれない。
ノートの端にペンを走らせながら、時おり周囲の子たちをちらりと視線で追った。
(推薦……か)
頭の奥で、その言葉がふわりと浮かぶ。
そのとき、教室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、銀の髪を後ろで束ねた年配の男性。背筋をまっすぐに伸ばし、鋭い視線を持っていた。
その隣には担任の教師が付き添っている。男の手には、金属の枠に収められた〈魔石測定具〉があった。
「これより、推薦選定を行う」
その一言に、教室の空気が一気に張り詰めた。
名が呼ばれるたびに、ひとり、またひとりと子どもたちが前に出ていく。魔石に手をのせると、青や緑、時には淡い金色の光が、静かにきらめいた。
光の色は、魔力の属性と相性を。光の強さは、潜在的な魔力量を示す。
「サミル・エンフィア」
少年が手を置くと、魔石は力強く蒼く輝いた。場にいた誰もが、ああ、と納得したようにうなずく。
続いて名が呼ばれる。
「リーネ・ノアセル」
少女は、まっすぐな足取りで前に出た。背は小柄だが、立ち姿にはどこか誇りがあった。
彼女が手をかざすと、魔石は深い緑の光を放った。それはまるで、森の奥で眠る精霊が目を覚ましたような、静かで濃密な色合いだった。
「属性:風と木。潜在値、高いですね」
選定官が短く評価を述べると、どよめきが広がった。
リーネは表情を変えず、軽く会釈して席に戻る。その背中に、自然と尊敬の眼差しが注がれた。
――そして、静けさの中で名が告げられる。
「……イディス・ヴァルト」
一瞬、空気が止まったようだった。
イディスは立ち上がり、机の間を縫って静かに前に出た。その歩みはゆっくりで、でも迷いはなかった。
魔石に手をのせる。冷たい石の感触が、掌からじわりと伝わってくる。
けれど――魔石は、光らなかった。
何の反応も示さず、ただ沈黙を守っていた。
「……反応なし、ですね」
選定官の声は淡々としていた。
「時折、稀にこうした例があります」
「でも……魔力が無いわけでは……」
教師が何かを言いかけたが、選定官は静かに首を横に振った。
「測定されない魔力は、制度上“存在しないもの”と見なされます。基準に合わないのです。――推薦対象外、ということで」
それは誰かを責めるような口調ではなかった。ただ事務的で、変えようのない制度を説明するだけの声だった。
イディスは小さくうなずき、何も言わずに席に戻った。その横顔に、落胆や怒りは見えなかった。ただ、すっと色の消えた静けさだけがあった。
誰も彼を責めなかった。
けれど、誰も声をかけなかった。
その沈黙が、拍手の音よりもずっと重たく響いた。
サミルとリーネが推薦候補に選ばれ、教室は再びざわめいた。祝福と賞賛が飛び交う中で、イディスも手を叩き、笑顔をつくった。
――胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっと痛んだけれど。
それを誰にも、見せなかった。
放課後、学校の裏庭。陽が少し傾いて、木々の影が長く伸びる時間。
イディスは木陰のベンチのそばで、小石を蹴っていた。丸くて白い石が、草の中をコロコロと転がっていく。
「推薦、残念だったね」
声をかけてきたのは、隣家に住むラウラだった。栗色の髪を三つ編みにした少女で、いつも少し皮肉っぽい笑みを浮かべている。
「……うん。まあ、もともと関係ないって思ってたし」
「それ、強がりっぽいなあ」
ラウラがベンチに腰を下ろし、イディスを見上げる。
「別に悪いことじゃないよ。私も選ばれなかったし」
「でもラウラは、ちゃんと光ってたよ」
「……薄い色だったけどね。でも、君は……ほんとに、何も出なかったから」
イディスは小さく肩をすくめる。
「きっと、そういう体質なんだと思う」
「“測れないだけ”ってこともあるんじゃない?」
ラウラは、ひょいと草をちぎって風に乗せながら言った。
「そっちのほうが、ちょっとロマンあるよね。隠された力ってやつ。ね、イディスはどんな魔法が好き?」
不意に問われ、イディスは空を見上げた。
夕暮れの光が、雲の端を金色に染めていた。その景色を、しばらく見つめて――
「……空を、飛べたらいいな」
ぽつりと言葉がこぼれた。
ラウラは目を丸くして、それからふっと笑った。
「いいね、それ!」
風が二人の間を吹き抜けていった。
雲は高く、どこまでも静かに流れていく。その遥か向こうに、まだ誰も知らない空がある気がした。
イディスは、もう一度空を見た。その眼差しは、ほんのすこしだけ遠くを見ていた。誰にも測れない、小さな光を胸に隠したまま。