決意
バランの森の風が、木々のざわめきの間を抜けていく。
イディスは、小さな背にラウラの身体を背負って、ひとり森を歩いていた。
ラウラの腕は彼の肩に垂れ下がり、肌はまだ少し冷たい。けれど息はある。かすかに、けれど確かに。
森を出るまで、決して倒れまい。その一心だけで、少年はよろける足を前へ進める。何度も転びそうになった。ひざに泥がつき、指は土に食い込んだ。それでも、進んだ。
地面の感触も、風の音も、どこか遠くにあるようだった。ただ、自分の足音と、ラウラの小さな重みだけが現実だった。
「……ラウラ、大丈夫だから。もう少しで、村が……」
誰に聞かせるでもなく、誰に届くでもない言葉。
ただ自分を保つために、彼は何度もそう呟いた。
「怖くないよ……ちゃんと帰れるよ……僕が、ちゃんと……」
唇が乾き、喉が痛んだ。空気は冷たく澄んでいたが、肺の奥が熱い。
そして――
村の門が見えた時、太陽は森の向こうに沈み始めていた。
「……イディス!? どうしたの、その子……っ!」
声が飛んだのは、門近くの畑から戻ってきた農婦の叫びだった。
あっという間に数人の大人が駆けつけ、ざわめきが広がる。
「ラウラ!?」
「息してるのか!?」
「おい、誰かアニカを呼べ!」
「どうして森なんかに――イディス、お前……!」
視線が突き刺さる。責めるような声もあった。
けれど誰かが、そっとイディスの肩に手を添えてくれた。
「よく、ひとりで……よく戻ってきたな」
誰の声かも分からなかった。イディスはただ、静かに頭を下げた。そのまま、膝が崩れ、土の上に座り込んだ。
「ごめんなさい……」
その手が震えていたのを、誰も気づかなかった。
「あの子は、大丈夫よ。命に別状はないわ」
医師がそう告げたのは、それから一刻ほど後だった。
ラウラは家で休んでいた。ラウラの母アニカは目を赤く腫らしながら、娘の手を握っていた。イディスもその場にいたが、部屋の隅で小さくなっていた。
「……ごめんなさい、僕が……僕が……」
ラウラを庇ったことを、イディスは口にしなかった。それをしてしまえば、ラウラが叱られるかもしれないから。自分が行こうと誘ったことになってしまうかもしれないから。
ただ、彼は静かに目を伏せた。
「……イディスくん、ありがとう。あの子を……守ってくれて」
アニカの震える声が、そっと響いた。
少年は何も言えずに、ただ頷いた。
その夜――
イディスは、自分の部屋の布団の中で目を開けたまま、じっと天井を見ていた。
思い出していた。
あの黒く濁った魔物の気配。背筋を凍らせた“あの瞬間”。動けなかった。何もできなかった。ただ、恐怖に縛られていた。
そして。
「”守れなかったことを悔やむなら、その悔しさを忘れるな。それだけで、いつか前に立てるようになる”」
あの言葉。あの背中。まっすぐで、強くて、静かだった。
「……僕も、強くなりたい」
小さく吐いた声が、暗い部屋の中に消えていった。
そのまま、布団の中で涙があふれた。誰にも見られないところで、ひとり、こぼれ落ちた。
でもそれは、初めて安心した涙だった。
翌朝。
イディスは目を覚ますと、まっすぐ村の鍛冶屋へ向かった。開店の鐘の鳴る前だったが、扉はすでに開いていた。
「おう、イディス。こんな朝っぱらからどうしたんだ?」
中にいたのは、屈強な体躯の男――ゲルドだった。村の鍛冶屋であり、かつては近隣の警備団に属していたという噂もある。
「……木剣を、見せてほしいんです」
「ん?」
ゲルドは眉を上げた。
イディスは小さな手をぐっと握って、もう一度繰り返す。
「剣を、練習したい。……教えてください」
その目を見て、ゲルドは一瞬だけ驚いた表情を見せた。だがすぐに、ふっと笑った。
「なるほどな。……昨日のことか。あれが、お前を変えたか」
棚の奥から、小さな練習用の木剣が取り出された。イディスがそれを手に取ると、ぴたりと魔素が微かにざわめくような感覚が走る。
「……?」
イディスには分からなかったが、ゲルドの目が一瞬だけ細められた。
「お前さん、もしかしたら……いや、今はいい。まずは握り方からだ」
訓練は厳しかった。剣を持つ腕がすぐに痛み、足はふらついた。何度も転び、泥まみれになった。
でも、やめようとは思わなかった。
「もう一本」「あと一回だけ」と言いながら、何度も立ち上がった。そのたびに、ゲルドは黙って木剣を拾ってやった。
家に帰ると、次は机に向かった。ラウラの父が貸してくれた古い書物、魔法理論の入門書、魔導史、学院の入学要項。イディスは眠気をこらえ、言葉をひとつひとつなぞるように読み込んだ。
魔法の才能は、僕には多分ない。
それはもう、何度も確かめた。
けれど、“知る”ことはできる。“理解”し、“自分の形”で備えることなら、きっと。
難解な専門用語に何度もつまずいた。字がにじんで見えて、目をこすった。それでも、ページを閉じなかった。
夜――
イディスは書物を閉じ、窓を開けて夜風に頬をなでられながら、空を見上げた。
星が、静かにまたたいていた。
「……ラウラ、元気になったら、教えてあげたいな。僕、剣を始めたって」
空を見て笑うその顔に、あの日の弱さはもうなかった。
――その日から、日々が変わった。
朝は剣の稽古。昼は学び。夜は静かに魔法理論を読み、森の気配に耳を澄ませる。
誰にも知られない努力を、彼は重ねていった。誰かに褒められたわけじゃない。でも、あの日あの背中に向けた憧れが、彼を動かしていた。
それは、小さな始まりだった。けれど、確かな一歩だった。
四年後――
少年は、首都フェルミオンへと旅立つ。その手には、魔導具ではなく、古びた木剣と数冊の書物。
まだ幼いその背に、確かに“志”が宿っていた。