01静寂に広がる小さな波紋
柔らかな日差しが白いカーテン越しに揺れ、ノートに走るペンの微かな音だけが教室を支配していた。主人公は窓際の席に座り、無表情で授業を受けている。その周囲では、クラスメイトたちが談笑しており、主人公と彼らの間に見えない壁が感じられる。主人公がふとノートの隅に落書きを始めると、その緻密さと美しさが際立つ。
白く無機質なリビングの片隅には、数冊の分厚い研究書と資料が雑然と積まれている。その横で両親はパソコンの画面に集中し、食事時以外はほとんど会話がなかった。主人公は一言も声をかけられることなく自室に戻り、机に向かって静かに絵を描く。部屋は薄暗く、描かれる絵は抽象的だが、どこか孤独を感じさせる色合いが特徴的。主人公が筆を置き、ため息をつく様子がアップで描かれる。
教室は昼休みの賑やかさに包まれていた。笑い声や雑談が飛び交う中、神谷光希は窓際の席で静かにスケッチブックを広げていた。他の生徒たちとは距離を取り、誰にも邪魔されないように目立たない存在であろうとしていた。
「なあ、神谷の家ってすごい研究者一家なんだろ?」
背後から聞こえる声に、彼の手が止まる。何気ない好奇心で投げかけられた言葉に、神谷は無言でノートを閉じた。目を上げると、視線が合ったクラスメイトは少し気まずそうに笑い、話題を変える。
(放っておいてほしい…)
光希は心の中でそう呟き、窓の外へと視線を向けた。どこまでも晴れ渡る青空とは対照的に、胸の奥に重りのような孤独感が沈殿していた。それは、期待という名の見えない鎖に縛られているような感覚だった。
光希の家は、地元でも有名な研究者一家だった。両親はそれぞれ異なる分野の第一線で活躍しており、世間からの期待を一身に背負っている。幼い頃から、光希も「将来は研究者になるべきだ」という暗黙の了解の中で育ってきた。
実際、光希もその期待に応えようと努力してきた。だが、気づいてしまったのだ。それは自分の望む道ではないことを。
(ここなら誰も気にしない。)
彼は教室の片隅で、誰にも見せるつもりのなかった世界を描き続けていた。鉛筆の動きに集中し、周りの喧騒を意識から遮断していく。それが彼にとって唯一の安らぎだった。
そんな中、突然声が飛んできた。
「わあ、それすごい!神谷君、こんな絵描くんだ!」
驚いて顔を上げると、そこには同じクラスの高瀬柚月が立っていた。彼女は鮮やかな笑顔を浮かべ、スケッチブックを覗き込んでいた。
「…なんで見るんだ。」
神谷は思わず手でスケッチブックを閉じ、冷たい口調で返した。
「え、ごめん。でも本当にすごいと思って。」
高瀬の目は本気で感心しているようだった。だが、神谷にとってそれは迷惑でしかなかった。
「別に。趣味で描いてるだけだ。」
「でも、こんなに上手なのに見せないのはもったいないよ。」
神谷は少し苛立ちながら、深く息をついた。追い払うためには、彼女の興味を完全に失わせるしかないと思った。
「どうしても見たいなら、ほら。」
わざとスケッチブックを広げ、無造作に彼女の前に差し出した。
そこには彼が描いた細密な風景画があった。繊細なタッチと独特の色彩感覚が特徴的なその絵は、明らかにただの趣味を超えた完成度だった。
彼女は目を輝かせながらじっと見つめた。
「…本当にすごい。こんなの描けるなんて、天才じゃない?」
その反応に、神谷は内心で少し戸惑った。絵を見せれば興味を失うどころか、さらに関心を持たれてしまったのだ。
「ただの暇つぶしだ。そんな大げさに言われても困る。」
彼はぶっきらぼうにスケッチブックを閉じ、立ち上がった。
「それだけなら、もう行ってくれないか。」
「あ…そう?」
柚月は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「じゃあ、またね。」
神谷はホッとしたようにため息をつき、再び席に座り直した。だが、彼女が教室を出て行った後も、なぜか胸の奥にざわつきが残った。
(なんなんだ、あいつ。)
その夜、神谷は家でスケッチブックを広げた。しかし、描こうとする手が止まる。柚月の言葉が頭の中で反響していた。
「もったいないよ。」
自分の描いた絵が誰かに感心されるなんて想像もしていなかった。その一言が、硬く閉じた心の扉をノックしているように感じられた。
翌日、昼休みになると神谷はいつもの空き教室に向かった。人目を避けて一人で絵を描くための場所だった。だが、ドアを開けた瞬間、見覚えのある姿が目に入った。
「また会ったね!」
柚月が明るく笑いながら教室の中央に立っていた。
「なんでここにいるんだ。」
神谷は思わず声を荒げた。
「昨日の絵が気になって、もっと見たいなって思って。」
「…しつこい。」
柚月は気にする様子もなく、神谷のスケッチブックを指差した。
「見せてよ。それとも、今日は描いてないの?」
彼女の態度に、神谷は深いため息をついた。
「どうしてそんなに俺に構うんだ。他にもっと楽しいことがあるだろう。」
「んー、なんでだろうね。神谷くんの絵が素敵だから…かな?」
その言葉に神谷は言葉を失った。自分の中でただの趣味だと思っていたものが、他人にとって「素敵」と言われるのが、どうしても信じられなかった。
「まあ、今日は用事があって行かなきゃいけないから、邪魔しないよ。でも、また今度、見せてね。」
そう言って、柚月は軽い足取りで教室を出て行った。その背中には、何か秘密めいた影が見えた気がした。
そう言って、柚月は軽い足取りで教室を出て行った。
彼女がいなくなった後、神谷はスケッチブックを開いた。だが、描こうとした手が再び止まる。
(…もったいない、か。)
その言葉が心に引っかかり、描きたいものがぼんやりと形になっていく。彼は無意識に鉛筆を握り、キャンバスに向かって線を描き始めた。その線は、昨日とはどこか違っていた。鉛筆が生み出す微かな響きの中に、新しい何かが生まれ始めていた。
夕方、学校の廊下に響く足音の中、神谷はカバンを肩にかけて静かに歩いていた。後ろから聞こえてきたクラスメイトの声が耳に入る。
「また今日も真っ先に帰ったね。」
「柚月って何か事情あるのかな?学校ではめっちゃ付き合い良いんだけどね。」
「うん、時々家の用事とか言うよね。でも、家のあんまり詳しいことは話さないし。」
その会話に神谷は一瞬足を止めた。反射的に振り返りかけたが、すぐにその場を離れる。
(…気にする必要なんてない。)
そう自分に言い聞かせるように歩き出したが、どこか胸の奥に引っかかりが残っていた。