08二人の休日
土曜日の朝、少しだけ早起きをした神谷は、玄関先でスニーカーの紐を結びながら、小さく息を吐いた。
「……来るかな、ちゃんと。」
約束はした。でも、どこか不安があった。自分の家に他人を呼ぶなんて、今まで一度もなかったから。
ふと門の前に人影が見え、視線を向けると、私服姿の柚月が小さく手を振っていた。
普段よりも落ち着いた色合いのカーディガンとデニム。どこか背伸びしたような服装だったが、それが彼女らしくもあり、やや緊張気味の表情に、神谷は内心ホッとする。
「おはよう、高瀬。」
「おはよう、神谷くん。…うわ、ほんとに大きい家だね……。」
門をくぐって中へと進む。外からでも見えていた神谷の家は、一般家庭とは明らかに違った。
外観はモダンだが、玄関横にはガラス張りの温室のようなスペースがあり、中には本棚と白衣をかけた椅子が見える。
「研究室兼、居住スペースって感じ。両親の仕事場もここにあるんだ。」
「うわ……映画の中みたい。」
柚月はまじまじと周囲を見渡しながら、まるで博物館に迷い込んだかのような小声で呟いた。
その様子を見た神谷は、少しだけ恥ずかしそうに後頭部を掻いた。
「普通の家じゃないって、自分でも分かってるんだ。」
そこへ奥から足音がして、白衣を着た女性が現れる。神谷の母だ。
背筋を伸ばしたその姿には、どこか研究者特有の緊張感があったが、柚月を目にした瞬間、ふわりと笑みを浮かべた。
「ようこそ。高瀬さんね。今日は来てくれてありがとう。うちの息子、こういうの初めてなのよ。」
「いえ、こちらこそ…!お邪魔します。」
柚月がぺこりと頭を下げると、神谷の母は「緊張しないでね」と優しく笑い、ふたりを中へ案内した。
居間を抜け、奥のガレージのようなスペースには、子ども向けの科学実験イベントの準備が整っていた。
色とりどりのスライム材料、ペットボトルで作るロケット、空気砲や静電気ボールなどが並ぶ。手作りのポスターも貼られ、どこかワクワクするような空間。
「ここが今日の会場。午後には近所の子どもたちが来るわ。光希が手伝うって言い出したとき、ちょっと驚いたけど……あなたのおかげかしら?」
そう言って神谷の母が微笑むと、柚月は少し戸惑いつつも、「いえ…でも、なんか楽しそうだなって思って」と返した。
その横で神谷は、黙ったまま柚月の横顔を見ていた。
この場所は、ずっと自分にとって“閉じた世界”だったはずなのに。
今、隣に誰かがいるだけで、風景が少し違って見えた。
⸻
午前中の時間は、主に準備作業に使われた。
柚月は、子どもたちが使う実験器具を並べたり、名札を作ったりと、丁寧に仕事をこなしていた。
普段の学校生活では見せないような真剣な表情が、神谷には新鮮に映る。
「意外と手際いいな、高瀬。」
「ふふ、子どもと関わるのは慣れてるから。…こっちの方が保育補助のバイトより全然楽しいかも。」
そう言って軽く笑う柚月の言葉に、神谷はふと視線を止めた。
「そうなんだ。」
「うん。あっちはもちろんやりがいあるけど、体力使うし、給料も正直そこまで高くないし…。でも、ここは…なんていうか、知識とか工夫で楽しませる感じで、ちょっと違う。」
「待遇も、こっちの方が良いって母さんが言ってた。週末だけだし、自由効くから。」
「あ、そうなの?」と柚月は目を丸くする。
神谷は、少し照れくさそうに言葉を続けた。
「それで、今日誘ったってのもある。……少しでも楽できたらって。」
柚月はしばらく神谷の顔を見つめていたが、やがてふっと笑った。
「ありがと。……でも、なんか変わったね、神谷くん。」
「そうかな?」
「うん。前は全然話しかけても反応薄かったし。こうして一緒に何かする日が来るなんて思ってなかった。」
神谷は返事をせず、ただ柚月の言葉を噛み締めるように頷いた。
午後になると、イベントに子どもたちが集まり始め、会場は一気に賑やかになった。
柚月は小さな女の子たちに囲まれ、スライム作りの説明をしている。
その様子を少し離れた場所から見ていた神谷は、ふとスケッチブックを取り出し、何気なくその光景を描き始めた。
——自然と笑顔になっている自分に気づく。
以前は風景しか描かなかったスケッチに、誰かの姿が入り込むようになった。
「へえ、いい絵ね。」
背後から神谷の母の声がして、彼は少しだけスケッチブックを閉じた。
「……見ないでよ。」
「ふふ、ごめん。でも、最近あなた少し変わったわよ。」
神谷は答えずに、静かに笑った。
人と関わることを避けてきた自分。
親の期待を重荷に感じて、絵を描くことすら“無意味”と決めつけていた。
でも今、自分の家で、彼女と一緒に誰かの役に立てている。
——それが、ただ嬉しかった。
⸻
イベントは無事に終了した。
片付けを終えた頃には、外はすっかり夕方の色に染まっていた。
「おつかれさま。」
神谷がそう声をかけると、柚月は少し汗ばんだ額をタオルで押さえながら振り向いた。
「うん、おつかれ! 思ったより楽しかったね。」
「子どもたち、すごく懐いてたな。特に、あの小さい子……名前なんだっけ?」
「みなみちゃん? あの子可愛かったよね。『お姉ちゃんまた来る?』って言われちゃって、ちょっとぐらっときたかも。」
「じゃあ、また来る?」
柚月は驚いたように神谷を見つめた。その瞳に、一瞬戸惑いが浮かぶ。
「……いいの?」
「うん。母さんも『次回もぜひ』って言ってた。そっちのバイトが休みの日なら、無理ない範囲で来てもらえたら。」
柚月は少しだけ目を伏せて、それから微笑んだ。
「ありがとう、神谷くん。ほんと、今日は来てよかった。」
その言葉には、疲労感よりも達成感が滲んでいた。
どこか吹っ切れたような、軽やかさすら感じる。
神谷もまた、その姿にどこか安心した気持ちになる。
彼女が無理をしていることに気づいて、自分にできることはないかと考えてきたけれど——
今日のこの一日が、少しだけでも救いになったのなら、それだけで十分だった。
歩きながら、ふと神谷が言う。
「最初は、ただ自分のために絵を描いてた。でも……今日みたいに誰かのために何かできるって、悪くないかもなって思った。」
「……絵、見せてくれる?」
神谷は一瞬迷ったが、ゆっくりとスケッチブックを開いた。
そこには今日のイベント中、笑顔で子どもたちと接する柚月の姿が描かれていた。
「……これ、私?」
「下手だけど、まぁ……記念に。」
柚月は驚いたように見つめ、それから少し頬を赤らめた。
「ううん、すごくうれしい。」
ふたりの間に、やさしい沈黙が流れる。
陽が傾き、校舎のガラス窓に茜色が差し込むなか、
小さな秘密と新しい日常が、静かに芽生えようとしていた。