09視線の交差点
六月の空は曇りがちで、湿気を含んだ空気が教室の窓をぼんやり曇らせていた。
昼休み、神谷光希は窓際の席で弁当を広げていた。最近は誰かと食べることもないまま、静かな時間を過ごしていたが――今日は違った。
「ねえ、神谷くん。これ、昨日作りすぎちゃったから、よかったら食べる?」
柚月が小さなタッパーを差し出してきた。中には色とりどりの卵焼きや野菜のおかず。手作りのそれを見た周囲が、ちらりと視線を送る。
「……ありがと、もらう。」
神谷は少し戸惑いながらも、断る理由もなく受け取った。その表情には照れとも戸惑いともつかない曖昧な色が浮かぶ。
すぐ近くの席で、その様子を見ていた女子たちがひそひそと話し始める。
「最近、あの二人ちょっと仲良くない?」
「なんかさ、昨日も廊下で一緒にいたよね?」
「え、マジ? 柚月って前は神谷くんとそこまで仲良さそうにしてなかったよね?」
女子たちの好奇心混じりの視線が、柚月と神谷に向けられる。男子たちの方でも、ひとりが肘で友人をつつきながら言う。
「神谷ってさ、あんなキャラだったっけ? 最近、柚月とよく喋ってない?」
「ってか柚月、あいつと話すときちょっと違くね? なんか気遣ってるっていうか…」
神谷はそれらの声を耳の端で捉えながら、わざと聞こえないふりをしていた。気にしないようにしていた。けれど、耳に残る声は思った以上に鮮明だった。
一方、柚月はといえば、そんな周囲の反応に気づいていないわけではなかった。だが、それを気にする風もなく、いつもと同じように笑顔で神谷に話しかける。
「神谷くんって、けっこう野菜好きなんだね。あ、これも美味しいよ、食べてみて?」
「……ああ、うん。ありがと。」
神谷は照れたように言いながらも、どこか落ち着かない。クラスの空気が、微妙に変わり始めていることに気づいていた。
それでも。
彼女と話しているこの時間だけは、心が少しだけ温かくなる。
曇り空の教室の中で、ほんの少しの明るさが、そこにはあった。
⸻
放課後のチャイムが鳴る少し前――
最後の授業が終わりに差し掛かった教室では、生徒たちがざわざわと私語を交えながら準備を始めていた。
神谷光希がノートをまとめていると、隣の席から声がかかった。
「なあ、神谷。最近、柚月と仲良いんだな?」
そう声をかけてきたのは、クラスでも明るく、男女問わず話しかけられるタイプの男子・清水翔太。柚月とも軽口を叩き合える程度には親しい間柄で、彼女のことを少なからず気にかけている様子がこれまでも見てとれた。
神谷はふと顔を上げる。清水の顔には笑みが浮かんでいたが、どこか目だけが冷めた色をしているように感じた。
「……別に、たまたま話す機会があっただけだよ。」
神谷が淡々と返すと、清水は「そっか」と言いながらも、ノートの端をトントンと指先で叩いた。
「柚月って、ほら、けっこう色んなやつに好かれてるしさ。あんまり無理に近づいてると、目立つかもな?」
それは忠告のようで、牽制にも聞こえた。
だが、神谷はその言葉に乗らず、静かに視線を落としたまま言った。
「彼女は……無理してるように見えた。それだけ。」
言葉に熱を込めるわけでもなく、ただ淡々と本音をつぶやくように。
その一言に、清水は一瞬だけ眉を動かした。しかしすぐに肩をすくめて、少し笑ってみせる。
「……ま、いいけどさ。変わってるなお前、ほんと。」
その後、清水は何事もなかったかのように友人たちの輪へと戻っていった。
神谷は席に座ったまま、静かに机を見つめる。
ふと顔を上げると、柚月が遠くからこちらを見て、ほんの一瞬だけ目が合った。笑顔ではなく、少し不安げな、けれどどこか安心したような目。
神谷は微かに頷き、視線をそらす。
自分の気持ちが、確実に動いていることに気づきながら――
⸻
放課後の昇降口。
夕陽が差し込む中、生徒たちの足音が交差する。
神谷は自分の靴を履き替えながら、少しだけ遠くに見える柚月の姿を目で追っていた。
彼女はいつも通り、友達数人と軽く話しながら笑っている。
だけど神谷にはわかる。あの笑顔の奥に、今日も隠された疲れが滲んでいることを。
(……なんで、あんなに笑っていられるんだろうな)
何気ない仕草、周囲への気配り。彼女が無意識に気を使っていることに気づいてから、神谷の目には、以前とはまるで違った日常が映っていた。
「高瀬。」
気づけば、神谷は声をかけていた。
友人たちと話していた柚月が、驚いたように振り返る。
「あ……神谷くん。どうかした?」
「ちょっと……いいかな。少しだけ話したいことがある。」
周囲の空気が一瞬、ざわりと揺れた。
柚月の友人たちが驚いたように目を見開く中、柚月はほんの少し戸惑った後、ゆっくり頷いた。
「うん、いいよ。」
二人は昇降口を出て、人気のない校舎裏の方へと歩いていく。
「……清水、ちょっと言いすぎだったな。」
ぽつりと神谷が口にすると、柚月は困ったように苦笑した。
「ごめんね、翔太……心配性だから。」
「別に謝らなくていい。でも……ああいうのって、正直、面倒だなって思って。」
「ふふ、分かるよ。でも、翔太は優しい人だよ。」
神谷はその言葉に、小さくうなずいた。
「でも……俺は、高瀬が無理して笑ってるのを見る方が、嫌だ。」
柚月がはっとしたように目を見開く。
「……気づいてたんだ。」
「見ちゃったしな。前に、バイトしてるとこ。」
「そっか……やっぱり、あの時から……」
言葉が詰まる柚月に、神谷は続けた。
「だからって、特別なことができるわけじゃないけどさ。でも、知ってるなら……何かしたいって思うのは、変かな。」
その言葉に、柚月は小さく首を振った。
「変じゃない。……むしろ、ちょっと、嬉しい。」
ほんの一瞬、彼女の表情から力が抜けたように見えた。
普段の明るい仮面ではない、素の柚月の顔。
それを見て、神谷の胸に、ふっと小さな温かさが広がる。
「じゃあ、また……今度、前みたいに絵を見せてよ」
「……ああ。いつでも。」
そう言って微笑んだ神谷に、柚月も恥ずかしそうに笑みを返した。
そのやり取りを見ていた後ろの窓、そこにいた一人の男子が、じっと彼らを見つめていたことに、ふたりは気づいていなかった。
――やがて、春は本格的に初夏の匂いを帯び始める。
二人の距離もまた、少しずつ、確かに近づいていた。