02隠された微笑み
教室は昼休みの喧騒に包まれていた。笑い声、机を叩く音、お菓子の袋が開く軽い音。そんな中、神谷光希は窓際の席でスケッチブックを開き、静かに鉛筆を走らせていた。けれど、今日は妙に集中できなかった。
(今日は、来なかったな……)
自然と視線が教室の入り口に向く。だが、柚月の姿はなかった。
「柚月さん、今日またどこか行ってるのかな? そういえば、よく昼休みいないことあるよね」
近くの女子が何気なく言った。もう一人が小さく頷く。
「うん。誰かと会ってるとかじゃなさそうだけど……どこに行ってるんだろ」
「保健室かな? たまに行ってるって聞いたことあるけど」
「たしかに、体調悪そうってわけでもないけどね。授業中とか普通に元気だし」
「うーん、でもよく気が利くし、先生に頼まれてること多いのかも」
神谷は耳を傾けながらも、特に表情を変えなかった。ただ、その言葉の端々が、昨日の「今日は用事があるから」という柚月の言葉と重なっていた。
(……やっぱり、何かある)
言葉では説明できない違和感が胸に引っかかっていた。クラスで明るく振る舞い、誰とでも気さくに話す彼女。しかし、よく見るとふとした瞬間に消えるようにいなくなる。その理由を、誰も深く追及していない。けれど、神谷の中では、なぜかそれがずっと気になっていた。
スケッチブックの端には、昨夜描いた子どもと女性の後ろ姿があった。自分でも理由はわからない。でも、何かが引っかかって、そのイメージを形にしてしまった。
(……偶然じゃないのかもな)
描いた人物の輪郭が、どこか柚月に似ているような気がして、そっとページを閉じた。
⸻
その日の放課後、神谷はいつものように人のいない裏道を通って帰っていた。夕日が差し込み、アスファルトの影が長く伸びている。
(……描きたい気分じゃない)
鞄の中にあるスケッチブックを思い出してため息をつく。あの絵の続きを描こうとしたが、手が止まったままだった。柚月のことが気にかかって仕方がない。
ふと、曲がり角の向こうから、見慣れたシルエットが現れた。
(……高瀬?)
帽子を深くかぶり、少し大きめのバッグを肩にかけた柚月が、急ぎ足で住宅街の方向へ向かっていた。学校とは違う雰囲気。制服の上に地味なカーディガンを羽織っている。
咄嗟に隠れるように、神谷は角の陰に身を潜めた。
(……何をしてるんだ?)
興味本位ではなかった。ただ、彼女がどこか無理をして笑っているように感じた。そんな“違和感”が、足を動かす理由になった。
数分後、柚月が入っていったのは、町外れの古びた保育園だった。神谷は遠くからその様子を見つめる。園庭には数人の子どもたちが遊んでおり、柚月はその中に混ざって笑顔で声をかけていた。
(……保育園?)
彼女が子どもを抱き上げる姿、膝をついて目線を合わせる姿が、ガラス越しに見えた。その表情は、学校で見せるものよりもずっと優しく、自然だった。
(バイト……か?)
そのとき、保育園の裏口から出てきた年配の保育士が、柚月と会話を交わす様子が見えた。何かを手渡され、柚月が丁寧に頭を下げている。
(……給料?)
神谷はそこでようやく気づいた。彼女は、家庭の事情で働いているのだ。放課後、笑顔の裏で何かを抱えていた理由が、少しだけ見えた気がした。
そのまま立ち去ろうとしたとき、突然視線が合った。
ガラス越し、まっすぐにこちらを見ている柚月の目。
――バレた、と思った。
だが、柚月は驚く様子も、怒る様子も見せず、ただ少しだけ困ったように微笑んだ。そして、そっと右手を小さく振った。
神谷は思わず視線をそらし、その場を足早に離れた。
(……なんなんだよ)
胸の奥がざわついていた。知らなければよかったわけじゃない。知ってしまったことで、自分の中の何かが変わり始めている。
夜、自室でスケッチブックを開いた神谷は、今日の柚月の姿を思い浮かべながら鉛筆を走らせた。そこには、優しく子どもを抱く少女の姿が描かれていた。
その絵は、昨日までとはまるで違う“あたたかさ”を宿していた。
⸻
翌日、神谷はいつものように一人で教室に向かっていた。足早に歩きながらも、昨日のことが頭から離れない。柚月のこと、そして彼女が抱えているであろう事情が、無意識のうちに心を占めていた。
(……本当に、あんなことしてるのか。)
それでも、彼女の笑顔が印象に残っていた。あの時の微笑み。少し困ったような表情で手を振った姿が、何故だか胸に引っかかる。
教室に入ると、柚月はいつものように元気よく「おはよう!」と声をかけてきた。だが、その目には少し疲れたような影があることを神谷は感じ取った。
「あ、おはよう。」
神谷は無意識のうちにその目を見つめてしまったが、すぐに目をそらした。
「昨日、変なところで見かけちゃったけど……」
柚月は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「ああ、あれね! 昨日、ちょっと用事があってね、バイトしてるところだったんだ。気にしないで!」
神谷はその言葉に少しホッとする。しかし、心の中ではやはり何かが引っかかっていた。バイトと言っても、どうしても不自然な部分がある。
その後の授業中、神谷は何度も無意識に柚月を見てしまう自分に気づいた。彼女はいつも笑っているけれど、その笑顔に裏があるように感じる。
放課後、教室が静まり返ると、柚月が一人で出て行こうとした。鞄を肩にかけながら、急いで足早にドアを開ける。
「今日はどこか行くの?」
神谷が問いかけると、柚月は一瞬だけ立ち止まり、振り向いた。
「うん、ちょっとね。」
そのまま無理に笑顔を作ってみせたものの、すぐにまた背中を向けて歩き出す。
神谷は少しだけ躊躇した後、足を踏み出す。
「待てよ。」
驚いたように柚月が振り返る。
「……その、今日は何か用事があるなら、手伝えることはないのか?」
自分でも驚くほど自然に口を開いていた。あまりにも素直に言葉が出てきたため、神谷は心の中で動揺する。
柚月はその問いに少し戸惑った様子で、しばらく黙っていた。そして、再び微笑みを浮かべて答える。
「ありがとう。でも、今日は大丈夫だよ。……あ、でも、もし今度困った時があったら、お願いしてもいい?」
神谷はその言葉に心が少し温かくなった。彼女がそう言ってくれたことで、何かが少しだけ繋がったように感じた。
「うん、もちろん。言ってくれれば。」
柚月はもう一度ありがとうと笑ってから、歩き出す。神谷もそれに続いて歩きながら、心の中で何かが少し変わっていくのを感じた。
⸻
その夜、神谷は自室でスケッチブックを広げた。手は自然と動き、昨日見た光景を描き始める。
今日は、柚月の笑顔を描いてみようと思った。優しく、でもどこか寂しげな彼女の笑顔。笑顔の裏に隠れた“何か”を描きたかった。おそらく、それが今の自分にとって最も大切な一歩だと感じたから。
鉛筆を走らせるうちに、絵の中の柚月の表情がどんどんリアルになっていく。その笑顔には、どこか隠された涙のようなものが感じられる。少し悲しげな色合いがその絵に溶け込んでいた。
(……何だろう、この感覚。)
神谷は気づくと、スケッチブックの中に描かれた柚月の絵に見入っていた。何かが胸を締めつけるような感覚があり、気づけば彼の目に少しだけ涙が浮かんでいた。
それが何なのかは分からなかった。ただ、柚月が感じているであろう辛さ、そしてそれを隠して笑っている姿が、どうしても心に突き刺さった。