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24 たすけて※暴力・性的暴力の描写あり

暴力・性暴力表現があります。

 先輩は、僕を空き教室へと連れ込んだ。

 僕を部屋の奥に立たせて、鍵をかける。

 逃げ出したい。でも、足が竦んでいた。


 窓から、夕方の日差しが差してくる。エネメラ先輩の大きな身体を、オレンジ色の光が明るく照らした。

 陰影の濃い表情で、彼は微笑む。


「やっと二人きりだ」


 僕が一歩後ずさると、彼は一歩踏み込んでくる。

 あっという間に、窓際へと追い詰められた。背中はガラス窓。後頭部がぶつかって、がたんと音を立てた。

 身体が震える。足に力が入らない。それでも、必死に顔を上げた。


「どうして、僕をここへ連れ込んだんですか。やめてください」

「きみが、僕を拒むからだろう」


 諭すように、先輩は言う。首を横に振っても、先輩は「きみが悪いんだよ」と念押しする。


「きみが、オメガなのに、アルファの僕を拒むのがいけない。僕たちは、番になって完成するんだ」

「は……?」


 ぞ、と産毛が逆立つ。先輩は、何を言っているんだ。

 彼は虚ろな瞳で、僕を見下ろした。夕焼けが痛いほど赤く、彼の顔を照らしている。


「オメガとアルファは番になるべき存在だ。僕はアルファだから、オメガの伴侶を得るべきだ。それでやっと、僕は、完璧になれる……」


 今ここではないどこかを、彼は見ている。囚われている。僕は、茫然と彼を見上げた。


 アルファの人口は、少ない。オメガの人口は、もっと少ない。

 アルファは理想の支配者として、オメガは理想の伴侶として、熱望される性別だ。

 そしてアルファにとって、オメガと結ばれるということは。一種の、社会的成功を指す。

 彼が言っているのは、たぶん、そこから来ている。


「僕の学業が振るわないのも、きみと結ばれることで克服される。だからきみは、僕の番になるべきだ」


 僕の胸に、恐怖以外の感情が、どろりと湧き出した。

 同情だ。

 なんとなく、彼の境遇は想像できる。

 アルファは、とにかく優秀であることを求められる。文武両道、容姿端麗、正しくあれ。お兄さまと、お父さまとお母さまは、それを難なくこなして生きてきた。

 それができない人だっているだろうことも、分かる。

 先輩はきっと、求められるようには、できなかった人なんだ。


「……それで、あなたのために、僕が欲しいと言うんですね」


 からからの喉で尋ねれば、彼はいやいやと首を横に振った。


「違う。きみのためでもある。きみも、僕と結ばれることで完璧になる。アルファとオメガは、番なのだから」


 もうめちゃくちゃだ。はやく逃げ出したい。でも、こんな可哀想な人を放っておけない。

 僕はどうしたらいいんだろう。

 先輩の目が、僕に焦点を合わせる。


「だから、きみを僕の番にする。これまでは、随分甘やかしてやっていたね。もっとはやく、こうするべきだった。反省している」


 なるほど、と納得した。きっとこれが、彼にとっての正気なんだ。まだ冷静な自分がどこかにいる。

 生唾を飲み込んで、俯いた。


「先輩は、そんなことしなくても、完璧ですよ……」


 見ていられない。憐れんでしまう。

 求められることと、できることの不一致は、苦しい。それは僕も、よく分かっているから。

 だけど先輩は、煩わしそうに「そういう話じゃない」とつま先で床を叩いた。


「現実として、僕の成績が振るわないのは確かだ。だけど僕ときみが結ばれれば、きみの功績は僕のものになる。逆もしかりだけどね」

「違います。僕の功績は僕のもので、あなたの功績は、あなたのものだ」


 だんだんと、恐怖が剥がれ落ちていく。心の底から来る怒りが、露わになっていく。僕は拳を握りしめて、彼を睨み上げた。だけど先輩は、ちっともこたえてないみたい。

 首を横に振って、僕の肩に手を置く。力が込められた。骨が軋むほど、強く握られる。僕が悲鳴をあげてもおかまいなしだった。

 バタークリームの香りが、強くにおう。むせかえるほどのそれに、僕の意識が、遠くなりかける。

 唇を噛んでこらえた。口の中に、血の味が広がる。身体の奥底がふつふつと煮立って、欲望を訴えてくるけど、我慢だ。

 この欲に負けた瞬間、僕は、僕でいられなくなるから。


「誰か、――!」


 助けを呼ぼうと声を上げると、掌で口をふさがれた。そのまま床へと押し倒される。ごちん、と後頭部が硬いフローリングへ落ちて、視界に火花が散った。

 エネメラ先輩は僕に覆いかぶさって、僕の首筋へ顔を埋めた。ネックガードへ、唇が触れる。


「無駄だよ。お前が、お前が悪いんだから」


 口元を塞がれて、鼻で呼吸するしかない。どんどんエネメラ先輩のフェロモンを吸い込んでしまう。意識が遠くなっていく。抵抗しなくちゃ。指を噛もうと歯を立てたら、喉奥まで指を突っ込まれた。おえ、と反射的に吐き出そうとすると、舌を引っ張り出される。

 屈辱だ。泣きたくないのに、目から涙がぼろぼろ落ちる。

 エネメラ先輩は顔をあげて、恍惚とした笑みを浮かべる。


「ああ、かわいらしい。エリス。きみは、僕の、運命の番だ」


 もうダメだ。目の前が真っ暗になる。

 このまま殺されるかもしれない。それは、肉体的な意味ではなかった。

 僕の尊厳とか、生きる意味とか、そういう大切なものぜんぶ、きっとここでなくなる。

 運命とか、番とか、本当はどうでもいい。


 僕はジェラルドが好きで、彼以外に触れられたって気持ち悪いだけ。それにジェラルドは、こんな無理矢理、僕に触ったりなんかしない。

 たすけて。


 夕日が僕たちに降り注ぐ。エネメラ先輩の顔が逆光になって、でも、目だけが爛々と輝いていた。

 もうダメだ。僕は目を瞑って、せめてもの抵抗に、舌ごと指を噛もうとして。


 どん、と、教室の扉が鳴った。もう一度、どん、と鳴る。

 先輩の動きが止まった。


「エリス、いるか!」


 ジェラルドだ。すぐに分かった。

 僕は咄嗟に舌を引っ込めて、口に突っ込まれた指を、思い切り噛む。

 エネメラ先輩は怯んで、手を引いた。その隙に、「たすけて」と叫んだ。


「たすけて……!」


 言ったそばから、先輩に頬を強くはたかれる。じんと痺れるみたいに痛かった。そういえば、人から暴力を振るわれるのなんか、人生で初めてだ。


「うるさい」


 先輩は、血走った眼で僕のネックガードへ手を伸ばす。噛まれる。本能が恐怖を叫んだ。

 やめて、と叫びながら、先輩の腕をどかそうとする。だけどそんなの、全然意味がなかった。

 鎖骨の上で結んでいた紐をほどかれて、呆気なく、ネックガードが外される。露わになったうなじが、外気に触れて震えた。

 身体をひっくり返される。ジェラルドはまだ、扉を叩いていた。うつ伏せに押さえつけられて苦しい。頬が床へべったりとついて、眼鏡のフレームが歪む。


 ああ、もう、ダメだ。

 諦めて、目を瞑る。

 一瞬、扉を叩く音が止んだ。教室がしんと静まり返って、先輩の、獣みたいな息遣いだけが聞こえた。


「……しゃらくせぇなッ!」


 ぱりん、と、破裂するのに似た音が聞こえる。それがガラスの割れる音だと気づいたのは、ジェラルドが飛び込んできてからだった。

 廊下側の窓ガラスを割って、サッシに手をかけて、彼は飛び込んできた。エネメラ先輩は、一瞬動きを止める。

 ジェラルドは、それを見逃さなかった。一息に先輩へタックルして、僕の上からどかす。ジェラルドの触れたところに、べったりと血がついた。

 そして上乗りになって、彼を抑えつける。先輩の方が体格はいいけど、身体の動かし方は、ジェラルドの方が上手いみたいだった。

 アルファ二人分のフェロモンが混じって、くらりと脳髄を揺さぶる。

 ジェラルドが叫んだ。


「エリス。先生呼べ!」


 その声で、弾かれたみたいに立ち上がった。むき出しのうなじもそのままに、つんのめりながら必死で動く。

 震える手で内鍵を外した。教室から飛び出して、誰か、と叫ぶ。人影を、必死で探した。

 昇降口近くに、大人がいた。通りすがりのその人にしがみついて、叫ぶ。


「た、たすけてください。先輩に、襲われて……!」


 その人は血相を変えて、僕を保護してくれた。すぐに応援を呼んでくれた。

 あの空き教室に、何人も先生たちが向かったらしい。二人とも、そこで取り押さえられたそうだと、職員室で聞いた。

 僕は事情聴取のために、しばらく引き止められた。あたたかいお茶を出されて、ちょっとずつ、舐めるみたいに飲む。

 先生たちの様子からして、相当の大騒ぎになるみたい。それは、そうだろう。僕とエネメラ先輩は、それなりの高位貴族の息子だ。それに対して、ジェラルドは、貴族の養子。爵位も、僕たちより低い。


「ジェラルドは……」


 でも僕は、はやくジェラルドに会いたかった。抱きしめてほしい。そうでなければ、ちっとも安心できない。

 あんまりしつこく彼を呼んだからだろうか。ずいぶんと時間が経ってから、彼が顔を出した。手には包帯が、ぐるぐるに巻かれている。


「エリス」


 名前を呼ばれた。たまらなくなって、彼に抱き着く。


「よかった。よかったぁ」


 涙が込み上がってきて、止まらない。しゃくりあげる僕を、ジェラルドは、ぎこちない手つきで抱きしめてくれた。

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