1 パンの香りに誘われて
高尾山で不思議なカフェ食堂に辿り着いた真歌は果たして。
よろしくお願いします。
今日は、高尾山日和だ。
山登りをすると空気が美味しくて心が安らぎ疲れていたはずの体も内側から癒されすーっとして元気になる。
「花宮さん、派遣先の会社が倒産しました」と派遣会社の藤本さんから昨夜突然の電話があった。
「へっ! 倒産ですか?」
わたしのスマホを持つ手が震えた。だって、一昨日まで当たり前のように出勤していたのに寝耳に水だ。
「はい、突然の倒産で大変申し訳ないのですが……新しい派遣先は紹介させて頂きますのでお待ちください」
一体どういうことなの。一瞬何を言われているのかわからなかった。
「それってまさか……明日からの仕事がないってことですか?」
「はい、大変申し訳ないのですが……」
藤本さんはあっさり返事をした。
「そ、そんな~あんまりですよ」
わたしはスマホをぎゅっと握りしめ耳に強く押し当てる。
「今回は残念ですが倒産なので……」
「はい、そうですね……」
藤本さんの言っていることは正しい。だって、倒産したのだからどうすることもできない。
電話を切ったあともショックでわたしはぼんやりとその場に立ち尽くした。
職場の居心地も良くてここでずっと働きたいと思っていたのに泣けてくる。働き始めて一年が経とうとしていたわたし花宮 真歌は突然失業した。
明日からどうしようとわたしは暗い部屋の中でうずくまっていた。
突然仕事がなくなるなんて夢にも思っていなかった。心にぽっかり大きな穴が空いたような感じがした。
「あ~あ、なんだか悔しくて切ないよ~!」
誰もいない部屋の中で思わず声を上げてしまった。その時。
ふと、本棚に目をやると『高尾山に登ろう』と背表紙に書かれている本が目に入る。わたしは立ち上がり本棚の前に行く。そして、その本を手に取る。
「高尾山か~行ってみようかな」
わたしは高尾山の動植物が表紙になっている本をじっと眺めながらそう思った。
そして、現在わたしは高尾山に登っている。久しぶりに来て良かった。山に登り汗をかき、素敵な景色を見ることができたんだもん。
ただ、山に登ることだけに集中していると嫌なことなんてきれいサッパリどこかへ吹き飛んでいく。
山に登る前のわたしはきっと浮かない顔をしていただろう。けれど、今のわたしは元気な笑顔だ。
「うふふ、元気になったぞ~」と思わず声に出してしまった。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み山を登っていると、薬王院の参道の入り口である浄心門が見えてきた。わたしはこの門をくぐる。
すると、道が二手に分かれていた。左は急な百八段の階段、右は緩やかな坂道になっている。階段か緩やかな坂道どっちを通ろうかな? と一瞬立ち止まり考えた。
男坂の百八段の階段は人間の煩悩と同じ数になっているらしくて、一段上るごとに煩悩が消えるみたいなのでちょっときつそうではあるけれど、男坂の階段を上ることにした。
よし、頑張って上るぞと心の中で気合いを入れわたしは、百八段の階段を苦しみなどを乗り越えようと一段一段踏みしめながら上った。
階段を上りきるとなんだか心がスッキリした。もちろん煩悩が消えたわけではないだろうけれど。
さて、せっかく来たのだから薬王院に参拝していこう。そう思いわたしは歩きだそうとしたその時、ぷーんとどこかから良い香りがふわふわふわりと漂ってきた。
この香りは何だろう? 美味しそうな匂いだ。パンの香りかな?
そう言えばお腹が空いてることに気がついた。わたしのお腹がきゅるきゅるーと鳴る。
ちょうど、お団子屋さんやお茶屋さんなどが並んでいるではないか。
「えへへ、お腹も空いたことだし何か食べていこうかな~。あ、でもこの香りはパンだよね。まっ、いっか」
わたしはパンの焼き上がる甘くて香ばしい香りにふらふらと引き寄せられるように歩いた。
そして、辿り着いた店の前にパンやティーカップやケーキそれからお団子などがチョークアートで描かれた立て看板が置かれていた。それと店名は、『ムササビカフェ食堂でごゆっくり』らしい。
建物自体はピンク色の三角屋根でどことなく懐かしい雰囲気が漂い和と洋が調和しているって感じだ。
これは可愛らしいな。わたしの頬はゆるゆると緩んだ。
よしと、わたしはカフェ食堂の木製の引き戸をガラガラと開ける。この引き戸ってところもまたレトロでいいな。
店内は木製の大きな四人掛けのテーブル席が二席と二人掛けのテーブル席が二席、座敷席が二つにそれから六席のカウンター席。そんなに広くはないけれど、窓が大きくて日当たりが良い。
木の温もりが感じられる和と洋が交じり合った空間だ。雰囲気は良いがお客さんは女性客が二人いるだけだった。
わたしが店内を見回していると、
「いらっしゃいませ~」と元気な声が聞こえてきた。
その声に視線を向けると、店の奥から目鼻立ちの整ったくっきり二重の瞳の男性とその隣にポニーテールのくりっとした大きな目が可愛らしい少女が出てきた。
「わっ、お客さんが来てくれたよ~」
ポニーテールの可愛らしい少女が大きな目をキラキラと輝かせ嬉しそうにわたしの顔を見た。
「おっ、お客さんですか」
目鼻立ちの整った男性もわたしの顔をじっと見た。
ここは高尾山で雰囲気も良い店なのにお客さんが来るのが珍しいのかなとわたしは不思議に思い首を傾げた。
「はい、パンの焼き上がる良い香りに引き寄せられてきました」
わたしは鼻をクンクンさせ店内に漂う香ばしいパンの香りを胸いっぱいに吸い込む。ああ、なんだかもう幸せだ。
うふふ、わたしがパンになってしまいそうだ。
「このお客さんのお姉ちゃん動物みたいだよ~鼻をクンクンさせているよ」
ポニーテールの可愛らしい女の子がわたしを指差し笑う。
なぬ、動物みたいですって! わたしは、むむっと頬を膨らませ女の子を見る。
「おいおい、ムササビ、お客さんにそんなことを言ったらダメだぞ」
整った顔立ちの店員さんが女の子に注意をする。ってちょっと待ってくださいよ。今、ムササビって言いましたか。変な名前だな。それこそ動物みたいではないか。
「は~い、高男さん。だよね、お客さんなんだもんね。思ったことを素直に言って逃げられても困るよね」
ムササビは首を縦に振りながらウンウンと頷いている。
「そうだぞ。せっかく来てくれたお客さんなんだから大事にしなくてはならないんだぞ」
高男さんと呼ばれた店員さんがムササビの頭をぽんぽんと撫でながら言った。
「うん、わたしお客さんを大事にするね」
「そうしてくれよ」
この二人はわたしのことを無視して会話をしているような気がする。しかも、高尾山でお店を営業していて高男さんって名前もなんだかなと思いますよ。
わたしは、ムササビと高男さんの顔を交互に眺めながらそう思った。
このままではいつまでたってもご飯にありつけないような気がしたのでわたしは、
「あの、わたしお腹が空いたんですけど……」と言った。
すると。