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9/30

9 ガリ勉、倒れる

「エリスさま。本日はもう、お休みになられては?」


 ルークの声で、僕は教科書から顔をあげた。

 気づけば、夜も更けている。差し入れてくれるお茶は、目の覚める香りのやつじゃなくて、安眠用のものだった。


「でも、まだ復習が終わってない」


 しぶる僕に、ルークは首を横に振った。聞き分けのない子どもに言うみたいな口調で、「休むべきです」と言う。


「明日も、朝早く起きるんでしょう。それなら、そのときにすればいいじゃないですか」

「寝る前にやりたいんだ。どうせ、気になって眠れないし……」


 僕の反論を聞いても、ルークは「寝てください」の一点張りだ。


「最近、ずっと顔色が悪いんです。旦那さまたちも、心配していましたよ」

「今あの人たちは関係ない……」


 不満を訴える僕の視界に、甘い香りを立てるハーブティーが置かれる。


「いいえ。俺が心配なんです、エリスさま。あなたは三年前から、がんばりすぎです」

「ルークまで、そんなことを」


 ルークは「当たり前の事実ですから」と平然とした顔で言う。でも僕は、あれが本当に悔しかったんだ。そして雪辱を果たすための努力は、ちゃんと報われた。でも。


「平民の友達は、僕よりずっと成績がいいんだ。彼より恵まれている僕は、もっとがんばらなくちゃ」

「エリスさま」


 強く咎める口調で、ルークが呼んだ。僕がびっくりして顔をあげると、彼は困ったように笑っている。


「あなたは俺に、読み書きを教えてくれた。俺は一生懸命がんばったけど、それでも、あなたより上手くできない」

「そんなこと」


 たしかにそれは事実だ。だけど、ルークは、すごくがんばっていた。仕事の後もいっぱい練習していた。その努力の尊さを、僕は痛いほど知っている。

 ええ、とルークは穏やかに頷いた。


「俺があなたより読み書きが苦手なのは、俺が『恵まれていない』から、ですか?」


 言葉に詰まった。

 僕は、自分が、恵まれていると思っている。

 だけどそれはルークにとって、それ以上の意味があるのかもしれない。もしかしたら、傲慢さとか、無邪気だとか。

 今のルークは、それを教えてくれた。

 黙り込む僕を見て、ルークは「責めてるわけじゃないんです」と付け足してくれる。


「でもね。だからこそ、あなたの努力も、あなた自身が、ちゃんと認めてあげてください。恵まれていることは、関係ないんです」


「ううん、ルーク。いいよ」


 用意してもらったお茶に口をつけた。温かくて、ほっとする味だ。

 ルークは気まずそうに口をつぐんで、「差し出がましいことを申しました」と礼をする。僕は首を横に振った。

 だって、全部、ルークの言うとおりだ。そしてルークは、僕のことをよく見ている。


「違うよ。ルークは、いつも優しくて、僕思いだ。ありがとう」


 心からの感謝を伝えた。

 なのになんでか、ルークは少し悲しそうに笑った。

 そのままルークは茶器を回収して、出て行った。僕は部屋にひとりきりだ。

 いつもより早い時間だったけど、もう寝ることにした。ベッドにもぐりこんで、目をつむる。

 だけど目が冴えてしまって、なかなか眠れなかった。


 僕は傲慢で、いけすかない奴だと、自分でもどこかで分かっていたんだ。学力なんかを鼻にかけて。

 恵まれてるんだからがんばらなくちゃって思ってたけど、じゃあ、僕より恵まれていない人はどうなんだって話だ。そして恵まれていると思うこと自体がなんだか、後ろめたくなってきた。

 本当に、僕は嫌味で、思いやりのない、幼稚な奴なんだ……。

 僕はずっと、その事実から、目を逸らしてきたんだ。

 悶々と寝返りを打っている間に、朝になる。


 部屋が明るくなって、眠たい目を擦って起きだした。いつも通り早朝の勉強をして、登校した。僕の顔を見たルークは「休んでください」と進言してきたけど、もうすぐテスト週間だ。休めるわけない、と強引に突っぱねた。本音を言えば、ルークと顔を合わせるのがちょっと気まずくて、一旦離れて考えたかったのもある。


 教室に入ると、もうジェラルドは席に座っていた。何人かの一般入試組と楽しそうに話している。

 ちょっとだけ、胸が痛んだ。僕とジェラルドは、図書館で勉強するだけの仲だ。教室で仲良く話すような関係じゃない。

 僕は、何をうぬぼれていたんだろう。


 静かに自分の席へ座る。ジェラルドは僕をちらりと見て、「エリス」と僕を呼んだ。

 僕はびっくりして、彼を見る。僕はわざわざ教室で話しかけなんかしないし、ジェラルドもずっとそうだったからだ。


「顔が赤いぞ。大丈夫か?」


 え、と思わず自分の頬に手を当てる。クラスメイトたちも顔を見合わせて、「そうだよ」と遠慮がちに言った。


「体調がすごく悪そうだ。顔も赤いし、風邪でも引いた?」

「入ってくるときも、ふらふらしてた。大丈夫?」


 大丈夫だよ。そう答えようとして、ふと、暑いなと気づく。首元をゆるめる僕を見て、ジェラルドは「エリス」と強い口調で言った。


「お前、無理していないか? 教室にいても平気か?」

「へいきだよ」


 まずい。舌がもつれた。身体がどんどん熱くなって、汗ばんでいく。ジェラルドは、僕の手首を強引に掴んだ。


「保健室に行こう」


 その瞬間、僕の中で、熱がはじけた。全身が火照って、指先までどくどく脈打つ。は、は、と呼吸が浅くなって、ジェラルドの胸元にすがりたくなる。スパイスみたいな甘い香りに、ずくりと下腹部が疼いた。

 ヒートだ。はじめての感覚だけど、すぐ分かった。

 反射で、身体が丸まる。呼吸が浅い。


「エリス……!」


 でもここにはジェラルドがいる。だったら、怖いことなんて何もないんじゃないかな。

 いや、それと僕の安全に、何の関係があるんだ。ジェラルドは僕のことなんか……。

 ぐるぐる考え込む僕の脇の下に手が入って、持ち上げられる。ジェラルドは僕を抱きかかえて、教室を飛び出した。

 僕は首筋にしがみついて、「ジェラルド」と悲鳴をあげた。僕の腰についたものが勃起して、ジェラルドのお腹のあたりに当たっている。はずかしい。


「おろし、て……」

「おろさない。どっか、いや、抑制剤」


 予鈴が鳴る。ジェラルドをサボらせてしまってはいけない。もどって、と呻いても、ジェラルドは「戻るわけないだろ」と僕の背中を強く叩いた。

 ジェラルドは下駄箱の隅に一旦僕を降ろして、自分の懐を探る。もう授業開始時間が近いから、誰もいない。

 彼は錠剤の入った瓶を取り出して、中身を出そうとする。手が震えて、何錠も床へ散らばった。ジェラルドは一錠だけ飲み込んで、ふーっと息を吐きだす。


「エリス。お前、抑制剤は」


 さっきのはアルファ用の抑制剤。オメガ用の抑制剤、とやっと思い出す。

 ジャケットの内ポケットに入れているはずだ。僕はのろのろと懐へ手を入れて、なんとか瓶を取り出す。指の腹が汗で滑って、瓶はごとんと床へ落ちた。


「あ……」


 どうしよう。僕が途方に暮れていると、ジェラルドは黙って瓶を拾って蓋を開けた。一錠だけ取り出して、僕の掌へ握らせた。


「飲め」


 その強い口調に促されるみたいに、僕は頷く。口元へ持って行こうとしたら、手が震えて、うまく飲み込めなかった。錠剤は、僕のジャケットの内側へ滑り落ちる。


「あう……」

「はい」


 ジェラルドはもう一度、錠剤を渡してくれた。また落とした。ジェラルドは根気強く付き合ってくれたけど、僕は半泣きだ。どんどん熱は酷くなる。


「のませてぇ……」


 泣き言を言う僕をよそに、ジェラルドは駆けつけた先生たちへてきぱきと僕の症状を伝える。アルファは離れた方が、とジェラルドが言っているのを聞いて、冗談じゃないと思った。


「いっしょにいて。ジェラルドがいい」


 ジェラルドを引き寄せて、ジャケットへすがりつく。しばらく頭の上で会話があった後、ジェラルドは僕を抱きしめてくれた。嬉しくてくらくらする。

 目を瞑った僕の口元へ、錠剤が押し付けられる。ジェラルドのにおいだ。舌で舐め取るように、それを口へ含む。指だと分かった。ちゅう、と吸えば、すぐに口の中から抜けていく。

 くらり、と世界が傾いた。僕の意識は、闇の向こうへと落ちていった。

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