29 その後
僕たちの学生生活は、本当に濃密なものだった。
婚約に、将来に向かっての勉強。これからの夢を語らった高校の三年間。それに大学の四年間は、かけがえのない時間だ。
僕は、教師への進路を希望した。それを受け入れてもらうには時間がかかったけど、僕はやり遂げた。
大学を卒業して、今年の春から、小学校の先生として働けることになった。
お兄さまとルークの騒動で、家は大きく揺れた。そのおかげで、どさくさに紛れつつ、僕はジェラルドと婚約を結ぶこともできた。とはいっても、正式な婚約者になるのは、高校の卒業まで待たなくちゃいけなかったけど。
最終的に、全部、僕とお兄さまの希望が通った形になる。お父さまとお母さまはちょっと老けた気がするけど、気のせいだろう。
ルークは最後まで渋っていたけど、最終的に受け入れたらしい。らしい、というのも、僕の視点からだと、ルークがちょっと唐突に折れた感じだったからだ。
僕が高校を出て、大学へ入った年の夏。
予定にないヒートを迎えたルークと、二人きりで一週間を過ごしたお兄さま。
やっと出てきたルークのうなじには、バッチリ、噛み跡があった。シーツでみのむしみたいになっているルークと、彼を抱えてやたらと上機嫌のお兄さま。二人がお風呂に入って落ち着いてから、僕は「ちょっと」といぶかしんだ声をかける。
お兄さまは、せっせとルークの髪を拭いていた。僕をちらりと見て、「なんだい」と尋ねる。
「まさか、嫌がるルークへ、無理やり迫ってないですよね。もしそうだったら、いくらお兄さまでも、絶対許しませんよ」
「ち、ちがうんです、エリスさま」
ちょっとぽやんとした顔のルークが、おろおろと首を横に振る。頬が赤い。
「お、おれから……その……」
なんていうことだ。
詳しいことは聞かないけど、僕はあんぐりと口を開けた。そのままお兄さまとルークの顔が近づく。二人は、すごく仲睦まじい様子だった。
めら、と、どす黒い嫉妬の炎が渦巻く。
ルークは僕のだし、お兄さまも僕のだ。
それに僕だって、ジェラルドと「そういうこと」をしたいのに。僕の「そういうこと」はダメって言う割に、自分たちはいいのかよ。
納得いかなくて、僕は家を飛び出した。
当時、僕たちは未成年だったことを理由に、深い接触を禁じられていた。なんでかディープキスがバレてしこたま怒られ、バードキス以上のことを禁止されたのだ。
その禁止している当人たちがこんなんで、納得いくわけがない。
腹いせにジェラルドとエッチなことをしてやろうと、マクソン家を訪ねた。結局ジェラルド本人に「自分を大切にしろ」とめちゃくちゃ怒られて、そのまま家に帰されたんだけど、どさくさでディープキスまでは成功したのでよしとした。
それと似たようなことが、何回もあった数年間だった。
お兄さまは当主になり、ルークはその配偶者になった。二人の間には子どもも生まれて、家が一気ににぎやかになった。
当初はいろいろ反対していたお父さまとお母さまも、孫にメロメロ。これでこの問題は、収まるところに収まったと思う。
それで、僕の方も、その時が来た。
白いタキシードを着て、頭にヴェールを被る。婚礼衣装を着た僕を見て、お父さまとお兄さまはボロボロに泣きはじめた。お母さまも涙ぐんでいる。まったく、仕方のない人たちだ。もうすぐ式場へ入るっていうのに。
式場の中からは、たくさんの招待客たちのざわめきが聞こえる。係員から花束を渡されて、家族を見た。呆れながら首を横に振る。
「なんで僕じゃなくて、あなたたちが泣いているんですか」
そもそも、この人たちが「就職するなら結婚しなさい」とか要求したのが、この式のきっかけだったっていうのに。まあ、僕としては、別に構わなかったけど。
ルークの方へ寄ろうとしたら、足元の甥っ子が、よだれでべたべたの手で触ろうとしてきた。いつもだったら大丈夫だけど、今日は晴れ着だから、ちょっと逃げる。
「ダメだよ、こっちにおいで」
ルークが、ひょいと抱き上げてくれた。すっかり親の顔になって、子どもをあやしている。
入場の合図の、ファンファーレが鳴った。顔を上げて、「ほら」と、お父さまを急かす。
「お兄さまと散々喧嘩して、譲ってもらった、僕との道行きですよ。行きましょう」
「ああ。この物言いも、もうなかなか聞けなくなるのか……」
この物言いとはなんだ、この物言いとは。だけどそう言われるとなんだか、胸が切なくなって、鼻の頭がつんと痛んだ。式場内への扉が開く。
お父さまが、鼻をすする音が聞こえた。僕も涙をこらえながら、式場の奥へと続く、赤い絨毯の道を見つめた。
たくさんの招待客。道の向こうには、もう、ジェラルドが待っている。
お父さまはジェラルドのところまで、ゆっくり、ゆっくり、僕を連れていった。惜しむみたいな足取りだった。
だけど僕はさっさとお父さまから手を離して、ジェラルドの手を取る。
ヴェール越しでジェラルドに微笑みかけて、「行こう」と促す。
「はやく結婚したい」
エリス、とお父さまの悲痛な声が聞こえた。ジェラルドはお父さまを一瞥してから、仕方ないと言わんばかりに頭をかく。
「独身最後の一言だぞ。せっかくだし、何か言っておいたらどうだ?」
そうか。独身最後の一言か。
たしかに、この結婚を機に、僕はライブラ家を出る。でもそれは、僕を決定的に変える出来事というわけじゃない。
僕が決定的に変わった結果として、この結婚があるだけだ。だから、今この瞬間は、僕に大きな変化をもたらすわけじゃない。
でも。
お父さまを、もう一度見る。涙を拭いながら、僕を見ていた。
まったく、いつもながら、仕方のない人だ。後ろを見れば、同じように涙を流すお母さまと、それを支えるお兄さまとルークがいる。
正直に言えば、僕は家族に受けたたくさんの仕打ちを、根に持っている。恨んですらいる。
だけど、恩がないわけじゃない。愛していないわけでも、ないんだ。
「それでは、行ってまいります」
きっと僕たち親子は、一生分かり合えないんだろう。
お前はオメガだからって、たくさんの制限をかけられた。たくさん傷つけられた。彼らが僕を愛していることは、僕にとって、なんの免罪符にもならない。
だけど僕は、この人たちから、たしかに愛されていた。彼らなりの独りよがりな方法で、大事にされていた。僕もまた、彼らを愛してしまっている。
「どうかそちらも、お元気で」
ありがとうなんて言えないけど、これくらいは、言ってあげよう。返事を待たずに、ジェラルドに寄り添った。振り返らずに、その先を歩き始める。
「あれでよかったのか?」
ジェラルドが尋ねてくるから、うん、と頷いた。ジェラルドは、低く、小さく笑った。
「お前はやっぱり、優しい」
まったく、困ったものだ。ジェラルドはあんなに賢いのに、僕に対して盲目すぎる。ありがとうも言わないなんて、結構ひどい仕打ちだと思うんだけどな。
そしてとうとう、祭壇の前に着く。僕たちは立ち止まって、司祭の言葉を待った。
結婚についての説教。それから、誓いの言葉。
みんなの前でお互いの愛を宣誓して、指輪を交換する。
ジェラルドに手を取られて、左手を差し出す。長い指が指輪をつまんで、ゆっくり、僕の薬指に通す。すっぽり嵌まる重みが、愛しかった。
僕もジェラルドの手を取って、左手の薬指に指輪を嵌める。少し震える指先を、あやすみたいに、ジェラルドが握った。
「エリス」
名前を呼ばれて、いよいよ泣きそうになる。なんとか指輪を嵌めると、ジェラルドも、泣きそうな顔で微笑んだ。
それでは誓いのキスを、と言われて、ジェラルドがヴェールに手をかける。
視界が鮮明になる。ジェラルドは少し背を屈めて、僕へ顔を近づけた。
高校時代からも背が伸びて、今は僕より頭ひとつ分背が高い。身体つきも、ずっと逞しくなった。
からかうみたいに、ハンサムな顔が笑みの形に歪む。
「泣いてるのか?」
「泣いてない」
鼻をすすって、抱き着くみたいにジェラルドの肩へ手を置く。背伸びをした。
ジェラルドは「いじっぱり」と囁いて、僕の腰へそっと手を当てる。そのまま引き寄せて、僕たちはキスをした。
みんなが、わっと手を叩く。僕たちは顔を離して、もう一度唇を合わせた。
お互いの熱が、じんわりと融け合っていく。やわらかな感触に、うっとりした。
舌を入れようとしたら、引きはがされる。不満を全面に押し出して「なんで」と聞くと、ジェラルドは顔を真っ赤にした。
「そういうのは全部、今晩やるから、いいんだよ」
そうか。夜か。
なら、いいか。
僕は上機嫌になって、ジェラルドの腕にしがみついた。
「ジェラルド。愛してる」
こっそり囁くと、ジェラルドは、僕の頬にキスをした。
また式場の中が、わっと湧いた。祝福の声が響いていたこの景色を、僕はきっと、死ぬまで忘れないんだろう。




