23 前進と障害※性的暴力の描写あり
性暴力表現があります。
週末のお休みを挟んで、また登校する。ぼーっとしているうちに、平日最後の授業日になった。
ジェラルドが学校へ来ないまま、二週間が過ぎた。
隣の席にジェラルドがいないのにも、ちょっと慣れてしまった。だけど、寂しいことに変わりはない。
それから、僕の方にも、いろいろと変化があった。
「ライブラくん、ちょっといい?」
クラスメイトの女子が、首元のリボンを揺らしながら、教科書とノートを持って僕の机へやってくる。顔をあげて、身体ごとそちらを向いた。
「どうかした?」
「今週中までの課題、まだ終わってなくて……分からないところがあるから、教えてほしいの」
快く頷くと、彼女は机にノートを広げた。僕はもう解き終わった課題だから、ある程度は解説できる。
今度は、男子が僕へダル絡みしてきた。僕の肩に肘を置いて、体重をかけてくる。
「ライブラ。その答え、写させてくれよ」
「ダメ。適当に椅子持ってきて。教えてあげるから」
即答で断ると、「仕方ねぇな」と言いながら、ジェラルドの椅子を引っ張ってきた。
そう。僕はクラスの中で、新しい地位を獲得した。
勉強ができて、頼めば教えてくれる人。たぶんジェラルドよりも教え方が根気強くて、分かりやすいんだろう。なんとなく、周りの反応から分かる。
「ライブラくんの説明、分かりやすくてほんとに助かる。何度間違ってもいいって、安心して聞けるし」
「あと、馬鹿の気持ちを分かってくれるんだよな。助かる。ジェラルドの説明は分かりにくいんだ……」
「ちょっと。ここにいない人の悪口は、よくないわよ」
女子の方は、一般入試組。男子は推薦入試組。
彼女の成績は悪くないけど、応用問題で躓きがち。こっちの彼は成績が最悪で、基礎から教えないとちょっとまずい。
ジェラルドは天才で、地頭がすごくいい。だからきっと、彼くらいの頭の良さがある人にだったら、すごく分かりやすい説明をするんだろう。
とはいえ、世間一般的に、そんな人は滅多にいない。だから僕みたいな人間は、教え役として重宝される。
僕には、「分からない」ってことが、分かるから。
恐らく僕は、教師に向いている。
これまで僕を馬鹿にしてきた連中にも、頼まれれば、僕は勉強を教えた。何人かは、これまでの態度を謝ってくれた。
だから、これでいいんだと思う。これまでの、学力なんて物差しだけに囚われていたところから、一歩前へ進めた。
「……はい。これで、解けるはず」
「あ、ほんとだ。解けた!」
はしゃぐ彼女の横で、彼はまだ唸っている。そちらへのフォローを入れている間に、予鈴が鳴った。
彼らは口々に「ありがとう」と言いながら、席へと戻る。周りの生徒が何人か、僕を見ながらぶつぶつ呟いた。
「ライブラ。オメガのくせに、調子に乗りすぎじゃないか? アルファの彼に教えるだなんて。教えられる方にもプライドはないのか?」
「言ってやるなよ。あいつもアルファのくせに、成績不振の落伍者だ。おかしくなっても仕方ない」
本当に、失礼な人たち。僕は奴らを睨みつけて、机に広げたノートや教科書を仕舞った。彼らはこたえた様子もなく、僕を睨み返した。
ホームルームが始まる。ジェラルドは、今日も休み。さすがに心配になって、彼の席をちらりと見た。
最後に会ったとき、家を継ぐとか言っていた。その関係で、忙しいのかもしれない。
でも、会いたい。
いつも通りの日常が始まる。授業を受ける。それが終わって放課後になれば、図書室へ向かう。
図書室に着いたら、教科書とノートを開く。最近は問題を解くより、教科書の内容をまとめ直すことの方が多い。
問題を解けば、学習内容の理解度は上がるだろう。だけど、それじゃ人に伝えられない。
だから、ノートにまとめる。そうすれば、ノートを貸して、人に教えられるから。
僕はノートを贅沢に使える。もちろん、この学校へ通う人たちのほとんどは、こういう風にノートを使えるだろう。
だけど僕は、きっとこれから先、何度もジェラルドのノートを思い出す。
みんながみんな、ノートを贅沢に使えるわけじゃないこと。
それだけが全てじゃないけど、きっとこういうちいさな積み重ねが、大きな差を生む。その差は、人を困らせる。
生まれつく家も、生まれつく身体も、人は選べない。だったらせめて、僕はその差を、少しでも埋めたい。
そのために、勉強をするんだ。
先生になって、いろんな人に、勉強を教えたい。
小さなことしかできないとしても、僕はジェラルドの言う通り、勇敢なエリスだ。
だから、そんな自分の無力さに怯みなんかしない。
ジェラルドがそう言ってくれた。ルークが伝えてくれた。そんなの、止まれるわけがない。
エネメラ先輩と、結婚はしない。僕は、僕の人生を、自分で選ぶ。そうしたって、いいはずだ。
必死でノートを作っていると、向かい側の席が引かれた。ぱっと顔を上げると、そこにいたのは、エネメラ先輩だ。
反射的に、指先が強張る。
「やあ、エリス。がんばってるね」
深く息を吐く。意を決して、にこり、と微笑みかけた。
「こんにちは、先輩。何かご用ですか?」
「つれないね。僕ときみの仲だというのに……。がんばっている愛しい人をねぎらうのに、理由がいるのかな」
まるで恋人みたいに、僕のことが好きみたいに振る舞っている。だけどその目つきは、獲物を狙う肉食獣よりも鋭くていやらしい。
それは、僕を支配しようと思っている声だ。動物的な本能で、彼を怖いと思う。だけど理性でねじ伏せて、顔をあげた。
こちらは、とっくに限界だ。この人に付きまとわれて、怖い。
理性で喉を震わせた。
「先輩。僕のことが好きでもないのに、こういうことをするのは、やめてください」
「なんだって?」
眉間にしわを寄せて、顔をしかめる。だけど僕は、負けじと睨み返した。
「あなたが僕を愛していないことくらい、分かります。あなたが欲しいのは僕じゃなくて、ライブラ家のオメガ。違いますか?」
「エリス。ごめんね、それになんの違いがあるのかな?」
彼は人差し指でこめかみを叩いた。納得していない、と言わんばかりに、僕を見つめる。僕は拳を握りしめて、膝を軽く叩いた。
「全然、違います。あなたが欲しいのは僕個人じゃなくて、オメガですよね」
「ううん、違う。僕が欲しいのは、きみだよ。エリス」
話が通じない。背筋に、ぞわぞわと悪寒が伝う。
お父さまとお母さまに対して、話が通じないと思った経験は、何度もある。二人の主張を分かってほしい、従ってほしいって、たくさん反論があった。すごくもどかしかった。
でもエネメラ先輩は、違う。
たぶん根本的に、理解の仕方が違う。
僕は、荷物をまとめ始めた。手早く教科書を仕舞って、筆記用具も筆箱へ戻す。手早くかばんへ突っ込んで、「失礼します」と立ち上がった。
この人は怖い。逞しい身体も、整った顔立ちも、醸し出される強者の雰囲気も、ぜんぶ怖い。
「おや。もう帰るのかな」
彼は片眉をひょいと上げて、僕を見上げる。頷いて、僕は図書室を飛び出した。
廊下を、はしる。はしる。はしる。
注意されても、足を止めずに。
まだ校門に、迎えは来ていないだろう。でも、帰りたかった。
本能が、彼に怯えている。
少しだってあそこにいたくなかった。もう、彼と二人きりでいるのは、怖い。今は逃げなくちゃ、僕自身を守れない。
ちょっと早いけど、もう帰ってしまおう。それに明日は、「教室」の日だ。家族には、みんなに教える準備をするために、早く帰ったって言おう。
昇降口を出て、校門へと向かう。もうとっくに息切れしていた。のろのろと歩くみたいに走る。
その時だ。
「エリス。待ってくれ」
エネメラ先輩の声。バタークリームのにおい。腹の底から熱が込み上げてくるほど、強烈な。
身体が強張って、立ち止まる。背後から抱き着かれた。逞しい身体と、熱い息遣い。
僕の酸欠の身体は、ぐにゃりと視界を歪めた。
「僕には、きみだけなんだよ。エリス」
怖い。
先輩は、汗まみれの僕の項へ鼻筋を当てた。変な声が漏れる。先輩は「かわいい」と言った。
ぞわり、と身体中の産毛が逆立つ。
「素直になれないきみが悪いんだ」
うそぶいて、先輩は、僕の手を引いた。
僕は手を引かれるまま、歩く。振りほどけない。逃げられない。
助けて。心からそう願うのに、誰を見ても、こちらをぽかんと見ているだけ。
僕の首元を見て、納得したように頷く人。うらやましそうに眺める人。アルファとオメガのロマンスにときめいている人。
違う。そう言いたくても、声が出なかった。
助けて。誰か。
ジェラルド。




