3 ガリ勉のやや熱血指導教室
邸宅に帰って、真っ先に自室へ向かった。より正確に言えば、僕の勉強部屋として与えられた書斎だ。
そこには、子どもたち――五歳から十歳過ぎくらいまでの、少年少女が集まっている。各々が持ち寄った椅子やクッションに座り、リラックスした様子だ。
僕の日課。使用人や近所の子どもたちに、読み書きを教えること。
最初は予習復習のつもりで始めただけなのに、いつの間にか、こんなに大きな教室になってしまった。やめるつもりはさらさらないけど。
だって、この世界において、読み書き計算は大きな力になる。これができるだけで、子どもたちの人生は大きく変わる。
「みんな、ただいま。宿題はやってきたかな?」
「せんせー!」
僕が声をかけると、みんなが声をあげた。わらわらと集って、配布しているノートを広げる。紙面には、ちいさな文字と数字がひしめくように書かれていた。
どうやら、彼らは宿題を十分こなしてきたようだった。うむ、と頷いて、僕は自分の椅子へ座る。
それに何よりも、みんな、勉強するのが楽しそうなんだ。新しくできることが増えて、嬉しいって。そう言ってくれるのが、僕にとっては何よりの喜びだ。
「それじゃあ、今から順番に見ていく。名簿順に並んでくれ」
側に控えたルークがそっと、机にぶどうジュースを置いてくれる。彼は、僕が最初に読み書き計算を教えた生徒でもあった。僕用のそれをちびちび飲みながら、みんなの宿題を見ていく。
「ここはスペルミスだね。正しくはこうだよ」
「えー。ここのケー、発音してないじゃん……」
「そうだね。でも、文字で書くときは、こうなんだよ。なんでここにケーがあるか、というとね……」
僕の解説に、幼い子どもたちは「ふーん」といまいちピンと来ていない表情だ。それでも根気よく説明する。やがて「もういい。とにかく、ここはケーね」と、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。
「分かればよろしい」
尊大に言ってみせれば、「先生、今度はわたし」と、計算ノートが差し出される。ルークの一番下の妹だ。ひとつひとつ確認して、数字の流れを確認していく。
丁寧な文字で読みやすい。この子は、本当に優秀だ。
「すごいな。よくできている」
「本当?」
目を輝かせる彼女に、ああ、と真面目に頷いた。
「前よりずっと計算が正確だし、解法も綺麗だ。字もすごく丁寧だし、よくがんばってるね」
褒めれば、表情はぱっと明るくなる。僕も、僕も、と次の子が割り込んできた。その子をいなしつつ、彼女へ大きな丸をつける。
やんややんやと授業を進めていると、ドアがノックされた。僕の返事を待たずに入ってきたのは、リチャードお兄さまだった。僕とそっくりの……ただしずっと背が高く、たくましく、いかにもアルファといった風体の男。実際、アルファ。高級官僚の仕事をしている、紛れもないエリートだ。
「エリス。またこんなことをやっていたのか」
顔をしかめるリチャードお兄さまは、「お前たちはこりもせず、図々しいぞ。分をわきまえろ」とみんなを叱責する。僕はむかっ腹が立って、「僕が呼んだんです」と口を挟んだ。
「僕の客人に口を出さないでください」
「ううん、エリス。かわいいお前の言うことは、なんでも聞いてやりたいんだけどね……これだけは口を出すのが、年長者の役目さ」
とろりと甘い表情で、リチャードお兄さまは困ったように微笑む。
「私たちは心配なんだよ。お前はいい成績を取ることへやっきになっているし、なのに彼らの勉強まで見て。優しいのは、いいことだけど」
「で、お前はオメガだから、いい成績を取らなくても大丈夫だし、こんな面倒なこともしなくてもいいって言うんでしょう。出ていってください」
僕が取りつく島も見せないでいると、お父さまが顔を出した。お父さまは僕を見て、それからルークを見る。盛大にため息をついて、こめかみを指で叩いた。
「エリス。まだそんなことをしていたのか。ルーク、ちゃんとお目付け役の仕事をしなさい。また給料を減らされてもいいのか?」
お父さまがルークを睨む。リチャードお兄さまが「そうだね」とルークを見て口を濁した。リチャードお兄さまは、なんでかルークに強く出られない。
「……ルーク。きみも、気をつけたまえ」
お父さまは、お兄さまを軽くにらんだ。不服げに指で顎をさすって、「リチャード」とお兄さまを呼ぶ。
「お前は使用人に甘すぎる。そんな態度では、このライブラ家の跡継ぎとして心配だな」
「父上。エリスの前ですよ」
お兄さまは卑怯にも、僕をダシにしてお説教を回避しようとしている。とはいっても、ここで始められても面倒なのは確か。僕は腕組みをして、二人をにらみあげた。
「今、ルークは関係ありません。出て行ってください」
立ち上がって、お父さまとお兄さまを追い出しにかかった。身体を押して、部屋の外へ出そうとする。だけど、二人ともびくともしない。
僕の抵抗を、二人とも、子猫のいたずらでも見るみたいな顔で見ている。リチャードお兄さまは、困ったように笑った。
「そんなに怒らないで、エリス。お兄さまとお父さまは、ただ、お前のことが心配なんだよ」
ぐう、と言葉に詰まる。兄たちのいろんな発言は、僕を気遣ってのことだと分かっている。だからこそ、悔しかった。
僕を気遣うとき、家族はみんな、「そんなことしなくてもいい」って言う。それで僕が、「これがしたい」ってどれだけ言っても、わがまま扱いしてくるんだ。一応したいようには、させてくれるけど。
だから、もっと力が欲しい。お父さまたちが、「エリスの言う通りだ」って言ってくれるくらい、圧倒的な結果を出したい。黙り込んだ僕に、二人は顔を見合わせた。
「まあ、いい。今日は入学式で疲れただろう。ゆっくり休みなさい」
「エリス、押しかけてすまなかった。あまり無理はするなよ」
はい、と頷いて、また二人の背中を押す。今度こそ、彼らは、追い出されてくれた。
子どもたちは「エリスさま……」と、遠慮がちに僕を見上げる。だから嫌だったんだ。
あんなことを、子どもたちの目の前で言って、この子たちが気にしないわけがない。お兄さまたちは、僕へ優しい。だからなおさら、二人のああいうところが本当に嫌だ。要は、差別的なんだ。差別じゃなくて区別だって、本人たちは言うだろうけど。
ここにいないお母さまもこんな調子だから、ちょっとしんどい。
ルークは気にした様子もなく、僕のグラスへ、ぶどうジュースのおかわりを注ぐ。
僕も、気にしない方がいい。ため息をついて、子どもたちへ微笑みかけた。
「いいよ、あれはお兄さまたちが勝手に言ってるだけだから。ほら、見せてごらん」
促すと、恐る恐る、次の子がノートを見せてくれた。
添削を再開すると、いつもの和気あいあいとした雰囲気が少しずつ戻ってくる。全員分のノートを添削したら、宿題を出して、みんなとばいばいして、次は僕の勉強。
もらったばかりの教科書を読んでいる間に、夕食の時間だとルークが告げる。
食堂で食事をとった。お父さまとお兄さまとは口も聞かない。お母さまはあれこれ話しかけてくるので、その相手をする。
「エリス。学校はどうだった?」
「とても刺激的な場所ですね。様々な人がいて、学びの多い生活になりそうです」
「そうね、よかったわ。無理はしないでね……」
涙ぐんでこちらを見ている。大げさな人だ。お父さまとお兄さまはこの世の終わりみたいな顔でご飯を食べている。僕に嫌われるのが嫌なら、ああいうことを言わないでくれ。
とはいえ家族は、勉強に関しては、僕のことをある程度まで放っておいてくれる。ときどきちょっかいをかけてはくるけど、それだけはありがたい。
入浴して寝支度を整えて、寝室へ。明かりをつけて眠気の限界まで教科書を読み込み、気絶寸前でベッドへ入る。
本当は、もっと寝る間を惜しんでやらないとダメだ。子どもたちに教えることは、だんだん高度になってきている。まだ余裕はあるけど、これからのことを考えると、もっと理解を深めておきたい分野はたくさんあった。それに加えて、新たに習う学習範囲の予習・復習。
全部、やってみせる。これくらいできないでどうする、と頬を叩いた。
またあんな、情けない思いをするのはゴメンだ。
僕に勉強の成績以外に、誇れるものはない。これがなくなったら、僕は、人並みにできることなんか一つもない。だから人より努力しないといけないし、いい成績を取らなくちゃいけない。
それが、僕の存在証明だ。
まずは、打倒ジェラルド。僕は決意を胸に、霞む頭を抱えてベッドへと入った。
ひとまず、今晩は眠ろう。
うつらうつらと意識が沈んでいく中、ジェラルドの爽やかな笑みを思い出した。その大きな手が僕に向かって伸ばされて、握手の感触が、右手に蘇った。




