朝の空に残るもの
翌朝、村は嘘のように静かだった。
昨日、空を焦がした黒煙も、炎の名残も、もうどこにもなかった。空は雲一つなく晴れ渡り、鳥のさえずりさえ戻っていた。
でも、それが全部“もと通り”になったわけじゃないことは、空気の底にある焦げた土の匂いと、傾いた家の輪郭が教えてくれていた。
ぼくは、あのあとすぐに家に帰され、布団の中に押し込まれた。母さんは、ぼくの顔を見るなり、泣いた。大きな声では泣かなかった。誰にも聞かれないように、唇を噛んで静かに泣いた。
でも、なぜか、叱られなかった。
ぼくが「何も見ていない」とだけ言ったとき、母さんは一瞬だけ目を見開いたけれど、それ以上は何も聞かなかった。ただ静かに、うなずいた。
――本当に、何も見ていないって言って、よかったのかな。
そんなことを思いながら、朝の道を歩く。学校に向かう途中、村の広場では、朝から人が集まり始めていた。
「あの魔物、倒されてたんだよ。しかも一瞬で」
「ほんとかよ。誰がやったんだ?」
「見た人はいない。でも地面に魔法陣の跡があったって。ほら、あの辺り」
「ってことは、誰かが強力な魔法を使ったんだろ?」
「冒険者だよ。昨日、街道の宿に泊まってたって話、聞いただろ?」
人々は、見てもいない“誰か”を英雄に仕立てていた。それが嘘だとも思っていない。誰かが助けてくれたのは確かで、ならばそれが“誰か”であってほしい。そういうふうに。
「やっぱり、あの人だったんだな」
「魔法陣、すごかったらしいぜ。光ってたって」
「そんなの、普通の人間にできるか?」
話は尾ひれをつけて、だんだん遠くへと膨らんでいく。誰かが見たという“魔法陣”の正体は、誰にも分からない。けれど、何となく納得できる“物語”ができていくと、人はそれ以上を問わなくなる。
ぼくは、その話をただ黙って聞いていた。話のすべてが、変に静かに、心の奥に沈んでいった。
もし、本当に――
あれが、ぼくのせいだったとしたら。もし、あの魔物たちを倒したのが、ぼくの中にある“なにか”だったとしたら。
でも、それを証明するものは何もなかった。
あの陣の意味も、光の軌跡も、ぼくには理解できなかった。それなのに、なぜか、記憶の中に焼きついていた。
光の輪と、重なる記号。
まるで音楽のように、波紋のように、ぼくの頭の中で静かに響いていた。
見たはずがないのに、なぜか思い出せる。
そういう種類の“記憶”だった。
「……違うよね。ぼくなんかじゃ、ないよね」
誰にも聞こえないように、そうつぶやいてみた。昨日、パンを抱えて走っていた自分を思い出して、思わず苦笑する。
――どうして、あんなことになったんだろう。
魔物が来て、村が襲われて、でも気づいたときには全部終わっていた。そしてその“間”に、自分が何をしていたのか――思い出せない。
ぼくの中にだけ残る、奇妙なざわつき。
それは時間が経っても消えなかった。
まるで、見えない風が心の奥で、そっとささやいてくるようだった。
午後になり、村の外れに一人の男が現れた。
黒いローブ、堅い杖、鋭い目。彼は「魔法調査官」だった。
王都直属の魔術機関から派遣される、魔法災害の痕跡を調査する専門家。村が“異常な現象”に遭遇したとき、必ず彼らのような者がやってくる。
「……ここか」
彼は焦げた地面に膝をつき、草の隙間を指先でなぞる。土の表面には、うっすらと魔力の痕が残っていた。光の染み。見えそうで見えない、けれどたしかに存在する回路。
「魔法陣、だな……ただの術式じゃない。構造が異常に深い」
杖をそっとかざすと、微かな魔力が反応した。一瞬、風が揺れ、空の雲が流れる。だが、術式の形式は、彼の知るどんな魔法体系にも属していなかった。
「これは……魔術、か? いや、そうじゃない。もっと古い……というか、“理屈”が違う」
調査官は眉をひそめる。魔法と魔術の中間にあるようで、どちらでもない。まるで、“何か別の知性”によって描かれたような構造。
「まるで、思考ではなく、感覚で書かれたかのような……」
そのときだった。背後から、一陣の風が吹いた。
彼は無意識に振り返る。
すると、小道の向こうから一人の少年が歩いてくるのが見えた。
金色の髪。両手には白い紙袋に包まれたパン。どこにでもいるような、村の子供。
だが、その目が一瞬、こちらを見た。
……交わった視線。
その瞬間、空気が張りつめたように感じた。
調査官は言葉を失い、ただ立ち尽くす。
目の前の少年に、何かを感じ取ったのだ。理屈ではない。だが、次の瞬間――風がまた吹き、空が流れ、日常が戻ってくる。
少年はそのまま通り過ぎていった。何も言わず、ただ静かに歩いて。
「……気のせいか」
調査官は小さく息を吐き、手帳に簡単な記録を書き込む。そして、静かに立ち去った。
あの魔法陣がなんであれ、それを追いきるだけの知識も、権限も、自分にはない。そう、どこかで理解していた。
一方、イディスは村の小さな教会の前にいた。
届け物を終え、風に吹かれながらベンチに腰掛けていた。
目を閉じると、あの日の光景を浮かぶ。
魔物。暗闇。魔法陣。けれど、自分は何も覚えていない。
覚えているはずなのに、思い出せない。
(あれは…..夢だったのかな)
誰かが助けたと村では言われている。
イディス自身もそれを聞いて、そうなんだと納得しかけていた。
けれどあの時、自分の中から何かが湧き上がった感覚だけは、
いまだ胸の奥にひっそりと残っていた。
まるで、何かが自分を通って、外へ放たれたような
「…ううん、考えすぎかな」
イディスは立ち上がり、空を見上げた。
白い雲が流れていく
遠くの街道には、黒衣の調査官がゆっくりと離れていく姿があった。
知らないまま、すれ違っていく。
真実はそこにあったのに、誰にも知られることのないまま。
そして、その背中に向かって、誰の耳にも届かない、世界の声が囁いた。
「・・まだ、その時でない」