10 ジェラルドの気持ち(ジェラルド視点)
エリスが倒れた。発情の発作を起こした。
びっくりした。生まれてはじめて、そういうことに立ち会った。
オメガのああいう姿を、「発情期」と呼びならわしていた自分が恥ずかしい。発情だなんて、動物にしか使わない言葉だろう。
そして俺は、俺自身の欲望に、気づいてしまった。
エリスと暗い部屋で二人きりになって、身体をくっつけてみたい。ひどいことをしたい。
あの姿を見ておいて、こう思うだなんて、最悪の変態だ。
花のにおいが強く香っていたから、教室に入ってきた時点で、嫌な予感はしていたんだ。問答無用で保健室へ連れていくべきだった。
ぐるぐる後悔する俺を知ってか知らずか、エリスはひどく甘えてくる。勘弁してほしい。
俺はエリスが好きなんだ。がんばるエリスが。俺に突っかかって吠えるエリスが。俺が馬鹿にされたら、怒ってくれるエリスが。かわいくて、優しくて、勇敢なエリスが。
好きな子が俺を求めていることがどれだけ嬉しくて、扇情的で、耐えがたいことか、よく分かった。
どきどきする。それを通り越して、食べてしまいたい。めちゃくちゃにしてやりたい。
抑制剤を慌てて飲んだけど、一向に効いている様子がなかった。どんどん呼吸が荒くなって、身体が熱くなる。エリスの体温とかおりで、俺はどんどんけだものになる。
「いっしょにいて。ジェラルドがいい」
なのに、エリスがしがみついてきた。先生たちは俺が抑制剤を飲んでいることと、エリスのネックガードを確認する。
そして、エリスを俺から引きはがすべきではないと判断した。抑制剤もネックガードも心もとなくて、俺は途方に暮れているのに。
「マクソンくん。ライブラくんに抑制剤を飲ませてほしい。口の中に捻じ込んでもいい」
錠剤を手渡され、どうしようかと思った。その間にも、エリスの体調はどんどん悪くなっていく。うめきながら、苦しそうに悶えている。顔は赤らんで、とろんとした表情で、俺の胸元へ顔を埋めていた。すんすんとにおいを嗅いで、俺の名前を呼んでうっとりしている。
今すぐどこか暗い場所で二人きりになりたい。腹の中に収めてやりたい。なによりもこんな色っぽくてかわいいエリスが、みんなの前に晒されているのか。ざわり、と、気持ちが大きく揺らぐ。
理性を総動員して、錠剤を指先でつまんだ。エリスの口元へ持っていく。むちゅ、と熱い唇が吸い付いた。エリスは俺の指ごと錠剤を口に含んで、舐めた。ぞわ、と身体がわなないて、慌てて指を抜く。
エリスの喉がこくりと上下して、飲み込んだのが分かった。そしてくったりと俺の肩へ頭を預けて、身体の力を抜く。どうやら、気を失ったらしい。
ほっと息を吐く俺をよそに、担架が到着した。意識のないエリスはそれに乗せられて、保健室へと運ばれていく。
俺は先生たちに、授業を受けるように促された。言われるがままに立ち上がり、荒い呼吸を整える。
生理現象として知っている。オメガの発情にあてられたんだろう。
まるで獣だ。俺はエリスを獲物だと思ったし、狂暴な欲の対象にした。……犯したいとすら思った。
結局、俺は、アルファという性に抗えないんだろうか。
足を引きずるようにして、教室へと戻る。本当なら今すぐ保健室へ走っていって、エリスのそばにいたかった。でも、そういうわけにはいかない。番でもないし。
それに俺とエリスが、番になれるわけもないし。
なんとか扉を開けると、一斉に、視線が俺へ向けられる。
しんと静まり返った教室の中で、俺は胸を張った。ここで変な振る舞いをしてしまったら、俺だけじゃなくて、エリスに迷惑がかかる。
席について、何事もなかったように授業を受けた。だけど昼休みになって、にやついた顔のクラスメイトが、俺に話しかけてくる。
「なあ、ジェラルド。お前、ライブラの発情期に立ち会ったんだろ。どうだった?」
一般入試組だ。平民出身同士、馬が合うと思っていた相手だった。
すう、と頭が冴えていく。微笑んで、「別に、どうも」と答えた。相手は俺が話す体勢になったと思ったのか、エリスの席へ勝手に座る。
「エロかったよな、あいつ」
咄嗟に、「は?」という声が漏れた。こいつは今、エリスを下卑た目で見た。エリスはそんなふうに見ていい相手じゃないのに。
相手は怯んだのか、「なんだよ」と身体を引く。ごめんごめん、と軽く謝って、威嚇するようににらんだ。唇には笑みを浮かべながら。
「俺の前で、ライブラの悪口を言わないでくれるかな?」
「悪口じゃないって。オメガってそういうもんだろ、むしろ誉め言葉だ。アルファなのに分かってないのか?」
呆れた、と言わんばかりの口調だった。そんなの俺は一生分かりたくない。
「それ以前に、ライブラは俺の友人だ。彼を軽く見られたら、俺は怒るよ」
「悪いって。ごめん」
彼は気まずそうに頭をかく。それでさ、と、わざとらしく明るい声で話題を変えた。勉強を教えてほしい、という話だった。他にも、一般入試組の名前が挙がる。
ついさっきまでだったら、二つ返事で受けていただろう。最近ずっと、エリスとばかり勉強していて、人間関係を築くのがおろそかになっていたから。
でも今は、嫌だ。
「そいつらがみんな、お前に勉強を教えてほしいって。どうだ?」
ダメ元だと、彼の顔に書いてあった。俺の機嫌を損ねたことは、分かっているらしい。当然俺は、首を横に振った。
「先約があるんだ。ごめん」
「そっか、悪かったな」
エリスが心配だ。みんなの空気は、ずっと浮ついている。
クラスで唯一のオメガ。俺の他にもアルファはいるけれど、全員、今日はあまり使い物になってない。エリスの発情にあてられたんだろう。
ぼんやり窓の外を眺めていると、見知らぬ誰かが入ってきた。茶髪の小柄な男性だ。担任も一緒にいるから、怪しい人ではないだろう。
「ライブラくんの席はここです」
どうやら、エリスの家の人らしい。使用人だろうか。
彼はエリスの席への案内され、粛々と教科書類をかばんへ入れていく。
「あの」
なぜか俺は、その人に声をかけていた。彼は顔を上げて、「はい」と返事をする。
「エリスは、大丈夫ですか」
「……はい」
彼はふと考え込む仕草を見せた。こちらの首元をちらりと見て、それから、俺の瞳を見る。
「僭越ながらお尋ねいたします。最近、エリスさまに、何か変わったことなどはございましたか?」
「変わったこと」
「例えば、無理をしていたなど」
黙って、頷いた。彼はそれだけで分かったようで、「さようでございますか」と俯いた。そしてしばらく目をつむって、開ける。口は微笑んでいるけど、どこか悲しそうに見えた。
「エリスさまは、ご学友と競い合うことを、大変楽しまれておりました。どうかこれからも、仲良くしてくださいますと、主人も喜ぶかと」
返事に詰まった。黙り込む俺をおいて、彼は会釈をして立ち去る。
分かっている。彼は、俺を責めようとしているわけじゃない。エリスを思ってああ言った。俺よりずっと長く、エリスの側にいるだろう、彼なりの判断だ。
だけど、まだそこまで割り切れない。
エリスを倒れるまで追い詰めてしまったのは、きっと俺だ。
エリスは俺に勝ちたくて必死だった。俺はそれが、かわいくて、嬉しくて。
無理をしていることは、分かっていた。もっと強く、無理するなって止めていればよかったのか。エリスはこんなふうに、意図せず倒れなかったんだろうか。
考えたって仕方ない。だけど。
「ライブラ、エロかったな。あいつ顔はかわいいからさ……」
「俺、近くにいたんだけど、めちゃくちゃいいにおいした」
「オメガっていいよな。エッチだ」
ふざけるなよ。頭がどんどん冷えていく。
全員を殴りつけて、考えを改めさせてやりたい。
……俺だって、エリスをそういう目で見ているくせに。最低だ。




