イディスの日常
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んで、まぶたの奥がほんのりと明るくなる。ふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐった。きっと、昨日の夜に飲んだハニーミルクの残り香だ。
目覚ましの風球が鳴る前に、僕は自然と目を覚ました。まだちょっと眠たいけど、気分は悪くない。のんびりと毛布を押しのけて、うーんと伸びをする。
「おはよう、光の精霊さん」
窓のそばに浮かぶ小さな光の粒が、ひとつ。僕が声をかけると、それはきらりと瞬いたように見えた。返事をするわけじゃない。でも、僕はこうしてあいさつをするのが好きだ。
精霊は風や水と同じように、この世界にとってあたりまえの存在。だからこそ、日々の中で見かけたなら、声をかけたくなる。たぶん、こんなふうに話しかけるのは珍しい方なんだと思うけれど、それでも。
シャツに〈整えの符〉をぺたりと貼ると、服が勝手に整ってくれる。くすぐったい感触に思わずくすっと笑った。部屋の隅では、自立清掃ほうきがカタカタと音を立てて動いている。まるで僕の起床にあわせて目覚めたみたいだった。
イディスー、ご飯できてるわよー!」
お母さんの声が下から聞こえてくる。
「はーい!」
階段を降りると、木の食卓にはいつもの朝ごはんが並んでいた。スープにトースト、それから果実ジャム。特別なものじゃないけれど、湯気から立ちのぼる香りが心地よくて、自然と顔がほころぶ。
「いただきま……」
席に着こうとしたそのときだった。ふと、棚の上のランタンがぐらりと揺れた。落ちる、と思った瞬間——それは、なぜか落ちずに、揺れたままふわりと止まり、ぴたりと元の位置に戻ったように見えた。
(……今、落ちかけた?)
不思議だった。でも、スープの湯気が目に入り、気がそれた。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
お母さんは気づいていない様子だったし、僕もすぐに気にしなくなった。そうして、今日も一日が始まった。
今日は、薬草屋さんへのおつかいを頼まれている。小さな袋に精霊石のかけらを入れて、村の広場へ向かう。噴水のそばでは、友だちが魔導具のビー玉を空に浮かべて遊んでいた。虹色に輝くビー玉が、きらきらと風に揺れている。
「イディスー! こっちこっち!」
手を振る声に近づくと、数人の子たちが集まってビー玉を囲んでいた。
魔導具といっても、これは子どもでも使える簡単なもので、魔素を少し流すだけで動くおもちゃのようなものだ。
「わたしのはね、いつもすぐ落ちちゃうのに、昨日イディスが触ったら急に浮くようになったの!」
「えっ? 僕、なにかしたっけ?」
「さあ。でも、急にふわって飛んだんだよ! すごいよね!」
「へえ……たまたまかな?」
首をかしげながら、僕も輪の中に加わる。
みんなは「ラッキーだね!」ってはしゃいでいて、僕もなんとなく楽しくなってくる。ビー玉は今日も浮いている。浮くときもあれば、浮かないときもある。そういうものだと思っていた。けれど、僕が触っただけで変わるものなんだろうか?
……ほんの少しだけ、胸の奥がくすぐったくなった。
帰り道、パン屋の前を通ると、焼きたての香りがふわっと広がった。お腹はもういっぱいのはずなのに、思わず足が止まる。香りだけでおいしそうって思うのは、ずるい。
「やあ、イディス。今日もおつかいかい?」
パン屋のエナおばさんが笑って声をかけてくれた。
「うん。でも、今日はパンを買うお金は……ちょっと足りないかも」
ポケットの中の銀貨を見ながら、申し訳なく笑う。
すると、おばさんは棚の奥から紙袋を取り出して、小さなパンを二つ入れてくれた。
「余ったのよ。ほら、持っていきなさい。君には、きっといいことが起こりそうだからね」
「えっ、いいの!? ありがとう、おばさん!」
思わず声がはずんで、僕は笑顔になる。すると、通りすがりの猫が足元にすり寄ってきて、にゃあと鳴いた。
(……なんだか今日は、いろんなことがスムーズだな)
そんなふうに思ったけれど、すぐに風が吹いて、考えは飛んでいった。香草の香りがして、鳥の声が聞こえて、空はとても青い。
魔法があって、精霊がいて、魔導具も身近にあって、たまに不思議なこともある。そんな村の暮らしは、いつもどおり穏やかで、優しい。
それでも、今日という日はただの“いい日”。
ランタンも、ビー玉も、パンも。全部、ちょっとした偶然だと思っている。いいことが重なる日だって、たまにはある。
不思議なことが続いた気もするけど、気にするほどでもない。
僕はただ、気持ちのいい空を見上げていた。