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4 ガリ勉は運動音痴

 何はともあれ、僕の新たな日常が始まった。

 授業は歴史、語学、数学などの座学に加えて、魔術や体育などの実技科目、それから芸術科目。こちらは音楽、美術から選択する。僕は音楽選択だ。


 座学は日々の予習の甲斐もあって、今のところ困っていることはない。

 困っているのは、実技科目だ。特に体育。


「ライブラ! あと一周だ!」


 持久走、すなわち終わり。僕はだらだら汗を流しながら、脇腹を抱えて必死に走っていた。他にもちらほらまだ走っている生徒はいるけど、僕が大差をつけての最下位。眼鏡を外しているせいで世界もぼんやりして、ますます心もとない。

 良家の子息たるもの、エリートたるもの、文武両道であれ。言いたいことは分かるけど、人には向き不向きがある。


「おい、学年一位! がんばれよ!」


 そして大変不名誉なことに、僕のあだ名は、学年一位になってしまった。これがテストでばんばん首席を取りまくっていたら誇り高き勲章だけど、現実の僕は次席だ。推薦入試組は僕の身分を知っているからそんなこと言わないけど、平民の多い一般入試組は容赦ない。

 だからこそ、これからテストで勝ちまくって、僕をからかう連中を見返してやるしかない。覚えてろよ。

 殺意をみなぎらせながら、最後の一周に入る。ジェラルドが大きな声で「がんばれ!」と叫んだのが聞こえた。

 きみにだけは言われたくない。なおのこと必死で足を動かした。


 あと少し、あと少し。ようやく走り切って、倒れ込むように崩れ落ちる。ぜえはあと呼吸を荒げる僕の上に、ぽすんとタオルが一枚落ちた。


「エリス、大丈夫?」


 ぼんやり視界が霞む。目をなんとか上向かせると、どうやらジェラルドらしい。彼はしゃがみこんで、タオルで僕の顔をぽんぽん拭いてくれた。

 いいよ、気にしなくて。汚れるよ。それともお前は脚が遅いなって煽りか? 感謝と卑屈が混然一体になって、整わない呼吸のせいで喉元に息が詰まる。

 眼鏡がないせいで、どんな表情をしているのか分からない。ひとまず頷いて、口をぱくぱくさせた。身体全体ががくがくしている。


「だい、だいじょう、ぶ……」

「そう?」


 ジェラルドの顔が近づく。少しはっきり見えた彼は、目を細めていた。細かい感情は分からないけれど、僕は頷いて、息を吐き出す。やっとまともにしゃべれるようになってきた。


「だいじょ、ぶ。ありがとう」


 タオルは洗って返した方がいいだろうか。迷っている間にタオルは取り上げられる。その時、ジェラルドから、ほのかにスパイスのような、お菓子のような香りがした。彼、香水でもつけてるのかな。

 僕はがくがくの身体をなんとか動かして、みんなに合流した。周りがひそひそ何か話している気配がある。恥。


「今日は球技をやるぞ。これからチーム分けだが……ライブラはしばらく休んでおけ」


 あまりに満身創痍なせいか、体育教師は同情の目で僕を見る。それには素直に甘えることにして、僕はその後、ずっと見学だった。


 ジェラルドについて分かったことはいくつかある。奴は勉強ができるどころか、運動神経もかなりいい。悔しいことに、今のところ、僕がジェラルドに勝っているところなんか、ひとつもない。

 現に今も、運動場にはジェラルドの快活な声が響いている。指示を出しているようで、遠目かつぼんやりした視界でも、ジェラルドがよく動き回っているのが分かった。

 なんだか惨めだ。

 汗だくの身体を冷やすために、ぱたぱたと胸元をあおぐ。全身がぽかぽかしていた。


「ライブラ。お前、勉強だけしていてもダメだぞ。たまには身体を動かした方がいい。まだ若いんだから、体力をつけろ。身体を動かした方が、頭がすっきりして、より勉強に集中できるし……」


 先生はお説教してくる。はい……と神妙に聞き入れるふりをしつつ、僕は時をやりすごした。

 やっと汗が引いてきたところで、授業終わりのチャイムが鳴る。クラスメイトたちはぞろぞろ帰ってきて、整列する。

 先生がまとめのコメントをして、解散。次は語学の授業だ。

 まだ足元がおぼつかない僕の横に、誰かが並ぶ。ジェラルドだ。


「エリス。フラフラしてるけど、大丈夫か?」

「ん……」


 頷きつつ、とぼとぼ歩く。またスパイスみたいな香りがした。すん、と鼻を鳴らす。


「きみ、香水でもつけてる?」

「……つけてないよ」


 はは、とジェラルドは意味深に笑った。裏がありそうだ、と身体をジェラルドの反対側へ、わずかにでも傾ける。ちょっとこわい。

 背後から別の生徒が追いかけてきて、「ジェラルド」と話しかけた。


「さっきはすごかった。ひとりでばんばん点をいれてたし、大活躍だったね。勉強できて運動もできるとか、完璧じゃん」

「はは。そう? ありがとう」


 めら、と黒い闘志が湧き上がる。その僕を意にも介さず、クラスメイトは「すごいな」と笑った。


「そういえば、アルファなんだったっけ、きみ。みんな知ってるよ。いやー、アルファってやっぱすごいな。俺もアルファになりたい」

「はは」


 ジェラルドは笑って受け流す。本当にどうでもよさそうな様子だった。

 クラスメイトは、ちょっと気まずそうにする。だけど別のグループに呼ばれて、「じゃあ」とそそくさ走り去っていった。僕は、ジェラルドを見上げる。彼がこちらを向く気配があった。


「どうかした?」

「別に、なんでもないよ」


 アルファだったのか、こいつ。平民にしては珍しい。アルファとオメガというのは、貴族階級に多い性別だから。その分、平民であっても優秀な成績を出せば、アルファの子は貴族の養子にもらわれやすいらしいけど。

 しかしジェラルドは大変だな、と同情した。

 ジェラルドの能力が才能なのか、努力の賜物なのかは分からない。だけど、すごいことをやっても「アルファだから」で片付けられるのは、ちょっとかわいそうだ。


「タオル、やっぱり、洗濯して返す」


 あと、オメガの僕の汗がしみついたものを、アルファの彼が持つことに、なんとなく抵抗があった。ジェラルドは「気にしなくていいのに」と言いながら、タオルを僕へ預けてくれた。やっぱりスパイシーな甘い香りがする。どき、と心臓が高鳴った。

 とはいえこいつ、僕の汗が沁みたタオルを持って、平然としているんだ。きっと僕のことなんか、オメガとして意識していないんだろう。

 そもそも、僕がオメガだと分かっているんだろうか。いや、ネックガードで一目瞭然ではあるんだけど。

 僕は上目遣いに、ジェラルドを見上げた。きゅうと目を細めて、ピントをできるだけ合わせる。


「……ジェラルド。僕がオメガだって、分かってるよね」


 隣で、ジェラルドがぎくりと固まった。気配で分かる。デリカシーがまるきりないわけでは、ないらしい。

 うん、と頷いた。


「タオル、洗って返すね」

「……気遣い、ありがたいよ」


 いや、気遣いではない。でもそれを言うのはいやらしくて、「気にしなくていいよ……」とぼそぼそ言うほかなかった。

 僕はタオルを受け取って、丁重に保管し、丁重に洗濯してもらった。兄と父親は「アルファとタオルの貸し借りなんて」とぎゃーぎゃーわめいていたけど、母親はにこにこ笑っているだけだった。違う、そういう甘酸っぱいやつではない。ジェラルドは人として徳が高いというだけだ。

 タオルを返したら、ジェラルドは、そのふかふかぶりに驚いていた。僕はさらにクッキーを一個押し付けて、この件を終わらせた。

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