06環境
神谷光希は、家に帰るとすぐに書斎へ向かった。そこには、両親が毎日仕事で使う研究室が広がっている。机の上には、数冊の学術書やパソコン、実験道具が整然と並べられ、部屋全体に知識の香りが漂っていた。
「今日も遅いな…」と、神谷は小さくつぶやき、家の静かな空気に包まれながら、ゆっくりと椅子に座った。
彼の家は、両親が共に有名な研究者として活躍している家庭だった。日々忙しい両親は、神谷が子供の頃から「将来は君も研究者だろう」という期待をかけて育ててきた。しかし、その期待に応えられず、むしろプレッシャーを感じることが多かった。神谷自身は、絵を描くことが好きで、それが自分の道だと感じていたが、両親からの期待を裏切るような気がして、常に心の中で葛藤を抱えていた。
「何のために、こんな生活をしているんだろう。」
神谷は、ふと机の上に置いてあったスケッチブックを手に取る。その表紙には、彼が描いた風景画があった。細かい線で描かれた絵は、彼の思いを込めた作品だ。しかし、どこか満たされない心情が、絵に反映されているように感じられた。
絵を描くことは、神谷にとって唯一、心を自由に表現できる瞬間だ。それでも、周りの期待が重くのしかかり、思い通りに自分を表現することができなかった。
「両親には絵じゃなく、もっと立派な道を歩んでほしいと思われている。…でも、この家での生活が不自由だとは思わないんだよな。」
神谷は思わず呟きながら、絵を完成させた。完成した絵を見つめる彼の表情には、どこか満足感が浮かんでいる。しかし、その満足感の裏には、まだ自分に対する不安と不満が残っていた。
その時、神谷の視線はふと窓の外に向かった。夕暮れ時の空が、オレンジ色に染まっている。空が、まるで彼の心の中の混乱を映し出しているかのようだった。
「こんなに恵まれてる環境の中で、なぜ僕は…」
その瞬間、神谷はふと、柚月のことを思い浮かべた。
彼女の笑顔、彼女の明るさ、そしてその裏に隠された疲れと無理している様子。その全てを思い浮かべると、神谷は心が痛くなった。
「柚月、あんなにも頑張っているのに…僕は何もできてない。」
神谷は、スケッチブックを机に広げた。今日もまた絵を描くことで自分の気持ちを整理しようとする。しかし、その絵の中には、もうひとつの思いが込められている。それは、「彼女を助けたい」という強い願いだった。
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休日の午後。神谷光希は、自室の机に向かい、いつものスケッチブックを開いていた。ページの端には、これまでに描きためた風景画が連なっている。近所の公園、学校の校舎、図書室の窓から見えた雨の日の中庭——どれも、静かで整った構図。彼の内面を反映するように、どこか遠くから眺めているような冷静な視点が特徴だった。
だが、今日は何かが違った。
鉛筆の先が迷い、線がわずかに揺れる。彼が今描いているのは、先日通りがかった保育園の裏庭。柚月が子どもたちと遊んでいた場所だ。ブランコが揺れ、花壇には色とりどりの花が咲いていた。彼はその風景を、何気なく覚えていたのだ。
筆致はこれまでよりも柔らかく、温かみを帯びていた。木々の葉のひとつひとつを丁寧に描き込んでいるうちに、ふと彼は手を止める。
——何不自由ない生活をしている自分が、絵を描いているこの時間さえも、誰かの支えによって成り立っている。
思い出すのは、幼い頃から両親に言われてきた言葉。「光希、お前は将来、世界に貢献できる人間になれる」「芸術は趣味にしておけ」。両親は研究者として名を馳せ、彼にも同じ道を歩むことを望んでいる。彼にとって、絵は「本当の自分」でいられる唯一の場所だったが、それはどこか後ろめたい行為でもあった。
しかし今、柚月という存在が、その感覚を変えようとしていた。
彼女のように、自分の時間も体力も削りながら誰かのために生きている人がいる。笑顔の裏で疲れを隠しながら、誰にも見せない部分で必死に頑張っている人がいる。
——自分は、恵まれている。今までは「縛られている」と感じていたこの生活も、実はどれだけ守られているのかと、気づかされた。
神谷は再び鉛筆を手に取り、スケッチを仕上げていく。これまでにないほど、画面には“温度”があった。そこにあるのは、観察者としての景色ではなく、誰かを思う気持ちが滲む景色だった。
完成した絵を見下ろしながら、神谷はぽつりと呟いた。
「……俺も、誰かの力になれるかな」
その「誰か」が、誰なのかは、もうわかっていた。
週明けの月曜日。
教室には、週末の話題で盛り上がる声が飛び交っていた。柚月も変わらず明るく、クラスメイトたちに笑顔を見せている。
「昨日はねー、久々に寝坊しちゃってさ!」
「それって珍しくない?」
「む、ひどくない?」
そんな他愛ないやり取りの中、神谷はいつも通り静かに席に着いていた。
だが、その目は、自然と柚月の姿を追っていた。
柚月の笑顔――それは、みんなの前ではいつも“完璧”だった。
でも、少しだけ目の下にあるクマや、立ち上がったときのふらつきに、神谷は気づいていた。
「…無理してるな」
かつての自分なら、気に留めることもなかったかもしれない。
だが、昨日のスケッチが、彼の中に“柚月を見る目”を育てていた。
昼休み。
柚月は、窓辺の席でお弁当を広げていた。笑顔は変わらない。けれど、食欲は今ひとつのようだった。そんな様子を、神谷は少し離れた自分の席から見ていた。
ふと、ポケットの中の飴玉を取り出す。
何の気なしに入れていた、家にたくさんある海外土産のミントキャンディ。
それを、包み紙ごと小さなメモと一緒に、柚月の机の端にそっと置いた。
「……何これ?」
戻ってきた柚月が目を丸くする。そこには、
《あまり食べてなかったから。甘いもの、少しは元気出るかも。——神谷》
とだけ、丁寧な文字で書かれていた。
彼女は驚いた顔をして神谷の方を見た。
神谷はと言えば、何食わぬ顔で、席に戻って本を読んでいる。
柚月の頬が少しだけ緩む。
彼の不器用な優しさに、どこか安心したような表情を浮かべた。
その日の放課後、廊下ですれ違ったとき。
「ねえ、神谷くん」
「ん?」
「ありがとう。……すごく、うれしかった」
それだけ言って、彼女はまた、いつものように明るい笑顔で歩いて行った。
神谷の中で何かがまた、少しだけ動いた。
誰かのために行動すること。その小さな一歩が、自分の世界を変えていくのだと、少しずつ感じ始めていた。