何も問題のない子
生まれてから一度も泣いたことがない。
それが、イディス・ヴァルトという少年における最初の“異常”だった。泣かない赤ん坊は不気味だというが、なぜだろう、イディスに限っては誰もそんなことを思わなかった。
泣かなくても、呼吸は安定していたし、よく眠り、よく笑った。だから周囲の大人たちは皆、口を揃えてこう言ったのだ。
「なんて育てやすい子なのかしら」と。
事実、イディスは病気ひとつせず、発熱もなく、歯も綺麗に生えそろい、母乳を飲む時に母の肌を噛むことすらなかった。夜泣きもなければ癇癪も起こさない。
どこかの誰かが作り上げた理想の赤ん坊が現実になったかのようで、それは育てる人間を不安にさせるどころか、逆に安心させる存在だった。
彼は、何もかもが“問題なく済む”子だったのだ。
ある春の日、部屋の空気はどこか柔らかかった。窓辺から差し込む陽射しにレースのカーテンが揺れ、午後の光がふんわりと透けていた。
生後数ヶ月のイディスは、母の腕の中ですやすやと眠っていた。口元に浮かぶ薄い笑みは、夢を見ているようにも、ただ満たされているようにも見えた。
母は、その小さな寝顔を見つめながらテーブルの本に手を伸ばした。
ランプの火が小さく揺れた、その瞬間、カタン、とオイルランプが倒れかけた――ように見えた。
けれど倒れなかった。
不自然な跳ね返りもなく、止める手もないのに、ランプはまるで最初から動かなかったかのように、そこにあった。母は気にも留めず、本を取って、近くにいた助産師と笑い合った。
「今日もいい子ね、本当に手がかからないわ、この子」
「ええ、笑ってる顔ばかり見ている気がします。そういえば、泣き顔なんて……ありましたっけ?」
「さあ?」
母は軽く笑う。そこには迷いも、違和感もなかった。
ただ、当然のように“この子はそういう子”として、全てが受け入れられていた。
腕の中で、イディスはうっすらと目を細めた。もちろん、赤子にはまだ意志も言葉もない。ただ、それでも彼の周囲にはどこか穏やかな空気が漂っていた。とても静かで、どこか守られているような。
やがて、外で風が吹いた。カーテンが大きく膨らみ、棚の上の小さな花瓶が揺れた。だが、落ちなかった。ごく自然に揺れて、そして元に戻る。
ただそれだけ。
風が、イディスを避けて吹いたように見えた。
そのとき、部屋の隅に座っていた祖母がふと顔を上げた。
「この子に、あたしたちのほうが守られてるのかもしれないねえ」
それは、何気ない笑い話のように流れていった。誰も深く考えなかった。神経質な人間ならば、もしかしたらその”異常さ”に目を向けていたかもしれない。だがこの家の大人たちは皆、善良で、健やかなものをそのままに喜ぶ人々だった。
イディス・ヴァルトは、穏やかに、優しく、そして“何も問題なく”育っていった。誰にも恐れられることなく、世界に、まるで歓迎されるようにして。
時が流れた。季節は巡り、春がまたやってきた。あの日と同じ、やわらかな風が丘を吹き抜ける。遠くで鳥が鳴いていた。草の匂い。陽光の色。すべてが懐かしく、優しい。
「イディスー! こっちきてー!」
丘の上では、数人の子どもたちが手を振っていた。
その中の一人が、笑顔で駆け出していく。イディス・ヴァルト。
あの日の赤子は、今や無邪気な少年となり、仲間のもとへと走っていた。誰よりも軽やかに、誰よりも自然に。彼の背を押すように、風が吹いていた。
いや、正確には――風は、彼に“味方するように”吹いていた。けれど誰も、それに気づいてはいない。
ただ一人、祖母だけが時折思い出す。
「あの子はきっと、生まれながらにして“何か”が違っていたのだろう」と。
それでも彼女もまた、疑おうとはしなかった。イディスが笑っている限り、誰もが幸せだったからだ。だから、この日も、誰も気づかなかった。この少年が、ほんの少し、“この世界の理”から逸れていることに。