エピローグ
「エリスせんせい、さようなら!」
「さようなら、せんせ~」
低学年の子たち特有の、ぴこぴことしたお辞儀。僕も「はい。さようなら」と、お辞儀をした。
一日の最後のホームルーム。それが終わるとすぐ、教室から子どもたちが飛び出していく。
僕は出席簿を持って、職員室へと向かった。
小学校の先生として働きはじめて、数年。
オメガの僕が働くにあたって、番が既にいるというのが、不本意ながらも功を奏したみたいだ。思ったよりも、抵抗なく受け入れてもらえた。もちろん、全く抵抗がなかったわけじゃ、ないけど。
いろいろと、思うことは、たくさんある。
この学校には、平民出身者を中心に、たくさんの子どもたちが通っている。その中でも、どうしようもない格差というものは存在する。経済的なものだったり、成績的なものだったり。あるいは、生まれつきの身体のこと――たとえば、性別だったり。
それらに違いがあること自体は、悪いことじゃない。ただそれで困っている人がいるというのが、僕は苦しい。
僕は貴族の裕福な家庭出身の、持てる者だ。それと同時に、オメガという、取り上げられる者でもある。
それにアルファだからって、与えられるばかりでないことも、知っている。ベータに生まれても、人生は平坦じゃない。
だけど、みんなのちょっとした「不便」は、ある程度――本当にちょっとだけ、勉強でマシになるはずだ。もちろんそれは、万能の解決法でも、絶対的な物差しでも、決してないけど。
そういう差のために狂ってしまった人のことを、ときどき思う。きっと僕の悩みは、これからの長い人生で、折り合いをつけていくしかないんだろう。
職員室に戻って、明日の準備をする。時間割を確認して、必要な道具類を用意しておく。それから、教える内容の確認。
オメガの教師は、この学校だと僕が初めてだったらしい。それから、貴族出身者も、少ない。
他の先生たちから腫物扱いされたり、邪魔者扱いされたり、いろいろあった。だけど数年経った今も、しぶとくしがみついている。
僕は勉強を通じて、人の役に立ちたい。それをきっかけに人生が変わる人は、きっとたくさんいるから。それが僕のできる、数少ないことだ。
もちろん、学歴や学力に囚われていた、かつての僕みたいにはなってほしくないけど。
残った仕事を終えて、席を立つ。残っている先生方に挨拶をして、職員室を出た。
寄り道もせず、真っ直ぐに帰宅する。帰ってすぐに、ジェラルドの書斎を目指した。その扉をノックすると、「どうぞ」と返事がある。
「ジェラルド、ただいま」
顔を出すと、ジェラルドはペンを置いて「おかえり」と微笑んだ。彼は今、領地と事業の経営に精を出している。貴族としての地盤はまだ固まっていないけど、実業家としては超一流だ。今日も僕の番がかっこいい。
ジェラルドの方へと、足早に歩み寄った。机に手をついて、身を乗り出す。ジェラルドは、前のめりに頬杖をついて、僕に尋ねた。
「今日の仕事、どうだった?」
「うん。あのね……」
今日あった出来事を、ジェラルドへ話す。
子どもたちのこと。他の先生たちとのこと。特に子どもたちについてはかわいくて、ついつい話しぶりに熱が入ってしまう。
ジェラルドは僕の目を見て頷きながら、全部聞いてくれた。
「今日もいちにち、楽しかった。先生になってよかった」
僕は書斎机の向こうに入り込んで、ジェラルドの肩に抱き着いた。彼は「そうか」と、僕の背中を叩く。
こうやって甘えるのが、すっかり癖になってしまった。ジェラルドも僕を甘やかしてくれるから、ついついこうしてしまう。
しばらくジェラルドへメロメロになっていると、彼は背中を叩いて、僕を引きはがした。
「そろそろ食事の時間だ。行こう」
「うん。あ、それと」
そろそろ、次のヒートが近い。
「ヒート休暇取ったから、その……」
上目遣いに見つめると、「分かってるよ」と、彼は僕の頬を撫でた。僕はすっかり安心して、その手にすり寄る。
僕らは結構いい歳だけど、ここでは二人きりだ。外ではそれなりにちゃんとやっているから、ここでいちゃつくくらいは許してほしい。
それで、と、声をあげる。
「あかちゃん、作ろう」
ぴし、とジェラルドが固まる。僕は構わず、ジェラルドの手を握った。指を絡めて、ちいさく振る。
「僕も仕事が落ち着いてきたし。これ以上先延ばしにすると、もしかしたら、昇進しちゃうかもしれない。そしたら、あかちゃんを持つ余裕が、なくなっちゃうかも」
僕の言葉に、「だけど」とジェラルドは表情を曇らせた。じっと、その緑の瞳を見つめて、続きを待つ。
「……お前は、これまでがんばって、先生をやってきただろ。そりゃあ、俺は、今すぐにでもほしいけど」
「うん。だから、今ほしいんだ」
微笑みかけて、ジェラルドに抱き着く。
どこまでも優しくて愛しい、僕の伴侶。
「あのね。僕のしたいことは『先生』なんだけど、もっと正確に言えば、『勉強を教えて役立てる人』なんだよ」
ひそひそ声で囁く。ジェラルドにとっては、おさらいだ。
「だから究極の話、学校に勤めてなくてもいいし、えらくならなくてもいい。それより僕は、きみとのあかちゃんが欲しい」
人は、生まれ落ちる身体を選べない。僕はオメガという性別のせいで、たくさん、大変な目に遭ってきた。
そして、ジェラルドはアルファ。だから惹かれ合ったわけでもないって、信じてるけど。
「きみとの家族を増やしたい。それはきっと、僕の夢を邪魔しないから、安心してよ。まあ、学校勤めには、まだまだしがみついてみせるけど」
ジェラルドは、顔を赤くした。僕を引き寄せて、抱きしめる。その掌には、深く切った傷跡があった。
「お前には本当に、かなわないな」
僕は「そうかな」と首を傾げる。そんなことはないと思う。ジェラルドの方がすごい。
だけど褒められたのは嬉しかったから、ジェラルドにすり寄った。
「あかちゃんを産んでも、僕にできることは、諦めずにいられると思う」
「そうだな。お前だったら、何でもできるよ」
心強い言葉だ。
僕はジェラルドから離れて、その手を引っ張った。彼はそのまま立ち上がって、ジャケットの襟を正す。
ちょうどその時、使用人が、食事の時間だと呼びに来た。
食堂へ向かうと、すぐに料理が出てきた。
ジェラルドのおじいさまと両親は、領地のお屋敷で暮らしている。僕にとっては義理の弟妹たちも、それぞれ家庭を持って家を出た。だから、このお屋敷に暮らしているのは、僕たちだけ。
それでも、ここの食卓はにぎやかだ。僕があれこれしゃべって、ジェラルドは相槌を打つ。
お腹いっぱいになったら、お風呂に入る。しばらく本を読んだりして休んで、寝室に戻って、ベッドに入る。
「ジェラルド」
同じベッドに寝転んで、特に何をするわけでもないけど、抱きついた。ジェラルドは「甘えん坊だな」と笑って、僕を抱きしめてくれる。うれしい。
「きみが甘やかすから、僕が調子に乗るんだぞ」
「自分で言うか?」
ジェラルドはおかしそうに笑って、僕の頭を撫でた。小さい子扱いされているみたいで、ちょっと恥ずかしい。でも、すごく嬉しい。
そのまま大きな掌で撫でまわされていると、ふと手が離れる。顔が近づいて、キスをされた。
「……なあ。さっきの話、本当にいいのか?」
本当に、ジェラルドは、そういうことを気にしがちだ。でもそういう律儀で頑固なところが、大好き。
ためらわず頷いて、抱きしめた。
「うん。僕が、ほしいんだ」
僕はオメガ。そのせいで、たくさんの苦労をしてきた。
だけど今、自分がこの身体に生まれてよかったって、思えるようになった。
その恩人であるジェラルドの頬に、キスをする。僕たちは本当にキスが好きな、お似合いのカップルだ。
「ね……」
僕のおねだりする声に、ジェラルドが身体を起こした。そのまま覆いかぶさられて、僕は歓声を上げるみたいに笑う。
僕たちは二人とも、血を繋ぐ義務を背負った生まれだ。まるで、家畜の交配みたいに、子孫を残すことを求められる。
だけど今、僕がジェラルドに感じている愛しさは、義務じゃない。
僕たちが子どもを持つことだって、逆に持たないことだって、誰にも強制できない。今からすることも、これからすることも、僕たちの意志で行うものだ。
ものすごく、幸せだ。僕は僕自身のもので、ジェラルドもジェラルド自身のもの。
その大切な自分自身を、こうしてお互いに明け渡すことはきっと、愛だ。
唇が降ってくる。僕は甘んじてそれを受けながら、「もっと」とおねだりした。
今のやり方でジェラルドと愛し合えているのは、「僕」だからだ。この身体を持って生まれて、この人生を歩んでこなければ、そもそもジェラルドとの結婚は選択肢にすらなかっただろう。
オメガに生まれてよかったとは、思わない。
でも僕は、僕に生まれて、よかった。
ジェラルドと出会えて、よかった。
「エリス。愛してる」
大きな掌が僕を撫でる。その傷跡の残る掌にうっとりとすり寄りながら、僕はこれまでの人生に、感謝した。
「僕も。いっぱい、愛してる!」




