03透明な孤独
春の陽射しが差し込む朝の教室。
窓際の席で光希は、いつものように静かにノートを広げていた。ページの隅には、何気なく描かれたスケッチ。ペン先が音も立てずに滑っていく。耳には、周囲のざわめきだけが届いていた。
「柚月、今日も髪型かわいい!」
「ほんと器用だよね〜。どうやって巻いてるの?」
「え、これ? 適当だよ、適当!」
明るい笑い声と共に教室の空気が柔らかく揺れる。
高瀬柚月は、今日もクラスの中心にいた。黒髪をゆるくまとめ、清潔感のある制服姿で、誰にでも分け隔てなく笑顔を見せている。頼まれごとを断れない性格なのか、プリントを配る手伝いにも自然と加わっていた。
光希は、その様子をスケッチブックの陰からぼんやりと眺めていた。
柚月の笑顔は、まるで太陽のように眩しくて、少しだけ見ているのが苦しくなる。
けれど──
(…本当に、ずっとあんな顔していられるのか?)
そんな疑問が、ふと頭をよぎる。
「昨日さ、柚月、途中で帰ってたよね?」
「うん、なんか用事あるって言ってた。…でも、最近多くない?」
「部活にも入ってないし、何してるんだろうね」
背後の女子たちの会話に、光希は思わず手を止める。
柚月のことが話題に上るのは珍しくないが、今のはどこか引っかかった。
(やっぱり、何か…隠してる?)
視線を戻すと、柚月は友達と楽しそうに笑っていた。
その笑顔には、曇りひとつ見えない。
だけど、昨日の夕暮れ、制服姿のまま保育園の子どもたちに囲まれていた姿を思い出すと、どこかその明るさが“演技”に見えるような気がした。
チャイムが鳴る。
授業が始まると同時に、皆が自分の席へと戻っていく。
柚月も軽く手を振って席につき、前を向いた。
その背中を、光希は無言で見つめていた。
教室の中で、誰よりも笑っている彼女。
けれどその笑顔が、本当に彼女の本心なのか、わからなくなっていた。
――――――
放課後、陽が傾き始めた学園の廊下。
生徒たちが帰宅の準備を始めるなか、光希は鞄を肩にかけながら、無意識に柚月の姿を目で追っていた。彼女は友達と笑い合いながら、昇降口へと向かっていく。
(今日も…何か急いでるような気がする)
そう思った矢先、柚月が下駄箱の前でふと笑顔をゆるめた。ほんの一瞬、気を抜いたような、疲れが滲む表情。だが、それは一瞬で消え、すぐにいつもの明るい顔に戻った。
(やっぱり、何かある)
気がつけば、光希の足は勝手に彼女のあとを追っていた。
校門を出た柚月は、人目につかないように角を曲がり、少し古びた路地を抜けていく。
制服のまま、鞄を手にしながらも、歩き方はどこか急いでいた。
光希は、遠くからその背を見つめながら距離を保ってついていく。
やがて彼女は、とある小さな建物の前で立ち止まった。
保育園だった。
門のそばに貼られた紙に「短時間パート募集」の文字が見える。
中からは子どもたちの元気な声が漏れていた。
(やっぱり……ここで働いてるんだ)
驚くというより、納得に近い感覚だった。
昨日の夕暮れに見かけた光景は見間違いではなかった。
でも──どうしてそんなことを、誰にも言わずに?
そのとき、保育園の中から柚月が笑顔で子どもたちに手を振るのが見えた。
制服の上にエプロンを着け、園児たちの目線に合わせてしゃがみこむその姿は、学園で見せる彼女とは少し違っていた。
どこか素のままのようで、そして…少し寂しげだった。
(あの笑顔は──演技じゃなかった。でも…)
そこに混じる、疲れと寂しさ。
それが彼女の“本当の顔”なのだろうか。
光希は、立ち尽くしたままその光景を見ていた。
声をかけようか迷ったが、何もできずにその場を離れる。
帰り道、心の中に妙なざわつきが残った。
(俺は、あの笑顔に…何を見てるんだろう)
⸻
次の日、教室。
いつものように柚月はクラスメイトたちと楽しそうに話しながら、学園の中で目立つ存在だった。
彼女の明るい笑顔と元気な声は、周りの空気を一瞬で和ませる。しかし、その笑顔の裏側に何かが隠されているように感じる光希は、どうしても心の中でそのことを引きずっていた。
授業が始まり、しばらくして光希は再び視線を向けた。
窓からの光が柚月の髪を輝かせ、教科書に目を落としているその姿は、確かに明るくて、他の誰にも負けないほど輝いていた。しかし、どこか不安定に見えた。
(どうして…あんなに笑っているのに、心のどこかに影を感じるんだろう)
そのとき、彼女の笑顔が一瞬だけ歪んだような気がした。
クラスメイトとの会話が盛り上がる中で、急に何かに焦ったような表情を見せ、すぐにまた普段通りの顔に戻る。その瞬間を光希は見逃さなかった。
(…あれ?何か、変だ)
心の中でその疑問を引きずりながらも、昼休みが過ぎ、放課後になった。
光希はいつものように帰ろうとしたが、教室を出る直前に、ふと柚月が立ち止まったのを見かけた。彼女は他の生徒たちが外に出ていく中で、何かを考え込んでいるようだった。
やがて、急に何も言わずに教室を出て行った。
(また…どこかへ行くのか?)
光希はそのまま柚月を追いかけることに決めた。
あまりにも突然のことで、胸の中で不安と好奇心が交錯していた。
少し離れた距離で、彼女の後を追いながら、またもや見てしまった。
彼女は学園の裏手にある小さな公園で立ち止まり、ふっと深いため息をついた。そして、バッグから小さな財布を取り出し、そこから何枚かの硬貨を取り出した。
その硬貨を使って、古びた自動販売機からジュースを買い、そのまま公園のベンチに座った。
光希は、その姿をただ見守るしかなかった。
あの笑顔の裏に、こんなに静かで寂しげな時間が隠されているとは思わなかった。
まるで、柚月の輝きが終わりを告げたような、少しの沈黙がそこに流れていた。
そのとき、柚月がふっと顔を上げた。
「…あれ?誰かいたの?」
振り返った柚月が、少し驚いた顔で光希を見つけた。
光希は慌ててその場から逃げようとしたが、すぐに彼女が追いかけてきた。
「…光希君?」
「あ、いや、何でもない。ちょっと…」
彼は自分の言葉が何か不自然だと感じたが、言葉を続けることができなかった。
柚月がじっと彼を見つめる。
「…もしかして、私が何か変だった?」
その一言に、光希は一瞬、言葉を詰まらせた。
「…いや、そうじゃなくて」
「でも、君が気にすることじゃないよ。私は大丈夫だから。」
その言葉にはどこか強がりのようなものが感じられた。
光希はそれを感じ取ると、口を閉ざした。
「でも、あんまり無理しない方がいいよ。」
その一言を口に出したとき、自分でも驚くほどに心が動かされた。
柚月はそれをどう受け取ったかはわからなかったが、少しの間、無言で彼を見つめた後、ようやく微笑んだ。
「ありがとう、光希君。でも、心配しないで。本当に大丈夫だから。」
その後、彼女は軽く笑って立ち上がり、また自分の歩調で歩き始めた。
光希は、しばらくその後ろ姿を見つめながら、心の中でひとつの思いを抱く。
(俺も、もっと彼女に気づいてやらなきゃな。)
でも、何を言えば彼女をもっと理解できるのか、光希にはまだわからなかった。