87 夜が明けて…
カシルが去ってから、エルオの丘の外の時間でおよそ2時間弱が過ぎ…
空が薄っすら白み始めて来た頃に、まずマリュとナユが、リンナによって密かにティリのカシルの家族が勤める病院の個室へと移動した。
次いで、リュシと共にトウとセランがレノのコロニー内の自宅へと戻され…
最後に…
エルオの丘を出る前にどうしてもヨハにリクシュを見せたいとのヒカの強い要望に母のエイメとフィナに寄り添う形でマナイの丘に行った後、かつてヒカやヨハが治療を受けていた研究所の部屋へと彼女等は移動した。
そして、直後に入れ替わるようにハンサが…
逝去したセダルの身体を成就の間に移動してから、初めてエルオの丘の中に足を踏み入れた彼は…
「……」
まだ日は昇り切らず薄暗い内部は、セダルの生前の面影を其処彼処に感じ…通路の先からヒョイッと彼が顔を出して来そうで…
だが、そんな事は二度とないのだと自分に言い聞かせる度に、彼は何度も視界が潤みそうになるのだった。
ハンサ自身、まだ気持ちの切り替えなんて…全然出来ていないのに…
悲しむ間もなく、ミアハは大きな危機を前にして、時代の転換期に突入していた。
そしてハンサは…
ゴクッと唾を飲み込み、覚悟を決めて例の資料室のドアを開けた。
…なんだか…長いようで短い…
いや、短いようで長い…?
奇妙な感覚の3年だったな…
どこかふわふわと地に足が着いていないような…微妙な余韻を切り替える為に、トウは帰宅してとりあえずシャワーを浴びる事にした。
「うわっ!」
まだ水だった部分が胸にかかってビクンと身体が反応して…
ああやっと普通の日常に戻ったんだな…と、彼は冷たい水の感覚に覚醒したような気分になり、思わず苦笑した。
でも…
なんだか特別で大切な時間が終わってしまったみたいな不思議な寂しさも同時に込み上げて来たり…経験した事のないような妙な余韻に戸惑ってもいた。
それにしてもセランが…いつの間にかあんなスムーズにヒカと会話していて…
あれは夢だったのかな?って本当に心配になって来るけど…
でも…カシルさんがいなくなった後のセランはすっかり塞いでて…
そんなセランの落差に、やっぱり現実か…ってなんでだか思ってしまった。
「庭の様子を見て来る…」
とだけ言ってさっきセランは外に行ったみたいだけど…あれから口数が極端に少なくて…
シャワータイムを終え衣服を着替えながら、なんだか無性にセランが心配になっていたトウに、
「え?……ええ〜!お兄ちゃん、ちょっと来てぇ〜〜!」
というセランの叫び声が聞こえて来た。
「セラン?…何?どうした?」
と言いながら、彼は慌てて廊下を飛び出してセランの声のする方へ駆けて行く。
すると…
「お、お兄ちゃん…あれ…お兄ちゃんにも見えてる…?」
おそらくセランが投げ出したであろうジョウロが、尻もちをついたように座っている彼女のすぐ脇に転がっていて…
「え…?」
セランの指さす方を見て、トウは絶句した。
「…イトリアさんはとりあえず無事ですよ。この後に彼女をどうするかは、ウェスラーさんが交渉の場に出て来るまでは様子を見るような感じで、おそらくそのタイムリミットは1週間…いや5日くらいかな?それまでに解決出来ればいいんだよ。」
行方不明になったイトリアの現状と近い未来を、エンデは憔悴しきったトバルを励ますように告げる。
「…ただ……」
エンデはそんなトバルにもう1つの情報を伝えるべきか躊躇するが…意を決して、
「彼等は既にイトリアさんを連れてテイホ国内に入ってしまった。ウェスラー政権とテイホ国との摩擦を生ませたい目的があるのは間違いないかな。」
と告げた。
「…やはりそうか…クソッ、私が油断したばかりに…」
トバルは悔しそうに、自身の大腿部を拳で何度も叩く…
「トバルさんの気持ちは分かるけど、畏れながら…イトリアさんが少々不用意だったように見えるかな。でも幸い、ウェスラーさんとアイラさんの意思疎通は上手く取れているようだから、今は例の計画を進める為に、トバルさんはこの建物の住人でもあるご家族の警護に集中して欲しいです。」
「…分かった…」
「…アイラさん側はある意味、グエン政権崩壊の切り札を手に入れたも同然だから…これは心理的に追い詰められつつある彼等の最後の賭けなんだと思う。僕が今あなたに言える事は、何があっても平常心を保って欲しいという事なんだ。」
「……」
そっと肩に置かれたエンデの手を、トバルは無言でギュッと握り返す…
トバルの心痛と後悔は、既に表情だけで誰でも読み取れるくらいだった。
無理もない…
やっと過去の悲劇を乗り越えた親子が…ここでまた悲劇を繰り返したら…
これであの子に何かあったら…ウェスラーさんは政治の世界から退いてしまいかねないし…精神を病んでしまう可能性も…
「…嬢ちゃんが浮かれてたのも無理はないんだ。ずっと想っていた相手から求愛を受けて…ボスに報告を兼ねて3人で食事をした翌朝の事だったからな…」
…ああそうか、その彼は…
当時の映像が見え、イトリアの相手は以前…自分を殴った秘書の男と分かり、エンデは心の中で苦笑した。
彼も今現在、官邸の方にウェスラーといて、トバルに負けず劣らず憔悴しているようだった。
イトリアはその日たまたまフロアのゴミをまとめて、自ら外のゴミ置き場に捨てに行った…
誘拐はその早朝のごく数分の間の出来事だったのだ。
その日のイトリアのゴミ捨ては本当にたまたまで、いつもの行動ではない。
なのに…
その僅かな時間に奴らはレベンを使って、イトリアは監視カメラの死角に移動させられていた。
こちらの警備がやや手薄になる微妙な時間帯に手際良く動けたのは…
この件に例の男の能力が介在してるのは分かる。
我々ミアハ系とは異質の力…さほど強くはないが、イトリアが連れ去られた現場辺りには、当時は特殊な装置が数カ所置かれていたようで…
ミアハの長老の力が弱まり、エルオの丘の中がヨハの力を受け入れる為の準備として起こる磁場の緩みと、その彼等の装置のせいで、タニアやヨルアやエンデのセンサー力が彼等を把握し難くなった時間帯を上手く狙った計画だったようだった。
…もしかしたら…マーキングして後に上手くその人を操るような、ヨルアに似た力を彼等の仲間の誰かが有している可能性ものある…
そう…あのテオという男は、壮絶な環境で長年鍛えられた奸智で人や状況を上手く自分に有利に使う事に長けているのだ。
それだけでもかなり厄介な存在だが、彼のより面倒で警戒が必要な部分は他にある…
彼の問題を根本的になんとかする為には、ラフェンの力が必要なのだが…彼の友人であるレベンを巻き込む辺り、本当に厄介な奴だと痛感するエンデ…
「…今回の件は、ウェスラーさんの周辺の人達の心理的ダメージを狙って動いてるから、動揺は相手の思う壺なので…常に冷静な対処が鍵だと思う。」
「…なるほど…」
「…実は…それは僕にも言える事なんだ…」
そう言ってエンデは少し顔を顰めた。
「…そいつはお前にも何かしたのか?」
「…かなり昔……ね。実はあの赤毛のカリナも奴の被害者だよ。」
「かなり昔…?…そいつの歳は結構いってるのか?」
「…何歳かは…答えるのはちょっと難しい…見た目は20代後半くらいに見える…」
と言って、エンデは耳を弄りながら身体を近くの壁に向ける。
と、エンデの耳の辺りから光が放たれ…
その光の当たる壁の面に2人の人物の映像が映し出された…
「…ああ…確かに…まだ若そうに見えるな。この2人が主犯格という事か?」
「…そうなんだけど…右側の男の方がかなりやばい。隣の奴は腐れ縁みたいな感じでその男に振り回されている存在かな。でもかつてテイホ国の軍隊で訓練を受けていた経験があるみたいで…実際の作戦の仕切り役になってて油断は出来ない。その左側の奴は僕達でなんとかするから…トバルさんは彼等に構わず、ひたすら家族や仲間を守る方に徹して欲しいんだ。」
「…右側の男は…?」
「あいつは現場には来ないし…今はグエンによって同じ建物の中にほぼ軟禁状態だから…それにあいつはある事情から何があっても殺せないから、テイホに待機している味方がなんとかすると思う。」
「…なんとかって…それに…どうやら息子が…さっきからライアンがいないんだが…」
息子のライアンの事もあり、トバルは混乱してしまっているようで…
「あ…そうだね…トバルさんには最初に伝えるべきだった…ごめん。彼は大丈夫だよ。大切な用事で今はアイラさんの側にいるんだ。」
「…大切な…?…」
トバルは何かを察し、改めてエンデを見る。
「……くれぐれもよろしくな…」
どこか切実さが籠る目でトバルは彼に軽く頭を下げた。
「…僕はあまり関わっているない件だから…頭なんか下げないで。それに関してはアイラさんと赤毛のカリナが動いてるよ。…もしかしたら、これからもっと強力な味方が出て来るかも知れないし…今は上手く行く事を信じてこちらの計画を進めて行くしかないよ。僕も…ミアハの為にあらゆる可能性を諦めていないんだ。」
「…そうか。色々ありがとな…」
今日は終始発言がどこか弱々しいトバルの、鍛え上げられた太くて硬い腕に、エンデは思わず軽く触れる。
「イトリアさんを助けつつ、あいつ等をなんとかする事は、きっとミアハの良い未来を引き寄せると僕は思ってるから…お礼なんていいよ。一緒に頑張ろう?」
「…そうだな…ボスからはしばらく連絡がない…つまり、ここで俺のやるべき事を予定通り全うしろって事だ。」
不意に子供の泣く声が聞こえて来たすぐ横の壁を見つめながら、トバルは力なく笑った。
「…そうだね。きっとイトリアさんは元気に戻って来るし、ライアンさん達も……皆んなが笑っている未来を頑張って引き寄せようよ。」
…タニアちゃんは今、あの元天敵と一緒にテイホにいる…
タニアちゃん自身はもう普通に彼女と交流しているし、アイラさんやケントさん達の指示の元でテオ達を追い詰めて行く作戦の中、連携して行動しているけど…
あの元天敵は、未だタニアちゃんにきちんと謝っていない…
だから、僕はそれまでは彼女を本当の名で呼ぶつもりはない。
でも現状…唯一あの男に対抗出来る力を持つ2人だから…
仕方ないんだけど…
危険な任務を成り行きで負わされているタニアちゃんが心配で…気が気ではないのだ。
でも、悔しいけど僕はタニアちゃんの代わりは出来ない。
ここでやれる事を頑張るしかない…
そしてその先に…
「近い未来…僕もトバルさんとこに家族を連れて遊びに行きたいしさ…」
「え?…」
トバルは思わず顔を上げてエンデを見る。
だが、エンデは照れ隠しのようにスッとトバルから離れて背を向け、窓際に近付く…
「…なんだよ…お前もそんな年頃か…俺も歳取るわけだなぁ。」
トバルは嬉しそうにエンデを視線で追いながら反応する。
「…まだちゃんとお付き合いしているとは言えない状態なんだけど…色々難しい問題がどうにか解決したその先に…絆を育んで家族になって行けたらって思ってるんだ。だから…」
ごめんね…タニアちゃん…
まだ僕はどの程度まで見えなくなるのかよく分からない…
だから…正直、このまま君の側にいていいのか…まだ迷っている。
だけど、今の僕はそうやって君との未来を夢見て自分を奮い立たせないと…
不安に潰されそうで、何も考えられなくなりそうだから…
…今だけでいい。
僕に少しだけ夢を見させて欲しい…
「…お前の声には…迷いが混じってるな。…何か訳ありか?でも願いは本当だろ?」
トバルはそのままの距離感で、鋭い指摘をして来る。
うっかりトバルの能力を忘れていたが…まだ彼の感度は衰えておらず、どこかでホッとするエンデ…
「…うん…そんなところかな…」
「…じゃあ…言ったからには叶えろ。俺はお前を応援するぞ。」
…ああやっぱり…じいちゃんみたいに暖かい人だな…
「…うん…」
胸に熱いモノが込み上げて来て…
窓の外に不審な通行人を確認しながらも、少しの間トバルの方を向けないエンデだった。




