22 お兄さまの秘密
それからというもの、家中がぎくしゃくしていた。
お父さまとお母さまは、僕に対してどう接したらいいのか分からなくなっているみたい。あちらから話しかけてくることは、ほとんどなくなった。
その代わり、使用人たちが、しきりにエネメラ先輩の噂話をしてくるようになった。どうやら二人は、彼らを通じて、エネメラ先輩に好印象を持たせようという戦略を取ったらしい。
彼はすごく優しいだとか。運動神経抜群だとか。動物愛護の精神にあふれているだとか。紳士的だとか。
まったく、うんざりだ。あの人が優しいわけない。それに、他の事柄はどうでもいい。
もしそう見えていたとしても、僕はそうだとは信じられなかった。あんな自己顕示欲のかたまりみたいな人、上っ面だけだろう。
家の中の居心地は、最悪。そんな中でも、ルークだけはいつも通り接してくれるのが、ありがたい。
あとは意外なことに、リチャードお兄さまが、助けてくれるようになった。
「坊ちゃま。エネメラ家のご子息が、こんな贈り物をしてくださいましたよ」
侍女が、僕に豪華な花束を見せる。受け取りたくない。花に罪はないけど、いらない。
けれど彼女は、「飾っておきますね」とにこにこ微笑んでいる。困った。このままだと、僕の部屋へ飾られてしまう。
どうやって切り抜けようかと考えていると、お兄さまが通りかかった。
「花束か」
侍女はくるりと彼に振り向いて、花を得意げに見せた。
「ええ、リチャード坊ちゃま。エネメラ家からです」
「そうか。では、玄関にでも飾っておきなさい」
侍女は目を剥いて驚く。だけどお兄さまは平然と、「聞こえなかったか?」と、念押しをした。はっと我に返って、彼女は頭をさげる。
「は、はい。では、そのように」
そのまま、そそくさと立ち去っていった。お兄さまは僕に微笑みかけて、それからルークを見た。
「じゃあ、これで」
そのまま、彼はどこかへ行ってしまった。僕はルークと顔を見合わせる。
「あれ、なんだったんだろう」
「さあ。気紛れじゃないですか?」
ルークが吐き捨てるみたいに言うから、二人は何か喧嘩でもしたのかなぁ、と思った。
それから学校には、ちゃんと行っている。だけどジェラルドは、まだお休みのままだ。先生も、彼はしばらく学校を休むと言っていた。
だから、図書室での自習は、僕ひとりでやっている。僕はここで、ジェラルドを待つんだ。
あの日の言葉の続きを、もらうために。
その僕の隣に、人が立った。顔をあげると、エネメラ先輩だ。
「やあ、エリス。ここに座っても?」
エネメラ先輩は、変わらず僕へちょっかいをかけてくる。僕はにこりと微笑んで、そのままページへと視線を戻した。
彼は僕の向かいの席に回って、座る。頬杖をついて、僕を見つめた。勉強しないんだな、と、頭の片隅で思った。
「エリス、私からの贈り物は受け取ってくれたかな?」
「家には届いていましたよ」
あえて曖昧な答えを返す。先輩の唇が、ちょっと引きつった。
僕は気づかないふりをして、ノートへ視線を戻す。ここにジェラルドが戻ってきたとき、彼に恥ずかしいところなんか見せたくない。つまり今の僕は、とても勉強のやる気にあふれていた。
ふと疑問に思ったことがあって、視線だけ上げる。
「先輩は、勉強しないんですか?」
彼は苦虫をかみつぶした顔で、「用事を思い出した」と立ち上がった。それならそれでいい。
僕は手を止めて、「さようなら」と軽く頭をさげた。エネメラ先輩は立ち上がって、僕の側へと回る。
その大きな掌が、僕の上に伸ばされた。身構えると、そのまま、手が頭に当たる。ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱すように、撫でられた。
「きみは本当に、いい子だ」
バタークリームの香り。僕は笑みを浮かべながら、彼を睨み上げた。
「そうでしょうか?」
「いいや。今は、ちょっと悪い子かも」
そう言って、彼は僕の頭を、ぽんぽんと軽く叩いた。そのまま立ち去っていく。
なんとなく、触られたところに、軽い違和感があった。僕は自分の頭を撫でなおしつつ、勉強へと戻る。
ジェラルドは、いつ戻ってくるんだろう。そんなことばかり考えていた。
彼が学校へ来たら、絶対、あの日に彼が言いかけた続きを聞くんだ。僕の予想だけど、きっと、そんなに悪いことを言うつもりはなかったんじゃないか。
はやく、ジェラルドに会いたい。それでちゃんと話をして、ありがとうって言おう。
褒めてくれて嬉しかったって。僕は、きみが好きだって。
ペンを持って、ノートへ書き込みはじめた。
気づくと、ルークが迎えに来てくれる時間になっていた。荷物を手早くまとめて、校門へと向かう。
だけど、そこにいたのは、ルークじゃなかった。
リチャードお兄さまが、僕を見て手を振る。
「お兄さま」
驚いて足を止めると、彼は「おかえり」と言って、歩み寄ってきた。
「ルークがヒートになったから、私が代わったんだ」
「そんな……誰かに任せればよかったのに」
ルークがヒートに入ったときは、いつも使用人の誰かが代わりに、僕の送迎をしてくれていた。
なのに、お兄さま自ら、それをするだなんて。
「いいんだよ。私が、ルークに」
そして、口をつぐんだ。彼はごまかすように顔を上げて、明るい声を出す。
「懐かしいな。私もここ出身だから……あの頃と、何も変わっていない」
そう言って、逞しい首を回して、ぐるりと辺りを見た。
なんでか、お兄さまが、いつもより近くに感じられた。最近の彼は、何かと僕を助けてくれるし。
「お兄さま。ありがとうございます」
「お前にお礼を言われるようなことを、した覚えはないよ」
そう言って、お兄さまは僕の頭を撫でる。その優しい手つきに、うっとりと目を細めた。だけどすぐに、は、と我に返る。ちょっとだらしないところを見せてしまった。これからはもっと、しっかりしなきゃいけないのに。
お兄さまは僕を見て、とろけるような笑みを浮かべる。
「学校は、楽しかったかい?」
「つまらないです」
「そうか。それは、どうして?」
ちょっと迷って、お兄さまを見上げる。その優しい表情に、指を組んだ。
ぎゅっと目を瞑って、言う。
「……好きな人が、学校へ来ていないから」
とうとう、言った。恐る恐る目を開けると、お兄さまは、呆然としている。
そうか、と頷いた。僕は、どきどきしながら返事を待つ。
「お前にも、好きな人がいるのか」
お兄さまは静かに言った。僕の手からかばんを取り上げて、ゆったりとした足取りで歩き出す。
僕もその横について歩く。頭ひとつ分高いところにある、お兄さまの横顔を見上げた。どこか遠くを見ていて、何か思い悩んでいる顔だった。
「お兄さまにも、好きな人がいるんですか?」
「……お父さまたちには、内緒だよ」
ぎこちなくて、苦い笑み。でも穏やかな目で、僕を見下ろした。
僕が大きく頷くと、「許されない恋なんだ」と、お兄さまは言った。
「でも、私は、諦めるつもりはない」
「じゃあ、僕と仲間ですね。僕もきっと、歓迎してもらえる相手じゃないから」
貴族の血は尊ぶべきもので、繋がれていくべきもの。その相手は、慎重に、ふさわしい方法で選ばなければいけない。競走馬の交配みたいに。
きっとお兄さまの相手は、一般的にふさわしいと言われる相手ではないんだろう。でも。
「僕は、応援します。お兄さまのこと。相手が誰かも、どんな人かも聞かないけど、応援します」
そう言って見上げると、お兄さまは僕を見つめた。そして、とろけるような、優しい顔で僕を見下ろす。
「本当に、エリスは優しい子だ」
まったく、大げさな人だ。ふん、とそっぽを向く。
「拗ねないで、エリス」
大きくて優しい掌が、僕の頭を撫でた。




