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07手を伸ばす理由

週末を目前に控えた夕方。神谷光希の家では、いつものように静かな空気が流れていた。

父は書斎で資料に目を通し、母はキッチンで夕食の下ごしらえをしている。研究者である両親の生活は規則正しく、何よりも仕事が優先される。そんな家庭で育った神谷にとって、家は「整った空間」であり、同時にどこか「自分の居場所ではない」と感じてしまう場所でもあった。


リビングのテーブルに、1枚のチラシが何気なく置かれていた。

《週末サイエンス教室 〜不思議な科学実験を体験しよう〜》


両親が月に一度開催している子ども向けの教室。小さな子たちが実験を通して科学に触れられる場で、地域の保護者にも人気がある。神谷はそれを知ってはいたが、参加したこともなければ、手伝ったこともない。


何気なく視線を落とした神谷の脳裏に、柚月の姿が浮かんだ。

あの日、夕暮れの保育園の前で見かけた彼女の姿。小さな子どもに優しく声をかけ、疲れているのに笑顔を絶やさなかったその表情が、ふと重なる。


「…もしかして、ここで手伝ってもらえたら…」


そう思った瞬間、胸の奥が少しざわついた。

“でも、親に頼るなんてダサいよな”

“なんで俺がそんなことに首突っ込むんだ”

そんな声が、自分の中から聞こえてくる。


机の端に置いたスケッチブックが目に入った。

最近、風景を描く筆致が少し変わってきている。以前よりも、光の入り方や影の描写がやわらかくなっていた。無意識に“誰かの目線”を考えて描くようになっている気がした。

それが誰かといえば、――柚月の目線なのかもしれない。


「手伝うとか…バカか、俺…」

そう呟いた声は、どこか自嘲気味だったが、否定しきれなかった。


そのとき、窓の外から近所の子どもたちの笑い声が聞こえた。

ああいう小さな子たちに囲まれて、高瀬はどんな顔で過ごしてるんだろう。どれだけの時間、どれだけの気力を使って――それでも、明るく振る舞っているんだろう。


「……俺に、できることがあるなら」


ようやく、心が決まる。神谷は席を立ち、チラシを手に取る。指先が少し震えていた。

“動く理由”が、ようやく心の中で輪郭を持ちはじめていた。



土曜の朝。

神谷光希は、久々に目覚ましの鳴る前に目を覚ました。窓の外には、少し肌寒い6月の光が差している。


下に降りると、キッチンでは母が紅茶を入れていた。彼女は驚いたように目を丸くして微笑む。


「珍しいわね。こんな時間に起きてくるなんて」


神谷は少しだけ照れたように頷きながら言った。


「サイエンス教室……手伝ってみようかと、思って」


その言葉に、母はティーポットをテーブルに置いたまま、じっと神谷の顔を見つめる。そして、口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「そう。嬉しいわ。今日の準備から、お願いできる?」


「うん」


たったそれだけの会話。

けれど、どこか長年くすぶっていた隔たりが、少しだけ和らいだような感覚があった。



地域センターでは、教室の準備が着々と進んでいた。

テーブルの配置、実験道具の点検、子どもたちに配布する資料の整理……。光希は不慣れながらも、黙々と手を動かした。


「光希、ちょっと来てくれる?」


父が資料を手に呼ぶ。

見せられたのは、子ども向けの理科クイズやミニゲームの案内プリントだった。


「子どもたちが楽しめるようなクイズ、何か考えてみないか?」


「……俺に、できるかな」


「やってみることが大事なんだよ」


父のその言葉に、光希は軽く頷いた。

両親とこうして同じ目線で何かをするのは、初めてに近かった。


しばらく作業に集中していると、ふと、ひとつの考えが浮かぶ。


(――高瀬なら、こういう場所で子どもたちとすぐに打ち解けそうだ)


そう思った瞬間、自分でも驚くほど自然に、神谷は口を開いた。


「……このサイエンス教室、友達をひとり、連れてきてもいいかな。手伝いっていうか、子どもに慣れてる子がいて」


母は少し意外そうに目を丸くし、それからゆっくりと微笑んだ。


「もちろん。光希が連れてきたいと思った子なら、歓迎するわよ」


父も頷きながら言う。


「うん。手が足りないし、何より光希がそう言うなんて珍しい。期待してるぞ」


その言葉に、光希はほんの少し、胸が温かくなるのを感じた。


(助けたい、と思った。今度はちゃんと、行動に移したい)


自分の環境、自分の立場を使って、誰かを支えることができるのなら――それは、単なる“恵まれた家庭”というだけじゃなく、“意味のある何か”に変わるのかもしれない。



「君に、頼みたいことがある」


放課後の静まりかけた教室。

神谷はタイミングを見計らい、席から立ち上がった。


「高瀬。ちょっと、いい?」


柚月は少し驚いたように振り返ると、友人に「先に行ってて」と軽く告げてから、神谷のもとへ向かってきた。


窓際の人気のない一角へ移動し、神谷は少し緊張気味に話を切り出す。


「今度の週末、うちの親が主催するサイエンス教室があるんだ。子ども向けのイベントで、ちょっと人手が足りなくて。……もしよかったら、手伝ってくれないか?」


柚月は驚いたように目を見開く。


「私が? でも…いいのかな、そんなの」


神谷は頷きつつ、少しだけ言い添えた。


「高瀬、保育補助のバイトしてるよね。だから子どもと接するのにも慣れてるだろうし。

……ちなみに、こっちの方が、たぶん時給も少し高い。しかも屋内で座れる時間も長いから、身体の負担も少ないと思う。うちの親、そういうとこちゃんとしてるから」


柚月の目が、ほんの少し揺れた。

彼女の中で「助けになる」という想いと、実際的な「条件」の部分が、ゆっくりと噛み合っていくのが分かる。


「……私でいいの? 本当に?」


「うん。君がいてくれたら、すごく心強いと思う」


神谷の言葉には、気負いも下心もなかった。

ただ、素直に“力を借りたい”と願っていることが伝わってきた。


「……わかった。やってみる」


その言葉に、神谷の表情がほっと緩んだ。


「ありがとう。詳細はまた連絡するよ。助かる」


柚月も、小さく微笑む。


「ううん、こちらこそ。ありがと。…ちょっとだけ、助かるかも」


彼女のその一言に、神谷は思わず目を細めた。


(よかった。これで、ほんの少しでも彼女の力になれるなら…)


教室を出る頃には、日が傾き始めていた。

静かな夕焼けの中、神谷の足取りは少しだけ軽かった。


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