静かな空の、その裏側で
その日も、空は静かだった。
雲ひとつない青空がどこまでも続き、穏やかな風が通り抜けていく。鳥たちのさえずりが微かに聞こえ、焼きたてのパンの香ばしい匂いが村の小道に漂っていた。
ぼくはいつもと同じように、ゆっくりと歩いていた。薬屋のおじさんに頼まれた〈癒しの精霊石〉を届けに行き、帰り道にはエナおばさんの店で焼きたてのパンを受け取る。特別なことなど、何もない――ただの昼下がりだった。
けれど、その平穏は、ほんの一瞬にして壊れた。
風が鳴いた。いや、風じゃなかった。
どこか、獣のような、けたたましい声が空を切り裂いた。
ぼくは立ち止まり、耳を澄ませた。
向こうの道で、小さな猫が突然飛び出し、必死に逃げていった。そのすぐ後、窓辺の精霊灯がパチンと小さな音を立てて消えた。
それが、前触れだったのかもしれない。
でも、ぼくは気づけなかった。いや、気づこうともしなかった。
次の瞬間、村の外れから黒い煙がもくもくと立ち上った。
辺りに響き渡る、獣の叫び声。人の声ではない、魔物の怒号。
どくんと、ぼくの胸が跳ねるように痛んだ。
遠くで、母さんの声が聞こえた気がした。でも、足は動かず、世界が一瞬止まったように感じられた。
それでも、いつの間にか、ぼくの足は勝手に動き出していた。
胸に抱えた紙袋がかすかに揺れ、ぼくは走った。
村のあちこちで、悲鳴が上がっていた。石畳の上に火の粉が散り、空気は焦げた匂いに満ちている。
見慣れた家の一軒が炎に包まれていた。確か、小さな子どもがいるはずの家だ。
誰かが飛び込もうとして、別の誰かに制止されている。
そのすぐそばに、黒鉄色の毛皮を持つ、巨大な魔物が立っていた。赤い目がぎらりと光り、鋭い牙が唸りをあげている。
バランの森から来た魔物たちだ。
でも、どうしてこんなところに?
そんな疑問は、ぼくの頭の隅に浮かんだだけで、心の奥では何も動かなかった。
ただ、立ち尽くし、目を瞑り、ぼんやりとつぶやいた。
「やめてよ」
言葉の意味も、誰に言ったのかもわからなかった。ただ、自然と口をついて出てしまっただけだった。
その瞬間、目の前の魔物が、音もなく倒れた。
倒れる音も、地面に激突する音もなかった。ただ、ゆっくりと土煙が舞い上がった。
周囲を見ると、倒れた魔物が幾つも転がっていた。火は消え、叫び声も止み、静寂が戻っていた。
ぼくは自分の手を見つめた。何も持っていない。何もしていない。魔導具も、杖もない。
魔法を使った覚えは、まったくなかった。
けれど、なぜか視界の端に、薄く光る魔法陣のようなものがゆっくりと回転しているのが見えた気がした。それはすぐに消えた。
でも、ぼくはそれが何なのか理解できなかったし、ましてや自分と結びつけることなどできなかった。
遠くから、声が響いてきた。
「やったぞ! 魔物が退いた!」
「魔法部隊はまだ到着していないはずだ、誰がやったんだ?」
村人たちの声が賑やかに交わる。
ぼくのことには誰も気づかなかった。
ぼくも、自分が何かしたとは思えなかった。
ただ、息を吸って、吐いた。
白く息が浮かんだ。
胸に抱えたパンの袋はまだ温かい。
ぼくはそのぬくもりだけを頼りにして、空を見上げた。
青く澄んだ空は、何も変わらず広がっていた。
ぼくの心はざわついていたけれど、なぜか、何が起こったのか理解しようとしなかった。