12 ガリ勉、勝負をかける
昨日は結局、ルークがはやい時間にやってきて、さっさと寝かしつけられてしまった。ろくに勉強できなかったけど、おかげで目覚めはかなりすっきりしていた。
いつも通り過ごせばいい。そう自分に言い聞かせて、教室の扉を開ける。
入った瞬間に、じっとりと、クラス中からねばついた視線が向けられた。僕がたじろぐと、ひそひそといくつかのグループが話し出す。
何を話しているかまでは分からないけど、なんだか嫌な感じだ。席までそそくさと向かう。隣のジェラルドは僕を見て、ぎこちなく微笑んだ。
その強張った表情に、僕の指先も固まる。
「……おはよう。エリス」
どうしよう。恥ずかしくて、気まずくて、正面から彼を見られない。僕は火照る頬を押さえながら、「おはよう」とちらりとジェラルドを見た。彼はすぐに視線を逸らして、本を開く。
話したかったけど、邪魔したら悪いかな。僕も教科書を出して、黙々と読み始めた。
周りがひそひそ噂話をする声が、とぎれとぎれに聞こえる。
「あんなの見た後だと、やっぱ……」
「オメガってああなるんだな」
「すげーエロくていい感じ……」
ジェラルドが音を立てて立ち上がる。話していたグループへ歩み寄って、彼らの中に加わった。すぐに話題が変わって、今度の期末試験の課題について話し始める。
それがなんだか、僕への裏切りみたいに思ってしまって、顔を伏せた。
僕は、その輪に入れない。
あんなことを話す人たちと、話したくない。
クラス中から僕に向けられる、粘着質な視線はそのままだ。拳を握りしめて耐えた。
結局、放課後になるまで、ジェラルドとは話せなかった。僕は駆け足で教室を出て、図書室へと急ぐ。
そうしたらきっと、ジェラルドと二人になれるはずだ。一緒に勉強ができるだろうと思って。
「ライブラくん。走ってはいけないよ」
声をかけられて立ち止まる。僕を呼び止めたのは、エネメラ先輩だった。
思わず、じり、と一歩後ずさる。なんとなくこの人には、あまり関わりたくない。
彼はにこやかな表情で、だけど、どこか心配そうな声色で言った。
「体調を崩していたと聞いたよ。大丈夫かい?」
「は、い。大丈夫です」
はやくジェラルドのところに行きたい。そわそわしながら、廊下の奥をちらりと見る。エネメラ先輩は僕を見ながら、すっと目を細めた。
「とうとう発情期が来た、と聞いたよ。おめでとう」
どくん、と心臓が嫌な跳ね方をした。発情期という言い方が、僕は本当に好きじゃない。まるで獣みたいじゃないか。
エネメラ先輩はそんなこと意にも介さず、「それでね」と、少し身を屈めた。僕と視線を合わせて、微笑む。
「僕のうちからも、きみへ婚約の打診をすることになったんだ。僕本人としても、きみと個人的に仲良くしたいんだけど、いいかな」
僕は、呆然として、頷くこともできなかった。まだどこか現実味のなかった、結婚というイベントが、着々と近づいてきている。エネメラ先輩の、バタークリームみたいな甘ったるい香りが、身体にまとわりつくみたいだった。
僕は、嫌だ。首を横に振りかけて、でもこらえる。
「……えっと。僕、これから、急ぐので」
曖昧に誤魔化して、立ち去ろうとする。エネメラ先輩は「引き留めてごめんね」と、僕をあっさり解放した。
僕は、その視線から逃げたくて、急いだ。どんどん、嫌なことを引きはがすみたいに、速足で歩いた。
図書室について、空いている机を探す。そこに腰かけて、荷物を降ろした。
紙とインクのにおいを吸い込んで、深く息を吐く。やっと、安全地帯に来た。周りは静かだ。
教科書とノートを広げて、黙々と問題を解く。しばらく経って、僕の前の席がゆっくり引かれた。顔をあげると、ジェラルドだった。
「ジェラルド」
ほっとして、思わず声をかけてしまった。彼は「うん」と頷いて、席に座る。
やっと日常が戻ってきた。胸がじんわりと熱くなる。
なのにジェラルドは、僕を見ようともしない。
たしかに今は勉強中だから、静かにするべきなんだけど。いつもはもう少し、雑談してくれるのに。
少しずつ、こころが重たくなって、冷えていった。恐る恐る、「ジェラルド」と声をかけてみる。
彼はぱっと顔をあげて、それから、少しだけ視線をずらした。
「どうか、したか」
「……なんでもない」
つきん、とわずかに、胸が痛んだ。さすがの僕でも分かる。
ジェラルドは、これまでと同じみたいには、接してくれていない。どうすれば、元に戻れるだろう。
「ジェラルド……」
僕は半分途方に暮れながら、ジェラルドを呼んだ。彼はやっと僕と目を合わせる。
「どうしたんだ? エリス」
彼は目を細めて、少しだけ僕の方へ身体を傾ける。僕はそれを見て、少しだけほっとした。ジェラルドはきっと、僕のことを、心配してくれている。
生唾を飲み込んだ。だとしたら、僕にはまだ、チャンスがあるはず。勇気を出して、お願いしよう。
これからも、変わらず仲良くしてって。
前と同じように接してほしいって。
「ねえ、その……」
だけど、どうやって言い出そう。ジェラルドはじっと僕を見つめて、促すこともなく待ってくれている。
えっと、その、と何度も口ごもった。情けない。僕はこれまで、まともな友達がいなかった。だから今、どうしたら仲直りできるか、分からなかった。
「その……もうすぐ、テストだね」
「ん。ああ、そうだな」
その声にほっとして、心が勢いづく。それで、と、思い切って声をあげた。
「次のテストで、勝負しよう」
ジェラルドはふっと息をついて、「そうか」とちいさく笑った。その表情がまたかっこよくて、どきりとする。
それで、と、僕はさらに続けた。ぎゅっと目を瞑る。
ここから先は、ちょっと、図々しいかもしれないけど。
「賭けを、しよう。テストで勝ったほうが、負けたほうに、頼みごとができるんだ」
言ってすぐ、どうしてこんなことを言い出してしまったんだろうって後悔した。目を開けて、じっと手元を見つめる。ジェラルドのことを見られない。
机の向こうで、ジェラルドが息をのむ気配がある。それから、僕たちは長い間黙っていた。
しばらく経って、ジェラルドの指が、僕の視界の端で、僕へ向かって伸ばされる。
「……お前は、それを、楽しめるのか?」
ぱっと顔をあげた。ジェラルドはすこしだけ険しい表情だったけど、その目は優しい。僕を心配するみたいに、唇が引き結ばれている。
なら、チャンスはあるはずだ。何度も、小刻みに頷いた。
「うん。ね、お願い」
今度こそ絶対、ジェラルドに勝つ。それで、また前と同じように仲良くしてほしいって、お願いするんだ。
ジェラルドは「お前なぁ」と笑って、頷いた。
「いいけど。……そんなのなくても、俺は」
じっと、僕を見つめる。何か、言いたいことでもあるんだろうか。
首を傾げると、「まあ、いいや」と彼は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「やるからには、俺も全力だぞ」
「そう来なくっちゃ」
僕はやっと、身体の強張りが取れた。笑う僕を見て、ジェラルドは目を細めて、唇を噛んだみたいだ。その理由も、テストに勝って問いただそう。




