果ての暗闘
イディス達の入学式と同時期
ルメルディア王国が属するフローリア大陸の最果て、荒涼とした岩山の尾根を駆ける一つの影があった。
剣士アルノルト=ヴァイスは、左腕に水色の短い髪をした少女を抱え、息を切らしながら足場の悪い岩場を駆け抜けていた。少女は深い眠りについたまま、その幼い顔に苦痛の表情を浮かべている。
背後から響く複数の足音が、徐々に距離を縮めてくる。
「もうそろそろ限界だな」
アルノルトは振り返ることなく呟いた。三日三晩の逃走で、さすがの彼も疲労が蓄積していた。それでも腕の中の少女を守るため、足を止めるわけにはいかない。
前方に開けた台地が見えた時、ついに追っ手たちが姿を現した。
「観念しろ、アルノルト=ヴァイス!」
黒いローブに身を包んだ五人の男たちが、扇状に広がってアルノルトの退路を断った。それぞれの手には禍々しい魔術の光が宿っている。
「今お前が抱えているその女をこちらに渡せ」
中央に立つ男が声を張り上げた。
顔の半分を仮面で覆い、露出した口元には不気味な笑みが浮かんでいる。
「いくらお前が"覇天の十二針"のひとりアルノルト=ヴァイスだとしても、我ら"原初の血盟"の総力を持ってすれば、捕まるのは時間の問題だ」
「今渡せばお前の命は取らないでおこう」
「それにお前がその女を助ける義理も特にないだろう」
アルノルトは静かに少女を岩陰に横たえると、腰の剣に手をかけた。
「義理か…確かにそうかもしれんな」
彼の瞳に鋭い光が宿る。
「だが、俺にも譲れないものがある」
「愚かな男だ!殺せ!」
仮面の男の号令と共に、五人の血盟メンバーが一斉に魔術を発動した。
「ファイアボルト!」
「アイススピア!」
「サンダーブレード!」
三方向から異なる属性の魔術が襲い掛かる。
アルノルトは剣を抜き放つと、刃に風の魔法を纏わせて迎撃した。
「風壁!」
旋風が剣先から巻き起こり、炎と氷と雷を相殺する。だが残り二人が左右から接近していた。
「アースクエイク!」
右の男が拳を地面に叩きつけると、アルノルトの足元の岩盤が砕け散る。
バランスを崩した瞬間、左の男が影のような速度で迫った。
「シャドウアサルト!」
黒い刃がアルノルトの首筋を狙う。間一髪、アルノルトは身を捻って回避し、カウンターの袈裟斬りを放った。
「ぐあっ!」
影使いの男の肩から血が噴き出す。だが傷は浅い。
「やるじゃないか、さすがは覇天の十二針」
仮面の男が不敵に笑う。
「だが、お前一人では我らには勝てん。お前も分かっているはずだ」
戦闘は激化した。五人の連携攻撃に、アルノルトは徐々に追い詰められていく。
炎使いと氷使いが同時に魔術を放つ。炎と氷が混じり合い、灼熱の蒸気がアルノルトを包む。視界を奪われた隙に、雷使いが上空から襲い掛かった。
「サンダーストライク!」
巨大な雷撃がアルノルトを直撃し、彼の体を痺れさせる。その瞬間、土使いが地面から岩の槍を突き上げた。
アルノルトは咄嗟に剣で受け止めるが、衝撃で膝をつく。
「もう終わりか?」
影使いが背後から忍び寄る。だがその時、アルノルトの瞳に炎が宿った。
「まだだ…まだ終わらん!」
彼は立ち上がると、剣を頭上に掲げた。風の魔法が刃の周りに渦を巻く。
「風神剣・天翔!」
アルノルトの体が風と共に舞い上がり、五人の包囲を突破する。空中で一回転すると、風の刃が雨のように降り注いだ。
「ぐわあああ!」
血盟の五人が次々と風の斬撃に倒れていく。だが仮面の男だけは魔術バリアで防御していた。
「見事だ、アルノルト。だがこれで終わりだ」
仮面の男が両手を天に掲げる。空が急激に暗くなり、禍々しい魔力が渦巻いた。
「インフェルノサモン」
地面に巨大な魔法陣が浮かび上がり、その中心から炎の悪魔が姿を現した。
「これは大精霊の一つ。貴様ごときに使うのは惜しいが、仕方あるまい」
炎の悪魔は身の丈三メートルを超え、全身から地獄の業火を吹き上げていた。その咆哮だけで周囲の岩が溶け始める。
「喰らい尽くせ、イフリート!」
悪魔がアルノルトに向かって突進する。その拳は小山ほどもある岩を粉砕し、炎の津波がアルノルトを飲み込もうとした。
「くそ…これほどのものを…」
アルノルトは剣を構え直す。もはや普通の技では太刀打ちできない。彼は決断した。
「なら俺も…禁じ手を使うしかないか」
アルノルトの剣に、今までとは桁違いの魔力が集中し始める。風だけでなく、雷、炎、氷…複数の属性が刃に収束していく。
「…」
彼の体が光に包まれる。その光は眩いばかりで、仮面の男も目を細めた。
「まさか…貴様、自分の命を…!」
「天地鳴動!」
剣士の構えから放たれたのは、たった一度の斬撃だった。
その一閃は、行く手を阻む山々を深く抉り取り、立ち並ぶ木々を根元からなぎ倒した。そして、すべてを焼き尽くさんと猛り狂う炎の悪魔は、その巨大な肉体を切り裂かれた。
「ぐおおおおおお!」
悪魔が断末魔の叫びを上げて消滅する。仮面の男も衝撃波に吹き飛ばされ、岩壁に激突した。
「馬鹿な…ここまでか…」
男は血を吐きながら立ち上がろうとするが、もはや戦う力は残っていない。
戦場に静寂が戻った。アルノルトは剣を地面に突き立て、膝をついていた。天地鳴動の反動で、彼の体は限界を超えていた。
「ハア…ハア…」
荒い息を繰り返しながら、彼は少女の元へ向かう。幸い、戦闘の余波は岩陰まで届いていない。
「無事で…良かった…」
だがその時、アルノルトの足元がぐらつく。天地鳴動の代償は想像以上に大きかった。全身の血管が切れ、内臓にも深刻なダメージを負っている。
「くそ…これが限界か…」
彼は少女を抱き上げると、よろめきながら歩き始めた。だが数歩も進まないうちに、ついに力尽きて倒れ込む。
少女と共に岩の上に横たわったアルノルトの瞳から、徐々に光が失われていく。
遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。救援か、それとも新たな敵か。
アルノルトはもう確かめる力もなく、意識を闇の中に沈めていった。
水色の髪の少女だけが、彼の胸の上で静かに寝息を立てている。
風が吹き抜け、二人の髪を優しく撫でていった。
戦場跡には、砕けた岩と焼け焦げた大地だけが残されていた。
原初の血盟の五人は姿を消し、仮面の男の行方も知れない。
そして剣士アルノルト=ヴァイスと水色の髪の少女もまた、忽然と姿を消していた。
ただ一つ、血に染まった剣だけが、岩の隙間に突き刺さったまま残されている。
その剣が語るのは、ここで激しい戦いがあったという事実だけ。